11 / 14
第十章 刀・逃・闘と時は過ぎ
しおりを挟む
それから。それからどうしたっけ? まとめようとした考えは、戸のきしむ不気味な音で四散した。寝る前、確かに閉めたはずの扉が薄く開いていた。隙間から廊下の暗闇がのぞいている。
そして、その闇に浮かぶ白い霧。その霧は、風に流れる煙のようにゆっくりと、病室の中に入り込む。そして中空で大きな塊になった。
「あっ……」
その煙は、少しずつ形を変えていく。沓が現われ、長い袴をはいた足が現われる。
あの、通り魔だ。鈴。鈴はどうしたっけ。真菜は震える手で必死に懐を探す。ない。ベッド傍の台の上は? ない。枕元を探し始めて、空也が持っていったことを思い出す。
人型は、もう腰のあたりまであらわれてきている。細かなツタの模様が入った布でできた狩衣。その胸が、肩が、そして顔があらわれた。
「いや、か、母さん!」
からからに乾いた喉からでたのはとても小さな声だった。通り魔の姿を見据えたまま、隣に眠る母の肩をゆさぶる。
「ん、なんです真菜さん」
母が目をこすりながら起き上がった。真菜の指差すほうにのろのろと顔をむける。
「ひ、ああ」
あまりのことに母も悲鳴をあげることができなかったようだ。怨霊はいつのまにか刀を握っている。
二人は抱き合いながら座ったままずるずると寝台の端まで下がっていった。
幽霊は、ゆっくり、しかし確実に真菜達のもとへ近づいてくる。真菜は身を固くした。
「えい!」
真菜は手近にあった花瓶を投げつける。刀夜は避けもしない。花瓶は刀夜の体を通りぬけ、水を振り撒きながら床に落ちて割れた。枯れた花が散らばる。幽霊は、眉一つ動かさないで刀を振り上げる。
「きゃっ」
真菜はのけぞった。その拍子に、壁とベッドの隙間に落っこちる。刀が空中をないだ。伶が甲高い悲鳴を上げた。
「だ、誰か……」
足が震え、立つことができなかった。傷が開き、肩が暖かな血で濡れていく。体が動かない。白い布が、頭に浮かんだ。昼間、空也と見た、隅に血のついた白い布が。
「誰か助けて……っ!」
猫のようにやわらかく笑う幼ななじみの男の子の顔が浮ぶ。
「真菜さん!」
そのとき、バンッ! と戸が開け放たれた。
「空也さん?」
よろよろと立ち上がった真菜は顔を輝かせた。しかし、すぐにその顔から笑顔が消える。
「大丈夫ですか真菜さん!」
「う、浦雪さん、なんであなたが!」
戸口に立っていたのは浦雪だった。寝ている所を急いで出てきたらしく、紫のド派手な
パジャマを着ている。
「あの寛次とかいう警官が宿に来て、真菜さんが危ないと。すぐにどこかに走りさって行きましたが……」
「なんでこの人なの、寛次さぁん!」
泣き笑いのように真菜は言った。
「ううう、浦雪さん。貴方の奥さんになる人よ。真菜を、真菜を助けなさい!」
伶菜が震える声で言う。ゆっくりとベッドを降りて、娘を守ろうと真菜の隣へ這っていった。
ゆらりと部屋の空気が動く。そういえば、ここは外より寒い。その気配に気づいた浦雪は病室の真ん中に目をこらす。
能のような格好をした、白い人。体が透けて、後ろで怯える真菜の姿が見えた。あきらかにこの世のモノではない。そして、その手に持っているのは、長い刀だった。模造等や安物ではないことはしろうとでもよくわかる。ほんのわずか、曇っているのは人の脂のせいだろうか。
作り物めいてみえるほど整った顔がこちらをむいた。白い瞳が、浦雪をとらえる。確かに、目が合った。
「ひっ」
浦雪は後ずさった。どうしよう。ほんの数秒の間に、浦雪の頭に色々な考えがよぎっては消えていく。
(確かに、真菜さんは魅力的な女性で、奥さんにできればそれはそれは嬉しいことだけれど、そのためにはここであの幽霊の前に出て盾になったりしないと印象悪いだろうな。けどむこうは刀でこっちは丸腰だ、無理、無理、絶対死ぬって。まあ刀を持ってたからといって使えないけどさ。結局はどっちを選ぶかだ。ここで真菜を得るために前に出るか、自分の命を守るために退くか)
「真菜さん!」
叫んで、浦雪はくるりときびすを返した。
「警察に連絡してきます!」
「ちょっ、浦雪さん! 逃げた!」
真菜が叫んだときには浦雪は走りさっていった。
「あ、あ」
伶菜と真菜の背が、壁にぶつかった。親子は抱き合って身を固くすることしかできなかった。刀夜は再び刀を振り上げる。窓から差し込む月明かりで刃が冷たく輝いた。銀の光が空を切る。
気がつくと、真菜は近づく刃にむかっていた。伶菜をかばい、大きく両手を広げる。母さんは殺させない。もとはといえば、自分が通り魔に会ったのが原因だ。母さんを巻き添えにするわけにはいかない。
遠くで、母の悲鳴を聞いた気がした。空也さん。どういうわけか、その名前が痺れた頭に浮んだ。
「……!」
振り下ろされた刀の風圧に、髪の毛が少しゆれる。しかし、それだけだった。覚悟していた痛みはない。いつの間にか目を閉じていたようで、目の前は真っ暗だ。何も聞こえず、静かだった。
真菜はおそるおそる目を開けた。少し勇気がいった。実はもう切られたあとで、足元に三途の川が流れていたらどうしよう。
覚悟を決めてゆっくりと目を開ける。三途の川は流れていなかった。足の近くにいたのは人ならぬ殺人鬼だった。刀を握ったまま、力なく両膝をついている。苦しんでいるようにも、祈っているようにも見えた。
「いったい何が…… 鈴もないのに」
怨霊の白い唇から、冬の風のように虚ろな声が漏れる。
「サヤ」
大キク広ゲラレタ腕。ヒルガエル袖。ドコカデ見タ気ガスル。
「サヤ」
ナニカ、大切ナ物ノ名。シカシ、何ノ名ダ? ワカッテイルノハ、ソレヲ目ノ前デ無残ニ壊サレタ事ダケ。
刀夜は、髪をかきあげるようにして頭を押さえた。まるでみえない何かを振り払おうとするように、座った格好のままで刀を振り回す。
「真菜さん」
母が小声で話しかけてきた。
「今なら、あの化物の横を通って逃げられるわ」
「で、でも」
たしかに、あの男が動かない限り、斬られる範囲は相手の腕の長さと刀の長さ分だけだ。でも、化物が正気に戻って襲いかかってきたら?
「いいから! このままここにいても仕方がないでしょう!」
母が背を押す。
真菜が先頭に立って、壁に背を押しつけたままゆっくりと右へ体をずらしていく。そのまま壁に沿ってベッドから遠ざかり、そろそろと戸口にむかう。刀夜は刀を振るのをやめ、うなだれたまま、動かない。
二人は、白い幽霊の真横に差し掛かる。息を殺さなければ。真菜は呼吸を抑えようとした。しかし、そう思えば思うほど、肺が苦しくなって息遣いが荒くなる。鼓動が痛いくらいに高鳴った。
ぴしゃりと小さな水音がして、真菜のつま先が濡れる。さっき投げつけた花瓶の水が床に散っていた。滑らないよう、震える膝に力を入れる。
「きゃああ!」
派手な音を立て、ひっくり返ったのは後の母だった。
白い影は、そろそろと頭をもたげた。両膝が床から離れる。長身が完全に立ち上がった。
そして真菜の恐怖を煽ろうとするように、ゆっくりと振り返る。解けていた髪に隠れていた頬が、唇が、鼻筋が見え、両方の瞳が真菜達を捉え……
「ひ、いやぁ!」
母娘はそろって悲鳴をあげた。
男の姿が消える。一瞬、真菜の視界が真っ白になった。視点を合わせられないほど近くに、幽霊が立っていた。
そのとき、叩きつけるような勢いで扉が開いた。
「大丈夫ですか、真菜さん!」
「空也さん!」
ちりん、と鈴が鳴る。空也は帯に指していた鞘をすばやく外す。白い光が鞘からあふれだした。
白い光は、女性の姿を造りながら刀夜の前へ飛んでいった。
「刀夜様。おやめください!」
しっかりと沙耶は刀夜に抱きついた。
「大丈夫、沙耶はここにいます。もう人を恨まなくてもいいのですよ」
刀夜は刀をぎくしゃくと下ろした。まるで初めて触れる言語を聞き取ろうとするように、沙耶の言葉に聞き入っているように見えた。
真菜は空也に駆け寄る。あれほど言うことを利かなかった足が今度はすんなり動いた。
「どういうことですか、空也さん。いったいこれは……」
「真菜さん、無事でよかった」
空也は大きく息をはいた。
「もう大丈夫です。沙耶さんが来てくれたから」
「沙耶さん?」
「ええ。鞘に取りついている幽霊です。刀夜さんの恋人だった人です」
空也は、沙耶に聞いたことを真菜に語った。沙耶と刀夜、二人の悲しい恋物語を。
「恋人を殺され、悪霊になった刀夜さんを、沙耶さんはずっと押さえていたんです」
沙耶は、まるで子供にするように刀夜の頭をなでていた。刀夜はなにが起こったのか分かっていないように、無表情だ。
「それが、何かのひょうしに離ればなれになってしまったんです」
しかし、それももう終わる。もう一度沙耶に会えたのだから。これから沙耶は、刀夜を鎮めながらずっと彼の傍にいるのだろう。刀夜の心の傷が癒えるまで。傍にいる自分に刀夜が気づき、共に行くべき所へ行けるまで。
空也はクスンと鼻をすすった。
「真菜さん」
娘が振り返るのを待って、伶菜は手を振り上げる。ぱん、と真菜の頬が鳴った。
「え……?」
どうして叩かれたのかがわからずに、真菜は泣くのも忘れて目をしばたかせた。
「あなたは、なんということをするのです」
伶菜の声が震えていた。
「子供が、親をかばってどうするのです。本当は私の背に隠れなければならないのに。母より先に死ぬこと、許しませんよ」
「は、はい」
真菜は涙を浮べて微笑んだ。
「でも、本当にこんなことがあるんですね。幽霊が人を襲うなんて」
玲奈が乱れた髪を整えながらいった。
「ええ、でももう大丈夫ですよ」
空也がむけた視線の先で、沙耶は微笑んでいた。
沙耶の細い右手が、刀の柄を握る刀夜の手に重ねられた。空いた手で、切っ先を鞘へ収めていく。刀のツバと、鞘の口の間に絹糸のような紫電が走った。刃をしまうにつれ、細い細い雷は少しずつ短くなっていく。
「さあ、私はここにいます。また一緒に眠りましょう。あなたの傷が癒えるまで、ずっとそばにいますから」
その様子を見守りながら、真菜が表情をくもらせる。
「しかし、悲しい話ですね。憎しみの塊になってしまうなんて」
「たぶん、大好きな人を助けられなかったのが悔しかったんだろうね」
空也は鞘に隠れていく刀身を見守りながら言った。何人もの血に濡れた、呪いの刀。それでも銀色の刃は美しかった。
「沙耶さんを殺した人も、助けられなかった自分自身も憎くて憎くてしょうがなくて。もう、沙耶さんは父さんのことを許しているっているのに」
もしも滝ちゃんが死んだ原因が、事故ではなくて殺されたのだとしたら。しかも自分の目の前で。そうしたら、自分はどうなっただろう。
もし、真菜が斬られていたら、こうやって封印されていく刀夜を静かに見ていられるだろうか。そんなことを思うけど、空也には見当がつかなかった。
「けれど、おかしいわ」
真菜がぽつりとつぶやいた。
「鈴の音が聞こえるなら、沙耶さんの声も聞こえるはずだわ。沙耶さんが恨みを持っていないこと、わかってもいいはずなのに」
沙耶がガシャンと鞘を取り落とした。刀夜が刀を振ったのだ。
「刀夜様?」
沙耶が不安そうに刀夜を見上げる。
そして、その闇に浮かぶ白い霧。その霧は、風に流れる煙のようにゆっくりと、病室の中に入り込む。そして中空で大きな塊になった。
「あっ……」
その煙は、少しずつ形を変えていく。沓が現われ、長い袴をはいた足が現われる。
あの、通り魔だ。鈴。鈴はどうしたっけ。真菜は震える手で必死に懐を探す。ない。ベッド傍の台の上は? ない。枕元を探し始めて、空也が持っていったことを思い出す。
人型は、もう腰のあたりまであらわれてきている。細かなツタの模様が入った布でできた狩衣。その胸が、肩が、そして顔があらわれた。
「いや、か、母さん!」
からからに乾いた喉からでたのはとても小さな声だった。通り魔の姿を見据えたまま、隣に眠る母の肩をゆさぶる。
「ん、なんです真菜さん」
母が目をこすりながら起き上がった。真菜の指差すほうにのろのろと顔をむける。
「ひ、ああ」
あまりのことに母も悲鳴をあげることができなかったようだ。怨霊はいつのまにか刀を握っている。
二人は抱き合いながら座ったままずるずると寝台の端まで下がっていった。
幽霊は、ゆっくり、しかし確実に真菜達のもとへ近づいてくる。真菜は身を固くした。
「えい!」
真菜は手近にあった花瓶を投げつける。刀夜は避けもしない。花瓶は刀夜の体を通りぬけ、水を振り撒きながら床に落ちて割れた。枯れた花が散らばる。幽霊は、眉一つ動かさないで刀を振り上げる。
「きゃっ」
真菜はのけぞった。その拍子に、壁とベッドの隙間に落っこちる。刀が空中をないだ。伶が甲高い悲鳴を上げた。
「だ、誰か……」
足が震え、立つことができなかった。傷が開き、肩が暖かな血で濡れていく。体が動かない。白い布が、頭に浮かんだ。昼間、空也と見た、隅に血のついた白い布が。
「誰か助けて……っ!」
猫のようにやわらかく笑う幼ななじみの男の子の顔が浮ぶ。
「真菜さん!」
そのとき、バンッ! と戸が開け放たれた。
「空也さん?」
よろよろと立ち上がった真菜は顔を輝かせた。しかし、すぐにその顔から笑顔が消える。
「大丈夫ですか真菜さん!」
「う、浦雪さん、なんであなたが!」
戸口に立っていたのは浦雪だった。寝ている所を急いで出てきたらしく、紫のド派手な
パジャマを着ている。
「あの寛次とかいう警官が宿に来て、真菜さんが危ないと。すぐにどこかに走りさって行きましたが……」
「なんでこの人なの、寛次さぁん!」
泣き笑いのように真菜は言った。
「ううう、浦雪さん。貴方の奥さんになる人よ。真菜を、真菜を助けなさい!」
伶菜が震える声で言う。ゆっくりとベッドを降りて、娘を守ろうと真菜の隣へ這っていった。
ゆらりと部屋の空気が動く。そういえば、ここは外より寒い。その気配に気づいた浦雪は病室の真ん中に目をこらす。
能のような格好をした、白い人。体が透けて、後ろで怯える真菜の姿が見えた。あきらかにこの世のモノではない。そして、その手に持っているのは、長い刀だった。模造等や安物ではないことはしろうとでもよくわかる。ほんのわずか、曇っているのは人の脂のせいだろうか。
作り物めいてみえるほど整った顔がこちらをむいた。白い瞳が、浦雪をとらえる。確かに、目が合った。
「ひっ」
浦雪は後ずさった。どうしよう。ほんの数秒の間に、浦雪の頭に色々な考えがよぎっては消えていく。
(確かに、真菜さんは魅力的な女性で、奥さんにできればそれはそれは嬉しいことだけれど、そのためにはここであの幽霊の前に出て盾になったりしないと印象悪いだろうな。けどむこうは刀でこっちは丸腰だ、無理、無理、絶対死ぬって。まあ刀を持ってたからといって使えないけどさ。結局はどっちを選ぶかだ。ここで真菜を得るために前に出るか、自分の命を守るために退くか)
「真菜さん!」
叫んで、浦雪はくるりときびすを返した。
「警察に連絡してきます!」
「ちょっ、浦雪さん! 逃げた!」
真菜が叫んだときには浦雪は走りさっていった。
「あ、あ」
伶菜と真菜の背が、壁にぶつかった。親子は抱き合って身を固くすることしかできなかった。刀夜は再び刀を振り上げる。窓から差し込む月明かりで刃が冷たく輝いた。銀の光が空を切る。
気がつくと、真菜は近づく刃にむかっていた。伶菜をかばい、大きく両手を広げる。母さんは殺させない。もとはといえば、自分が通り魔に会ったのが原因だ。母さんを巻き添えにするわけにはいかない。
遠くで、母の悲鳴を聞いた気がした。空也さん。どういうわけか、その名前が痺れた頭に浮んだ。
「……!」
振り下ろされた刀の風圧に、髪の毛が少しゆれる。しかし、それだけだった。覚悟していた痛みはない。いつの間にか目を閉じていたようで、目の前は真っ暗だ。何も聞こえず、静かだった。
真菜はおそるおそる目を開けた。少し勇気がいった。実はもう切られたあとで、足元に三途の川が流れていたらどうしよう。
覚悟を決めてゆっくりと目を開ける。三途の川は流れていなかった。足の近くにいたのは人ならぬ殺人鬼だった。刀を握ったまま、力なく両膝をついている。苦しんでいるようにも、祈っているようにも見えた。
「いったい何が…… 鈴もないのに」
怨霊の白い唇から、冬の風のように虚ろな声が漏れる。
「サヤ」
大キク広ゲラレタ腕。ヒルガエル袖。ドコカデ見タ気ガスル。
「サヤ」
ナニカ、大切ナ物ノ名。シカシ、何ノ名ダ? ワカッテイルノハ、ソレヲ目ノ前デ無残ニ壊サレタ事ダケ。
刀夜は、髪をかきあげるようにして頭を押さえた。まるでみえない何かを振り払おうとするように、座った格好のままで刀を振り回す。
「真菜さん」
母が小声で話しかけてきた。
「今なら、あの化物の横を通って逃げられるわ」
「で、でも」
たしかに、あの男が動かない限り、斬られる範囲は相手の腕の長さと刀の長さ分だけだ。でも、化物が正気に戻って襲いかかってきたら?
「いいから! このままここにいても仕方がないでしょう!」
母が背を押す。
真菜が先頭に立って、壁に背を押しつけたままゆっくりと右へ体をずらしていく。そのまま壁に沿ってベッドから遠ざかり、そろそろと戸口にむかう。刀夜は刀を振るのをやめ、うなだれたまま、動かない。
二人は、白い幽霊の真横に差し掛かる。息を殺さなければ。真菜は呼吸を抑えようとした。しかし、そう思えば思うほど、肺が苦しくなって息遣いが荒くなる。鼓動が痛いくらいに高鳴った。
ぴしゃりと小さな水音がして、真菜のつま先が濡れる。さっき投げつけた花瓶の水が床に散っていた。滑らないよう、震える膝に力を入れる。
「きゃああ!」
派手な音を立て、ひっくり返ったのは後の母だった。
白い影は、そろそろと頭をもたげた。両膝が床から離れる。長身が完全に立ち上がった。
そして真菜の恐怖を煽ろうとするように、ゆっくりと振り返る。解けていた髪に隠れていた頬が、唇が、鼻筋が見え、両方の瞳が真菜達を捉え……
「ひ、いやぁ!」
母娘はそろって悲鳴をあげた。
男の姿が消える。一瞬、真菜の視界が真っ白になった。視点を合わせられないほど近くに、幽霊が立っていた。
そのとき、叩きつけるような勢いで扉が開いた。
「大丈夫ですか、真菜さん!」
「空也さん!」
ちりん、と鈴が鳴る。空也は帯に指していた鞘をすばやく外す。白い光が鞘からあふれだした。
白い光は、女性の姿を造りながら刀夜の前へ飛んでいった。
「刀夜様。おやめください!」
しっかりと沙耶は刀夜に抱きついた。
「大丈夫、沙耶はここにいます。もう人を恨まなくてもいいのですよ」
刀夜は刀をぎくしゃくと下ろした。まるで初めて触れる言語を聞き取ろうとするように、沙耶の言葉に聞き入っているように見えた。
真菜は空也に駆け寄る。あれほど言うことを利かなかった足が今度はすんなり動いた。
「どういうことですか、空也さん。いったいこれは……」
「真菜さん、無事でよかった」
空也は大きく息をはいた。
「もう大丈夫です。沙耶さんが来てくれたから」
「沙耶さん?」
「ええ。鞘に取りついている幽霊です。刀夜さんの恋人だった人です」
空也は、沙耶に聞いたことを真菜に語った。沙耶と刀夜、二人の悲しい恋物語を。
「恋人を殺され、悪霊になった刀夜さんを、沙耶さんはずっと押さえていたんです」
沙耶は、まるで子供にするように刀夜の頭をなでていた。刀夜はなにが起こったのか分かっていないように、無表情だ。
「それが、何かのひょうしに離ればなれになってしまったんです」
しかし、それももう終わる。もう一度沙耶に会えたのだから。これから沙耶は、刀夜を鎮めながらずっと彼の傍にいるのだろう。刀夜の心の傷が癒えるまで。傍にいる自分に刀夜が気づき、共に行くべき所へ行けるまで。
空也はクスンと鼻をすすった。
「真菜さん」
娘が振り返るのを待って、伶菜は手を振り上げる。ぱん、と真菜の頬が鳴った。
「え……?」
どうして叩かれたのかがわからずに、真菜は泣くのも忘れて目をしばたかせた。
「あなたは、なんということをするのです」
伶菜の声が震えていた。
「子供が、親をかばってどうするのです。本当は私の背に隠れなければならないのに。母より先に死ぬこと、許しませんよ」
「は、はい」
真菜は涙を浮べて微笑んだ。
「でも、本当にこんなことがあるんですね。幽霊が人を襲うなんて」
玲奈が乱れた髪を整えながらいった。
「ええ、でももう大丈夫ですよ」
空也がむけた視線の先で、沙耶は微笑んでいた。
沙耶の細い右手が、刀の柄を握る刀夜の手に重ねられた。空いた手で、切っ先を鞘へ収めていく。刀のツバと、鞘の口の間に絹糸のような紫電が走った。刃をしまうにつれ、細い細い雷は少しずつ短くなっていく。
「さあ、私はここにいます。また一緒に眠りましょう。あなたの傷が癒えるまで、ずっとそばにいますから」
その様子を見守りながら、真菜が表情をくもらせる。
「しかし、悲しい話ですね。憎しみの塊になってしまうなんて」
「たぶん、大好きな人を助けられなかったのが悔しかったんだろうね」
空也は鞘に隠れていく刀身を見守りながら言った。何人もの血に濡れた、呪いの刀。それでも銀色の刃は美しかった。
「沙耶さんを殺した人も、助けられなかった自分自身も憎くて憎くてしょうがなくて。もう、沙耶さんは父さんのことを許しているっているのに」
もしも滝ちゃんが死んだ原因が、事故ではなくて殺されたのだとしたら。しかも自分の目の前で。そうしたら、自分はどうなっただろう。
もし、真菜が斬られていたら、こうやって封印されていく刀夜を静かに見ていられるだろうか。そんなことを思うけど、空也には見当がつかなかった。
「けれど、おかしいわ」
真菜がぽつりとつぶやいた。
「鈴の音が聞こえるなら、沙耶さんの声も聞こえるはずだわ。沙耶さんが恨みを持っていないこと、わかってもいいはずなのに」
沙耶がガシャンと鞘を取り落とした。刀夜が刀を振ったのだ。
「刀夜様?」
沙耶が不安そうに刀夜を見上げる。
0
あなたにおすすめの小説
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
悪役令嬢、記憶をなくして辺境でカフェを開きます〜お忍びで通ってくる元婚約者の王子様、私はあなたのことなど知りません〜
咲月ねむと
恋愛
王子の婚約者だった公爵令嬢セレスティーナは、断罪イベントの最中、興奮のあまり階段から転げ落ち、頭を打ってしまう。目覚めた彼女は、なんと「悪役令嬢として生きてきた数年間」の記憶をすっぽりと失い、動物を愛する心優しくおっとりした本来の性格に戻っていた。
もはや王宮に居場所はないと、自ら婚約破棄を申し出て辺境の領地へ。そこで動物たちに異常に好かれる体質を活かし、もふもふの聖獣たちが集まるカフェを開店し、穏やかな日々を送り始める。
一方、セレスティーナの豹変ぶりが気になって仕方ない元婚約者の王子・アルフレッドは、身分を隠してお忍びでカフェを訪れる。別人になったかのような彼女に戸惑いながらも、次第に本当の彼女に惹かれていくが、セレスティーナは彼のことを全く覚えておらず…?
※これはかなり人を選ぶ作品です。
感想欄にもある通り、私自身も再度読み返してみて、皆様のおっしゃる通りもう少しプロットをしっかりしてればと。
それでも大丈夫って方は、ぜひ。
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる