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第一章 翡翠荘への招待
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列車の窓に、霞がかった山並みがゆっくりと流れていく。
夏の終わり、八月末の風は、湿気を帯びながらもどこか物憂げな涼しさを帯びていた。
結城真琴は、文庫本を閉じてため息をついた。
「やっぱり犯人はそこか……」
読んでいたのは、今をときめく人気作家・高峰律子の新作ミステリーだった。巧みに伏線は張られていたが、真琴にとっては予定調和に映った。
自分が読者として楽しめなくなっていることに、彼は少しだけ寂しさを覚えた。
彼はポケットから封筒を取り出した。乳白色の厚紙に、墨でこう書かれている。
「第十五回 翡翠荘読書会 -ご招待-」
招待状が届いたのは、一か月前のことだった。
文芸誌に掲載された新作『夜を葬る者』が業界内で話題になり始めた直後、担当編集から「おめでとうございます!」と笑顔で封筒を渡された。
「作家として認められた証ですよ。翡翠荘の読書会は、文壇の“通過儀礼”みたいなもんですから」
そのときは、軽い気持ちで「面白そうですね」と答えた。
だが今、列車の揺れに身を任せながら真琴は、あのとき感じた微かな違和感が拭いきれずにいた。
翡翠荘――。
山間の湖に面した古びたリゾート施設で、毎年文壇関係者を招いて開かれる私的な集まり。作家や編集者、評論家、選考委員など、特定の“資格ある者”しか呼ばれないと噂されている。
しかしその実態は、誰も詳しく語らない。
行った者も、まるで口止めされたかのように話を濁す。
「まさか、秘密結社じゃないだろうな……」
冗談混じりに呟いたその言葉に、自分自身が少し苦笑した。
列車はやがて、終着駅・八深(やぶか)に到着した。
小雨が降っていた。空は鉛色に覆われ、駅前にはコンビニすらない。
出迎えは黒塗りのワゴン車。運転席にいたスーツ姿の男は、無言で荷物を受け取ると手早くトランクに積んだ。
「……翡翠荘まで、どれくらいですか?」
真琴が尋ねても、男は黙ったままドアを閉め、エンジンをかけた。
ワゴンは雨の中を、音もなく滑るように走り出した。
山道を三十分ほど進むと、湖が見えてきた。
灰色の水面に、うっすらと霧が立ち込めている。そのほとりに建つ三階建ての洋館――それが翡翠荘だった。
白い外壁と深緑の屋根。古いが手入れは行き届いており、威圧感よりも、どこか物悲しげな静けさが漂っていた。
「ようこそ、翡翠荘へ」
玄関前で出迎えたのは、60代と思しき女性だった。
背筋の通った細身の体、知性を感じさせる瞳。どこかで見たことがある気がする。
「あなたが結城真琴さんですね。初めまして。私がこの館のオーナー、夏目澄子です」
名乗られた瞬間、真琴は記憶を手繰った。――そうだ、かつて老舗出版社の編集長だった人物だ。
数々の文学賞を手がけ、“文壇の女帝”とも呼ばれた女。その名を知らぬ作家はいない。
「本日はご足労いただき、ありがとうございます。どうぞお入りください」
澄子の言葉に促され、館の中へ足を踏み入れた。
内装はクラシックで落ち着いた雰囲気だった。
深紅の絨毯が敷かれ、壁には古い油絵が飾られている。
ロビーの奥には、暖炉のあるサロンと、図書室のような書棚があった。
「他の皆様もすでに到着しています。お部屋で少しお休みになってください。夕食は午後七時から、ダイニングで」
鍵を渡され、真琴は二階の端の部屋に案内された。
簡素な洋室。窓の向こうには湖が見える。まるで時間が止まったような空間だった。
七時少し前、真琴は食堂に向かった。
重厚なテーブルにはすでに数名が着席している。全員、どこかで名前を聞いたことのある人物ばかりだった。
まずは文芸評論家・西園寺彰人。歯に衣着せぬ評論で作家を次々に切り捨てることで知られる男だ。
彼の隣に座っているのは、作家の伊沢直樹。過去に芥川賞を受賞したが、ここ数年は鳴かず飛ばずだ。
そして、真琴の担当編集である一之瀬美咲の姿もあった。
「結城さん! ようやく来たんですね、良かった!」
彼女はホッとした顔をして、真琴を手招きした。
彼女がこの場にいる理由は不明だったが、見知った顔がいるだけで心強い。
澄子が現れると、場が静まった。
彼女は食前酒のグラスを掲げ、淡々と語った。
「皆さま、お集まりいただきありがとうございます。今年もまた、“言葉”と“物語”を語るこの会を開けることを嬉しく思います。
……それでは、食事を始めましょう」
重厚な晩餐が始まった。
だが、会話にはどこか緊張が漂っていた。誰もが言葉を選び、腹の内を見せまいとしている。
――奇妙な空気だ。これは“ただの読書会”ではない。
そう真琴が感じ始めた頃、夏目澄子が唐突に言った。
「今年は一つ、特別な企画をご用意しました。
皆さんには、“未発表原稿”を一つずつご持参いただいたかと思います。
明日、それを皆で読み、合評する時間を設けたいと考えております」
どよめきが広がった。
未発表原稿――つまり、まだ世に出ていない“秘密”の物語だ。
「内容は問いません。ただし、そこには“作家としての真実”が含まれていること。
――それが、この翡翠荘読書会の唯一のルールです」
沈黙のなか、誰かがグラスを置く音だけが響いた。
真琴は胸の内で呟いた。
(“作家としての真実”……?)
だがそのときには、まだ誰も気づいていなかった。
その“物語”が、やがて人を殺す引き金になることを。
翌朝、翡翠荘の一室で、一人の死体が発見される。
扉も窓も内側から鍵がかけられていた――完全なる密室だった。
夏の終わり、八月末の風は、湿気を帯びながらもどこか物憂げな涼しさを帯びていた。
結城真琴は、文庫本を閉じてため息をついた。
「やっぱり犯人はそこか……」
読んでいたのは、今をときめく人気作家・高峰律子の新作ミステリーだった。巧みに伏線は張られていたが、真琴にとっては予定調和に映った。
自分が読者として楽しめなくなっていることに、彼は少しだけ寂しさを覚えた。
彼はポケットから封筒を取り出した。乳白色の厚紙に、墨でこう書かれている。
「第十五回 翡翠荘読書会 -ご招待-」
招待状が届いたのは、一か月前のことだった。
文芸誌に掲載された新作『夜を葬る者』が業界内で話題になり始めた直後、担当編集から「おめでとうございます!」と笑顔で封筒を渡された。
「作家として認められた証ですよ。翡翠荘の読書会は、文壇の“通過儀礼”みたいなもんですから」
そのときは、軽い気持ちで「面白そうですね」と答えた。
だが今、列車の揺れに身を任せながら真琴は、あのとき感じた微かな違和感が拭いきれずにいた。
翡翠荘――。
山間の湖に面した古びたリゾート施設で、毎年文壇関係者を招いて開かれる私的な集まり。作家や編集者、評論家、選考委員など、特定の“資格ある者”しか呼ばれないと噂されている。
しかしその実態は、誰も詳しく語らない。
行った者も、まるで口止めされたかのように話を濁す。
「まさか、秘密結社じゃないだろうな……」
冗談混じりに呟いたその言葉に、自分自身が少し苦笑した。
列車はやがて、終着駅・八深(やぶか)に到着した。
小雨が降っていた。空は鉛色に覆われ、駅前にはコンビニすらない。
出迎えは黒塗りのワゴン車。運転席にいたスーツ姿の男は、無言で荷物を受け取ると手早くトランクに積んだ。
「……翡翠荘まで、どれくらいですか?」
真琴が尋ねても、男は黙ったままドアを閉め、エンジンをかけた。
ワゴンは雨の中を、音もなく滑るように走り出した。
山道を三十分ほど進むと、湖が見えてきた。
灰色の水面に、うっすらと霧が立ち込めている。そのほとりに建つ三階建ての洋館――それが翡翠荘だった。
白い外壁と深緑の屋根。古いが手入れは行き届いており、威圧感よりも、どこか物悲しげな静けさが漂っていた。
「ようこそ、翡翠荘へ」
玄関前で出迎えたのは、60代と思しき女性だった。
背筋の通った細身の体、知性を感じさせる瞳。どこかで見たことがある気がする。
「あなたが結城真琴さんですね。初めまして。私がこの館のオーナー、夏目澄子です」
名乗られた瞬間、真琴は記憶を手繰った。――そうだ、かつて老舗出版社の編集長だった人物だ。
数々の文学賞を手がけ、“文壇の女帝”とも呼ばれた女。その名を知らぬ作家はいない。
「本日はご足労いただき、ありがとうございます。どうぞお入りください」
澄子の言葉に促され、館の中へ足を踏み入れた。
内装はクラシックで落ち着いた雰囲気だった。
深紅の絨毯が敷かれ、壁には古い油絵が飾られている。
ロビーの奥には、暖炉のあるサロンと、図書室のような書棚があった。
「他の皆様もすでに到着しています。お部屋で少しお休みになってください。夕食は午後七時から、ダイニングで」
鍵を渡され、真琴は二階の端の部屋に案内された。
簡素な洋室。窓の向こうには湖が見える。まるで時間が止まったような空間だった。
七時少し前、真琴は食堂に向かった。
重厚なテーブルにはすでに数名が着席している。全員、どこかで名前を聞いたことのある人物ばかりだった。
まずは文芸評論家・西園寺彰人。歯に衣着せぬ評論で作家を次々に切り捨てることで知られる男だ。
彼の隣に座っているのは、作家の伊沢直樹。過去に芥川賞を受賞したが、ここ数年は鳴かず飛ばずだ。
そして、真琴の担当編集である一之瀬美咲の姿もあった。
「結城さん! ようやく来たんですね、良かった!」
彼女はホッとした顔をして、真琴を手招きした。
彼女がこの場にいる理由は不明だったが、見知った顔がいるだけで心強い。
澄子が現れると、場が静まった。
彼女は食前酒のグラスを掲げ、淡々と語った。
「皆さま、お集まりいただきありがとうございます。今年もまた、“言葉”と“物語”を語るこの会を開けることを嬉しく思います。
……それでは、食事を始めましょう」
重厚な晩餐が始まった。
だが、会話にはどこか緊張が漂っていた。誰もが言葉を選び、腹の内を見せまいとしている。
――奇妙な空気だ。これは“ただの読書会”ではない。
そう真琴が感じ始めた頃、夏目澄子が唐突に言った。
「今年は一つ、特別な企画をご用意しました。
皆さんには、“未発表原稿”を一つずつご持参いただいたかと思います。
明日、それを皆で読み、合評する時間を設けたいと考えております」
どよめきが広がった。
未発表原稿――つまり、まだ世に出ていない“秘密”の物語だ。
「内容は問いません。ただし、そこには“作家としての真実”が含まれていること。
――それが、この翡翠荘読書会の唯一のルールです」
沈黙のなか、誰かがグラスを置く音だけが響いた。
真琴は胸の内で呟いた。
(“作家としての真実”……?)
だがそのときには、まだ誰も気づいていなかった。
その“物語”が、やがて人を殺す引き金になることを。
翌朝、翡翠荘の一室で、一人の死体が発見される。
扉も窓も内側から鍵がかけられていた――完全なる密室だった。
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