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第二章 密室の中の死
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朝、翡翠荘の静寂を破ったのは、女の悲鳴だった。
「きゃあああっ――!」
真琴はベッドから跳ね起きた。
時計を見ると、午前六時過ぎ。耳を澄ますと、足音と叫び声が交錯し、廊下が騒然としている。
部屋を飛び出すと、同じ階の南側の廊下に数人の宿泊者が集まっていた。
その中心には、蒼白な顔の一之瀬美咲がいた。
「どうしたんですか!?」
真琴が声をかけると、美咲は震える指で扉を指差した。
「……開かないんです。ノックしても返事がないし、部屋の中から――水が、流れてる音がずっとしてて……」
扉の脇には、金色のプレートがあった。
「西園寺 彰人」
文芸評論家――昨夜、食卓で真琴の向かいに座っていた男の部屋だ。
誰かが扉を叩いた。「西園寺先生! いらっしゃいますか!?」
返事はない。代わりに、扉の下の隙間から、ゆっくりと水がにじみ出てきた。
「……鍵がかかってる。合鍵は?」
スタッフの一人が小さなキーリングを取り出し、鍵穴に差し込む。
カチリ、と音がして扉が開いた。
開いた瞬間、誰もが言葉を失った。
バスルームからは、蛇口から水が流れたままだった。
白いタイルの床は濡れ、そこに仰向けで倒れていたのは――西園寺彰人だった。
目を見開いたまま動かないその顔は、どこか信じられないという表情を浮かべていた。
バスローブの前ははだけ、胸元に一本の鋭い刃物が突き立てられている。
浴室の床には血が広がっていた。
だが不思議なことに、流れ出た水は血を押し流すようにして、タイルの目地に沿って薄まり、色を失っていた。
「……死んでる」
誰かが呟いた。
すぐに館のスタッフが警察へ連絡した。
が、ここは山奥の湖畔。最寄りの交番からでも到着には数時間かかる。
その間、翡翠荘にいる者たちは、事実上“閉じ込められた”形になった。
一時間後、館のサロンに全員が集められた。
集まったのは、真琴、一之瀬、伊沢直樹、夏目澄子を含む、昨夜の出席者たち。そして数名の館スタッフ。
「密室です」
一人の男が言った。地元の警察署から連絡を受け、非公式に駆けつけたという巡査部長・朝倉陽一だった。
翡翠荘の近隣に住み、かつて夏目澄子の弟子筋にあたるという噂もある人物だ。
「現場は内側から鍵がかけられており、窓もすべて施錠されていました。扉は重厚な構造で、蹴破るには相当な力が要る。
凶器と見られるナイフも、被害者の胸に深く突き刺さったままでした。……つまり、自殺か、あるいは――」
「殺人、ですね」
真琴が静かに口を開いた。
「凶器の刃渡りは15センチ以上。傷口は心臓を一突き。しかも真っ直ぐに。
自分で刺すには不自然です。力加減も角度も。あれは誰かに殺された」
「だとして、どうやって密室を作ったというのです?」
伊沢直樹が低く言った。
その顔には冷や汗が滲み、唇は乾いている。
「密室トリックに見えて、じつは単純な見落としという可能性もある」
「たとえば?」
「窓の外に足場を作り、侵入したあと再び鍵を閉めるとか。あるいは、部屋の中に隠し扉やダムウェーターのようなものがあるかもしれない」
朝倉が首を振った。
「翡翠荘の構造は、私も熟知しています。そんな仕掛けはありません。
建物自体が大正期に建てられたものですが、戦後に改築され、壁や床下はすべてチェック済みです」
沈黙が落ちた。
誰もが、言葉を選びながら、視線だけがあちこちに揺れていた。
そのとき、夏目澄子がゆっくりと立ち上がった。
「――皆さん。この中に、“嘘”をついている人がいますね?」
場の空気が凍りつく。
「西園寺さんの死は事故でも自殺でもない。ならば、これは殺人事件です。
しかも、翡翠荘は閉ざされた場所。外部からの侵入は不可能。……つまり、犯人はこの中にいる」
「なぜ、そんなことが言えるんですか?」
一之瀬が問い返すと、澄子は微かに笑った。
「それは……“昨夜のある事実”を、私だけが知っているからです」
その“事実”を澄子が明かすことはなかった。
しかし、それを聞いた誰もが、心の奥に冷たいものが走ったのを感じていた。
午後になり、正式な捜査のため警察が到着するまで、翡翠荘は“封鎖”された。
出入り口にはスタッフが配置され、全員が持ち物と部屋の確認を受けた。
真琴は自室に戻り、荷物の中から一冊の原稿を取り出した。
昨夜、澄子が言った“未発表原稿”――
それは、彼がかつて誰にも見せなかった、“ある事件”を題材にした物語だった。
そして、今朝の殺人と、その内容には……不気味なまでの“符合”があった。
まるで誰かが、その物語をなぞるようにして、西園寺を殺したかのように。
窓の外には、再び雨が降り出していた。
湖面は静かに波打ち、まるで何かを呑み込もうとするように、灰色に揺れていた。
「きゃあああっ――!」
真琴はベッドから跳ね起きた。
時計を見ると、午前六時過ぎ。耳を澄ますと、足音と叫び声が交錯し、廊下が騒然としている。
部屋を飛び出すと、同じ階の南側の廊下に数人の宿泊者が集まっていた。
その中心には、蒼白な顔の一之瀬美咲がいた。
「どうしたんですか!?」
真琴が声をかけると、美咲は震える指で扉を指差した。
「……開かないんです。ノックしても返事がないし、部屋の中から――水が、流れてる音がずっとしてて……」
扉の脇には、金色のプレートがあった。
「西園寺 彰人」
文芸評論家――昨夜、食卓で真琴の向かいに座っていた男の部屋だ。
誰かが扉を叩いた。「西園寺先生! いらっしゃいますか!?」
返事はない。代わりに、扉の下の隙間から、ゆっくりと水がにじみ出てきた。
「……鍵がかかってる。合鍵は?」
スタッフの一人が小さなキーリングを取り出し、鍵穴に差し込む。
カチリ、と音がして扉が開いた。
開いた瞬間、誰もが言葉を失った。
バスルームからは、蛇口から水が流れたままだった。
白いタイルの床は濡れ、そこに仰向けで倒れていたのは――西園寺彰人だった。
目を見開いたまま動かないその顔は、どこか信じられないという表情を浮かべていた。
バスローブの前ははだけ、胸元に一本の鋭い刃物が突き立てられている。
浴室の床には血が広がっていた。
だが不思議なことに、流れ出た水は血を押し流すようにして、タイルの目地に沿って薄まり、色を失っていた。
「……死んでる」
誰かが呟いた。
すぐに館のスタッフが警察へ連絡した。
が、ここは山奥の湖畔。最寄りの交番からでも到着には数時間かかる。
その間、翡翠荘にいる者たちは、事実上“閉じ込められた”形になった。
一時間後、館のサロンに全員が集められた。
集まったのは、真琴、一之瀬、伊沢直樹、夏目澄子を含む、昨夜の出席者たち。そして数名の館スタッフ。
「密室です」
一人の男が言った。地元の警察署から連絡を受け、非公式に駆けつけたという巡査部長・朝倉陽一だった。
翡翠荘の近隣に住み、かつて夏目澄子の弟子筋にあたるという噂もある人物だ。
「現場は内側から鍵がかけられており、窓もすべて施錠されていました。扉は重厚な構造で、蹴破るには相当な力が要る。
凶器と見られるナイフも、被害者の胸に深く突き刺さったままでした。……つまり、自殺か、あるいは――」
「殺人、ですね」
真琴が静かに口を開いた。
「凶器の刃渡りは15センチ以上。傷口は心臓を一突き。しかも真っ直ぐに。
自分で刺すには不自然です。力加減も角度も。あれは誰かに殺された」
「だとして、どうやって密室を作ったというのです?」
伊沢直樹が低く言った。
その顔には冷や汗が滲み、唇は乾いている。
「密室トリックに見えて、じつは単純な見落としという可能性もある」
「たとえば?」
「窓の外に足場を作り、侵入したあと再び鍵を閉めるとか。あるいは、部屋の中に隠し扉やダムウェーターのようなものがあるかもしれない」
朝倉が首を振った。
「翡翠荘の構造は、私も熟知しています。そんな仕掛けはありません。
建物自体が大正期に建てられたものですが、戦後に改築され、壁や床下はすべてチェック済みです」
沈黙が落ちた。
誰もが、言葉を選びながら、視線だけがあちこちに揺れていた。
そのとき、夏目澄子がゆっくりと立ち上がった。
「――皆さん。この中に、“嘘”をついている人がいますね?」
場の空気が凍りつく。
「西園寺さんの死は事故でも自殺でもない。ならば、これは殺人事件です。
しかも、翡翠荘は閉ざされた場所。外部からの侵入は不可能。……つまり、犯人はこの中にいる」
「なぜ、そんなことが言えるんですか?」
一之瀬が問い返すと、澄子は微かに笑った。
「それは……“昨夜のある事実”を、私だけが知っているからです」
その“事実”を澄子が明かすことはなかった。
しかし、それを聞いた誰もが、心の奥に冷たいものが走ったのを感じていた。
午後になり、正式な捜査のため警察が到着するまで、翡翠荘は“封鎖”された。
出入り口にはスタッフが配置され、全員が持ち物と部屋の確認を受けた。
真琴は自室に戻り、荷物の中から一冊の原稿を取り出した。
昨夜、澄子が言った“未発表原稿”――
それは、彼がかつて誰にも見せなかった、“ある事件”を題材にした物語だった。
そして、今朝の殺人と、その内容には……不気味なまでの“符合”があった。
まるで誰かが、その物語をなぞるようにして、西園寺を殺したかのように。
窓の外には、再び雨が降り出していた。
湖面は静かに波打ち、まるで何かを呑み込もうとするように、灰色に揺れていた。
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