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第一章 運命の糸は、意図せず絡みつくものです。
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「おい。初日から増えるだなんて、やる気あるのか?」
出社早々に体重計に乗せられ、開口一番がこれである。なんて失礼な男なのだろう。
「まだ説明を聞いただけで、始まっていません。これからなんです」
足元の数値は68.2キロ。たった0.2キロにそんなにうるさく言うなんて、小さい男。水を飲めば増える程度のものじゃない。倉科さんと話す五十嵐社長の背中に、梅干しみたいな顔をして威嚇しておいた。
「お前のスケジュールだ。これ通りに動くように。わかったか?」
「承知いたしました」
ピラリと渡された一枚の紙を、賞状授与のように大げさに両手で受け取る。五十嵐社長はそれを一瞥して社長室に戻って行った。倉科さんと二人でエントランスに残されて、居心地の悪い体重計から降りて紙を確認してみる。八時から十時までジム。十時半から十二時まで仕事で、そこから一時間の休憩。十三時から十六時まで仕事をして、その後十八時までジム。オフシーズンの実業団選手の一日みたい。それでも、私はこれをこなしてお金を頂くの。佐山に恩返しをするチャンスなのだから。
「これをどうぞ。社長からです」
倉科さんが差し出したのは黒色の高そうな紙袋。それを受け取り開いてみるとネイビーの服が入っている。ぱちくりと視線で倉科さんに問いかければ、「出してみたら」と顎で促された。中に入っていたのは上下セットのジャージだった。
「これは?」
「それでダイエット頑張れってことじゃないでしょうか?」
「あ、そうですか。ありがとうございますとお伝えください」
「ええ。わかりました。では、時間なのでジム行ってくださいね」
にこりと笑った倉科さんはコツコツとヒールを鳴らしながら、受付裏のスタッフルームへと消えて行った。取り残された私の手には上質な生地のジャージ。「なんだ、良いとこあるじゃん」と思わず上がってしまう口角を受け入れつつ、上の服をパサリと広げた。そして私の目に飛び込んできたのは“減量中”の文字。ネイビーの生地に白色の糸で、胸元の隠せない位置に刺しゅうされていた。高そうだと思っていたジャージが急に安っぽく感じる。嘘だろと思いつつ背中を見れば“伊藤”とゼッケン並みの存在感で刺しゅうされていた。
「絶対馬鹿にしてんじゃん! 私のありがとうを返せっ!」
睨めっこしていたタブレットを白いテーブルに置いてから、疲れた目頭を押さえる。午前中のジムを終えてから、会議室で商品についての勉強をしているところだ。メッシュ生地の量産型椅子に背中を預ければ、ロッキング機能と体重が相まって想像以上に後方へ倒れてしまった。
「うわっとと・・・と」
予想外の海老反り体勢で目が合ったのは、入り口の壁に寄り掛かり腕を組んでいる五十嵐社長だった。朝は黒のスラックスにワイシャツのラフな姿だったのに、上下茶色のスーツに着替えた五十嵐社長は歩く広告マネキンである。まあ、同じ服を着たとしてこんなに似合う人は他にいないだろう。髪は両サイドが短く刈り上げられていて、長めの前髪の右サイドは垂らしてあるが左は綺麗に撫でつけてある。これからパーティにだって行けてしまうくらい素敵だ。開いてしまっていた口を素早く閉じて、平静を保つようにゆっくりと元の体勢に戻る。
「お勉強は進んでいるか?」
右の口角だけ引き上げて笑う五十嵐社長は、長い脚で数歩歩いて私の向かい側に座った。会議室の名に恥じないこの部屋は、大きな白いテーブルをセンターに椅子が八脚周りを囲む様に置かれている。壁には大きなホワイトボードが設置されていて、天井にはプロジェクターも付いている。
「あ、ええ、まあ」
「うちの美容液は何由来だ?」
「ゆらい? ですか・・・。あ! ああ。わかりました。ヒト脂肪由来です」
「そうだ。タブレットでゲームしていたわけじゃないんだな」
にやっと笑って両肘をテーブルに付けた五十嵐社長は寝る体勢になっている。
「え? ここにいるつもりですか?」
「俺の会社だ。俺がどこに居ようと文句言われる筋合いはない」
そう言って見上げてくる五十嵐社長は子どもみたいだ。「そうですけど」と小さく返すと、満足そうに口角を上げて再び突っ伏してしまった。しんと静まり返った会議室で、出ていくわけにもいかず落ち着かない心のまま再び資料に視線を落とした。猫みたいな人。そう思った。この人がモテないはずがない。恋愛なんて諦めて錆び付いてしまった私の心でさえ、この男を相手にするとときめいてしまう。無自覚でこれなら、いつか狂信者に刺されて命を落とすかもしれない。ちらりと五十嵐社長を見れば、その手は綺麗で長く繊細な手をしていた。指に指輪の痕跡はない。ああ、そうだ。私はこの人の事を何も知らないのだ。
ぐるるるるぅ。十二時を少し回ったところで、朝からカロリー消費した身体がご褒美を欲しがっている。スーパーにも行けていないから、昨日トレーナーに言われた通りにコンビニで買えるダイエット食を買ってきている。でもコンビニ袋に触れたら、音で起こしてしまうかもしれないと思うと中々手も出せない。
きゅるるるるぅ。ああ、馬鹿。私の身体、正直すぎる。
「くっ・・・ふふ」
微かな笑い声に出どころを見れば、それはやっぱり五十嵐社長だった。完全に突っ伏していた顔を上げて左手で頬杖を付き、悪戯っ子の顔をしてこちらを見ている。
「ダイエットに無理な食事制限はいけない」
「わ、かっています。五十嵐社長が寝ていたので気を使ったのです。ちゃんと食べます」
言った手前食べないわけにもいかなくて、鞄からコンビニ袋を取り出す。五十嵐社長の視線が痛い。何が面白いのかわからないけれど、私の一挙一動を見て口角を上げている。五十嵐社長には私がカピバラか何かに見えているのかもしれない。
「五十嵐社長は食べないんですか?」
「今日は食べない」
「___何か予定でも?」
何を聞いているのだ。そんなこと私に関係ないのに・・・、あ、そうだ。会話のために仕方なく、だ。
「ああ」
短く返されて次の言葉が見つからなかった。気まずくなってしまい、手元に並べたランチに視線を落とす。だし巻き卵にサラダチキンとスープ。以前までならアメリカンドッグとカップラーメンにホイップチョコパンを買っていたところだ。レジに並ぶとき後ろ髪が引かれたことは黙っておこうと思う。
サラダチキンを手早く開けると汁が零れて資料を濡らしてしまった。慌ててサラダチキンを持った左手を上げて、右手で鞄からティッシュを取ろうと手を伸ばす。その左手首が大きな手に捕まれる。
「そそっかしいな」
触れられた手に驚きつつ視線をやると、私の手にあるサラダチキンを引き寄せて五十嵐社長がかじった。余りの衝撃に何も言えずに固まったまま、もぐもぐと小さく動く五十嵐社長の口元を見つめることしか出来ない。
「味気ないな」
コンコン。眉を寄せて不満を漏らした五十嵐社長は、ドアを見ることなく「どうぞ」と入室を許可した。
「失礼します」
入ってきた倉科さんは、私と五十嵐社長の姿を見てから射殺すような視線を寄越してきた。慌てて掴まれていた手を振りほどいてから、無実を訴えるように倉科さんを上目遣いで見返す。彼女を敵に回したくないからだ。
「社長。お時間です」
「ああ、わかった」
何事もなかったように立ち上がり、五十嵐社長と倉科さんは会議室を出て行った。
左手を見ればサラダチキンが少し減っていて、夢じゃないことを教えてくる。一体なんだと言うのだ。五十嵐社長は私と仲良くなりたいのか、それともクラスのデブをおちょくっているだけの人気者なのか。どう考えても後者だろう。思惑通りに私の心は荒れ模様だ。気が付いた時には、テーブルの上に食事の残骸が残っているだけだった。
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