ブラック・ジャッキー ~視能訓練士Nの毛深い眼球~

伊佐坂 風呂糸

文字の大きさ
1 / 7

九死に一生を得る

しおりを挟む
 
 その時は突如としてやって来た。

「ありゃ! 今度行く眼科からの電話だ」

 中村は家族の乗っていた車を路肩に停車させて、転職先の開業医からの連絡に応答しようとした。
 ドアを開けて外に出ると、初夏の草の香りが鼻腔に充満し、車内の音楽と人工的な空気を一掃するのだ。
 天気の良い湖岸近くの道路は見通しも良く、バス停の待避所に停めた車の周囲には湿気を含んだ草むらが、どこまでも青々と続いているばかりだった。

「もしもし、中村ですが……」

 スマホの振動を静めて、通話状態に移行させた矢先……。
 信じられない事に中村及び、その妻と娘が乗った車の後方から4トントラックがノーブレーキで追突してきたのだ。
 ショックで中村は数メートル近く藪の方に弾き飛ばされてしまう。オフセットでトラックに追突された小型のファミリーカーの方は、紙細工のようにひしゃげた後、無惨にも横転してしまった。

 中村が薄れゆく意識の中で最後に聞いた音は、救急車か何かが放つサイレンの音……。その場面の視覚情報は奇妙な事に全くと言っていいほど記憶に残らなかった。むしろ現実として認識したくは、なかったのかもしれない。



   ✡ ✡ ✡



「…………ここは? どこなんだ ……」

 中村が次にぼんやりと知覚したのは、無味乾燥な白い天井。見ると自分の腕や下腹部には無数の管が繋がれ、酸素マスク・心拍数までモニターされていた。眼科外来に勤めている中村には、見慣れていたはずの病院の光景だが、今は激しく心を揺さぶられた。

「ちょっと早く、ドクターを呼んできて!」

 偶然病室に居合わせた若い看護師は、焦ったような嬉しいような表情でバタバタとICUを移動してゆくのだ。

「中村さん! 分かりますか!」

『分かる訳ないだろう……』

 中村は青い術衣に白衣を羽織ったドクターの呼びかけに、声にならない呟きを重ねた。彼にとって非情な現実が押し寄せる生き地獄の幕開けとなったのだ。

『そうだ、香里と真里はどうなったんだ! ぐおおお!』

 突如暴れ出した重傷患者に病室はパニック状態となり、ベッドは軋み、点滴棒は輸液ごと揺らいだ。



   ✡ ✡ ✡



 3日間の昏睡状態を抜け出した中村は、徐々にだが快方に向かっていた。
 事故で後頭部を強打し、脳挫傷を起こしていた中村は、脳外科による適切な手術オペが行われ、何とか一命を取り留めたのだ。
 容態が落ち着いてきた1週間後、ついに中村は最も欲していた情報を実の親から聞かされる事となる。

「それで、母さん、聞かせてくれ。俺の家族は? 香里は? それに真里はどこにいるんだ? 隣の病室か? それとも違う病院に入院してるのか? 早く会いたいんだ」

 まだ絶対安静が必要な時期だったので、メンタル的に悪影響を与えるような事は何としても避けたかった。
 それでも必死に妻と8歳になる愛娘の行方を譫言うわごとのように繰り返し、問い質そうと試みる息子の姿が目の前にある。やはり母親は同情して、口を閉ざしたままでいる事はできなかったのだろう。

「いいかい、あんたは昔から強い子だったね。今から言う事を、落ち着いて聞くんだよ」

「母さん……、母さん! 香里と真里は?」

「……香里さんと真里ちゃんはね……、あの時の事故で亡くなったんだよ。せめてもの救いは苦しまずに逝った事かね……。2人共、車内で即死の状態だったそうだよ」

「………………」

 母親はハンカチを取り出して目頭を押さえ始めた。両目を赤くして一定周期に鼻をすすり、心なしか小刻みに震えているように思える。

「オイ、オイ、オイ、嘘だろ。……ハハ! まさかね」

 現実が、あまりに苛烈すぎて他人事のような、演劇のワンシーンを観ているような、何だか超越した客観的感覚に溺れていた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...