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29. 好きな人

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 蓮は洋館の前まで走ると、迷うことなく玄関の扉に手をかけた。強く引く。扉は重かったが、苦もなく開いた。
 耳障りな柱時計の音が響いている。異様な空気が漂っていたが、蓮は気にせず中へ飛び込んだ。
 外から見た窓のある部屋を目指す。玄関ホールの左にある部屋のはずだ。
 扉に手をかける。固い。蓮は半ば体当たりするように力任せに扉を押し開け、部屋の中に入った。

「姉さん!」

 部屋の中央に、紗世が倒れていた。
 長い髪が床に広がっている。髪も服も血と泥で汚れていた。
 蓮は紗世に駆け寄り、その細い体を抱き起こす。ひどく冷たい。

「姉さん! しっかりして!」

 揺さぶっていいのか分からず、蓮はとにかく大声で姉を呼んだ。
 身体のあちこちに血が付いている。怪我をしているのかもしれない。蓮はパニックになりそうな気持ちを必死で押さえ、静かに紗世の体を揺さぶった。

 ふ、と紗世の瞼が痙攣し、やがてゆっくりと持ち上がる。蓮はホッとして「姉さん」と呼びかけようとした。
 そこで気づく。

 眼球が、無い。

 蓮は咄嗟にのけ反った。
 真っ黒く落ち窪んだ穴から、灰色のネズミのような生き物が、蓮の目を目がけて飛び掛かって来たからだ。
 のけ反った反動で紗世の、紗世だと思っていた少女の体を取り落とす。床に落とされた体は、物のように動かなかった。けれどやがてピクピクと痙攣し始める。
 蓮はショックのあまり、その場に尻餅をついてハァハァと荒い息を吐いた。本能では危険だと分かっているが、思考がうまく働かない。そのせいで一瞬反応が遅れる。
 マズいと思ったときには、少女の体が蓮へ飛び掛かって来た。受け身を取ることが出来ず、蓮はもろに体当たりを受け、そのまま床へあおむけに倒れる。

「ぐっ……」

 少女の手が蓮の首にかかった。万力のような強い力で絞められる。
 空洞の目から、ボタボタと何かが蓮の顔に降って来た。それが何か、蓮にはよく分からない。でも、何かが自分の顔を這っている。
 首を絞められているせいで酸欠になり、だんだんと朦朧としてくる意識の中、蓮は最後の気力を振り絞って手に霊力を貯めた。のしかかって来る少女を攻撃するために手をかざす。

 けれど撃つ直前、少女の顔が紗世になった。
 白い陶器のような肌と、黒曜石のような瞳の、綺麗な顔に。

 ビクリと体を強張らせ、蓮は思わず撃つのを止める。
 紗世はにこっと笑うと、蓮の首は絞めたまま、ゆっくりと状態を倒して顔を近づけてきた。
 唇が触れるか触れないかのところまで、息がかかる距離まで近づく。

 酸欠の頭は、うまく回らない。
 紗世が大きく口を開け、自分の目を齧ろうとしているのが見えた。蓮は咄嗟に固く目をつぶる。

 突然、熱い炎が額をかすめた。

 続いてガシャンと何かが叩きつけられる音。
 首が解放され、蓮はうずくまって咳き込んだ。

「大丈夫か?」

 目を上げると、夏樹が肩で息をしながら部屋へ入って来た。
 咳き込みながら、蓮は力なく頷く。
 そして壁を見た。少女が壁に叩きつけられ、動かなくなっていた。
 顔は紗世のままだ。

 分かってる、姉さんじゃない。

 それでも、蓮は万に一つの可能性を感じて、少女の傍へ行こうとした。
 夏樹が阻止しようと腕を掴む。

「やめろ、近づくな」
「でも……姉さんが……」
「あれは紗世さんじゃない」
「分かってるよ、でも顔が……」

 助かってホッとした気持ちと、いま目の前で起きた状況のおぞましさに、蓮はどうしていいか分からない。
 ただ姉の綺麗な顔が、泥と血で汚れていることだけが気になった。

「君には、あの顔は紗世さんに見えてるのか?」

 え? と蓮は夏樹を見返す。あの顔は姉さんだ。どこからどう見ても。
 姉ほど綺麗な人を、僕は他に知らない。
 夏樹は倒れた少女をチラと見て、複雑そうな顔をした。

「俺には、あの子は妹に見えてる」

 蓮は息を呑んだ。
 ではあの少女は、見る人間によって顔が変わるのか? どんな条件で?

「え、アンタ、妹さんのこと好きなの?」
「どういう意味で聞いてるんだ? 好きだよもちろん」
「恋愛的な意味で?」
「なんでそんな発想になるんだよ、妹だって言ってるだろ」
「いや、好きな女の子の顔になるのかと……」

 夏樹が一瞬黙り、蓮を見た。聞こうかどうしようか、聞いていいもんかどうか、そんな顔をしている。

「言っておくけど、僕と姉さんは血が繋がってないよ」
「そんなことは気にならない。俺が知りたいのは、君らは付き合ってるのかってことだ」
「!? 付き合ってないよ」
「へー」

 へーってなんだ。聞いといて。
 気のなさそうな返答に、蓮はむっとする。けれど、驚いたことで少し思考力が戻って来たような気がした。

「なんでそんなこと聞くわけ?」
「好奇心かなぁ」
「姉さんのこと好きなの?」
「昨日会ったばかりだって言ってるだろ」

 時間なんて関係ないと思うけど。あんなに可愛いんだもの。
 蓮は倒れた少女に目をやった。汚れて、固く目を閉じた紗世の顔。目が隠れるとますます綺麗だ。表情がないから。
 目を開けて喋っていれば、とても可愛いんだけど。いまは。
 蓮は少女から視線を逸らした。だめだ。このまま見ていたら、また吸い寄せられてしまいそうで怖い。

「ひとつ教えておくけど、姉さんは僕のこと好きじゃないよ。今は記憶がないから傍に居てくれるだけだ。前は、あんまり話してくれなかった」

 蓮の言葉に、夏樹は微笑む。

「そりゃ、これから死ぬかもって人間は、誰からも好かれないでおこうと距離を取るもんなんじゃないか? 自分が死んでも、誰も哀しまないように」
「どうして? 僕なら覚えておいてほしいけど」
「それは、相手が自分を好きかどうかで違ってくると思うよ。自分のことを好きな子が、自分の死後どうなるかって考えたら、居た堪れないだろう」
「……よく分からない」

 蓮は、このことに関しては一度考えることを放棄する。今は紗世を探すことが一番大事だ。
 パニックに近かった気持ちもだいぶ落ち着いてきた。こんなこと思いたくないけど、一人じゃなくてよかった。

「姉さんを探そう、この家のどこかにきっと……」

 蓮は部屋から出ようと、入って来たドアを見た。そしてビクリと体を震わせる。
 ドア向こうの廊下に、紗世が立っていた。
 小首をかしげ、こちらを見ている。どうしたの、蓮? と、今にも言いそうな雰囲気で。

 姉さん、と思わずつぶやいた蓮の言葉に、夏樹が振り返った。息を呑み、蓮の肩を掴む。

「紗世さんじゃない」
「アンタには誰に見えてんの」
「クラスメート」
「なに? 好きな人?」
「違う、男だ。仲はいいけど」
「……OK、分かった、ここはつまり」

 つまり、なんか知らんが、対象者にとって大事な人が見える場所なんだな、と蓮は思った。
 嫌な場所だな。
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