蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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熟れた桃の果実、青茶の花香と

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 ――時間は、この前と同じくらい。
 三日後。ニビは再び先日の家に至る道を辿った。今日は足元は乾いていて、まだはっきり見えるくらいに明るかった。
 片手にぶら下げた包みには完熟の桃が三つ入っている。この前も食べていたから、持っていくなら果物がいいかなと思ったのだ。できれば梨かとも考えたが行ったときにはもう遅く売り切れだった。慣れぬ青果店で、これはそろそろ時期が終わる、甘くておいしい、おまけもつけてあげる、と売りつけられた。こんな暮らしで手土産を持参しての丁寧な御挨拶などは経験がなかったから、全体的に思いつきで流されるままだった。
 扉のノッカーを動かし、硬い音を響かせる。見覚えのある男が窓を覗いてすぐ鍵を開けた。
「君……」
「こんばんは。この前世話になりましたので、お礼っていうか、食べた分はお返ししようと思って来ました」
 愛想よくにこやかに手にした物を掲げ、そこまでを準備していたとおりに紡いでニビは反応を待った。家主は一呼吸だけ間を置いた。
「……そういうのは別によかったのに。風邪は本当に治ったみたいだな」
「あ、はい。お陰様で元気です、すっかり」
「なによりだ。……入ってくれ。茶を淹れよう」
「お邪魔しまぁす」
 お礼を渡すだけでもよかったが、言ってもらえば遠慮せず踏み込む。――こんな風にわざわざ来たのだからそのつもりだった。
 最後の会話が印象づいたか、ニビはこの男が気になっていた。男娼はお求めではないようだと分かっても話をしてみたくなった。こうして生きてきた長年の経験が何か訴えてくる。客じゃなくても案外上手く付き合えるかもしれない。お礼という口実もあるし一度行くだけ行ってみようとさくっと決めて、今此処に居る。招き入れてもらえたならばやはり可能性がある。
 また積まれていた服がよけられた椅子に座り、茶が出てくるのを待った。
「お一人で住んでるんですか?」
「ああ、もうずっと一人だな。昔から住んでる」
「ならちょっとくらい擦れ違ったりしてたかも知れませんね。向こう、よく行ってるんで」
「どうかな――君は一目見たら覚えている気がするな」
「褒め言葉? 派手だとも言われ慣れてますが」
 居間と台所の距離分間延びした会話は、軽口、笑い声を交えて続く。
 長身に美しい顔立ちの華やかな男娼は、今日も貰い物の上着を羽織っていた。鮮やかな色をして、袖や背に飾りもついている。並の生活をしているなら何か祭でもないと着ないような、贅沢品の婦人物だ。相手の言うとおりこの路地で見かけたならば記憶に残るに違いなかった。
 笑ったニビは思い出して包みを解き桃を並べた。果物籠は先客がいるようで盛り上がっていたので、中央に三つ。
 家主は先日より早く茶器を持って戻ってきた。カップを置き、会釈して掴んだ桃をその横に並べ――また、ニビの前にも置かれる。
「君も食べなさい」
「いえ、これはお礼ですし」
「もう熟れているから、早く食べないとならない。三個は多い」
「じゃあ……」
 言うとおり、売れ残りの桃は土産には不向きに柔らかくなっていた。指の痕さえ残りそうなほど。
 雑な運搬で少々へこんでもいるそれに、男は切らずに齧りつく。じゅ、と溢れた果汁に吸いつくようにして喉に流す。完熟の芳香と甘さを味わって息を吐き、掌に垂れた雫も口へと運んだ。
 ニビも食べ始めながらその様子を盗み見ていた。
 ――イイな。やらしい。美味しそうに食べるってより、色っぽい。
 作為の無い色気に胸の内に呟いて、柔らかい果肉を数口食んだ。
「……あなたは、」
 そこまで言って一間置き、仕切り直す。
「ね、名前、なんていうんですか」
「ん、」
 ちょうど齧っていたものをごくんと喉に落として唇を舐め、男は数度頷いた。
「名前、名前な。前は名乗らなかったな。これは失礼。俺はタドという。……君は?」
「ニビです」
「ニビ君。よろしく」
 二人とも桃を食っていたこともあり、握手などはなく頷き合うだけだ。間に二三と言葉を挟みながらも滴る果汁に急かされるようにして食べ進め、べたべたになった手や口元を二人で洗いに行って、テーブルも拭いて、それでようやく落ち着けた。
 タドは一仕事終えた雰囲気で深呼吸した。
「……やっぱり、桃だけじゃないな」
 不意に呟かれたその言葉の意味が取りきれず、足を組んで座りなおし適当な話題を繋ごうとしていたニビは視線だけを前に向けた。さっきまでとは違い、タドの目ははっきりと彼を見据えていた。
「君、今日も香水はつけていない?」
「ああ、はい? あんまりつけないですね僕は。タドさんは、好きなんですか」
 またその話だった。前回のあれが気になっていたのをどう切り込んでいこうかとあれこれ案を練っていたニビだったが、展開は彼が思うよりずっと早かった。
 臭うと文句を言われたこともなかったし、金がかかる。ので、彼はほとんどそういった品を使わない。貰ったときにだけ使って客を気分よくする程度だ。目の前の男――タドは香水が好きか、もしくは嫌いなのだろうか、どっちでも話の種になるかな。そこまでを一続きに考えたところに、タドはまあ、と頷いた。
「俺は調香師なんだ」
 ちょうこうし。聞き慣れない響きに飴色の目が瞬く。
「――お仕事ですか? どういう?」
「香水を作るんだ。香料を合わせて……商品として決まった分量にしたり、新しい香りを考えて作る」
「へえ、凄い、特別な感じ。あれって花の名前ついてますけど、人が作ってるんですか?」
「花から採ってそのまま売っているものもあるが、大体混ぜているよ。まあ、色々理由があって」
 意外に、場に不釣り合いに華やかで専門的な話が湧いてきたのに、ニビの声は媚びるまでもなく明るく弾んだ調子になる。受け答えは丁寧だったが。それより、まず、とタドは指先を持ち上げて区切りを示して、ニビの顔を窺い続けた。
「――ニビ君、金を払うから、ひとつ頼みを聞いてくれないか」
 真剣な調子にニビも少し畏まって頷いて見せた。言葉の続きを待つ。
「変態客の要望だとでも思ってくれればいい。君の匂いを嗅がせてほしいんだ」
「……嗅ぐだけで終わり?」
 はっきりと部屋に響いた声は特殊なプレイの相談のようでもあったが、前置きを聞く分には違うらしい。その先もこなせる男娼が首を傾げるのにタドは頷いた。深く、やはり真剣な頷き方だった。
 ニビは今度は軽く細い顎先を揺らした。
「宿代にしちゃ安いですね。お安い御用、いいですよそれくらい」
「ありがとう」
 確かに変態臭いが嗅がれるだけなら痛くも痒くもない。調香師の仕事の参考にでもするのだろうか。一瞬考え、まず詮索はせずに快諾して、手でも出せばいいのか、もっとにおいそうな他のところがいいのかと次の動きを窺う彼に、タドはさっさと立ち上がってテーブルを回りこんだ。
「君はそのままでいいよ、じゃあ失礼」
 顔の横に、顔が近づいた。
 そのままキスなどしてもおかしくない動きだったが触れはしない。鼻を耳の横へと寄せて、タドは静止した。ニビもぴたと動きを止めた。
 この男は――言ってしまえば女にもあまり縁が無さそうな雰囲気なのに、言い出しただけあって思ったより遠慮がないな、近いな、とニビは考えた。これ以上に近く、体を繋げることも毎日のようにやっている身であるのに触れない分、逆に距離を意識した。
「ああ――この匂いだ。この前も気になっていたけど、今日はもっと……」
 呟く、囁くような声も間近で低く響く。ニビも少し匂いを嗅いでみる。男、それも年をとってくると多少はそういう臭いがするものだが、タドはあまり主張するものがなく、強いて言うならばこの家と同じどこか懐かしいような匂いがする。
 自分自身が放つものとなると、ニビには分からなかった。今日はまだ酒も飲んでいない。煙草もしばらく、自分では吹かしていない。
「そんなに匂います? 今日は風呂入ったんですけど……」
「俺は鼻が利くんだよ。仕事にできるくらい。犬呼ばわりされる程度にはね」
 少し冗談めかす言葉、すぐ近くに寄った黒い髪の広がりように、ニビはもさもさとした犬を思い浮かべた。
「臭いわけじゃない、いい匂いがする。君自身の匂いだ。若い女性のようだが……本当に、もっといい」
「……それは、よかった?」
 少々褒められたことはあるような気はするが、匂いばかりこんなに絶賛されたことはない。大抵はニビの顔とか、髪とか、体を褒めるのだ。生まれ持った華やかな顔立ち、癖なく艶やかな黒髪、しなやかな体――その体が生み出す快楽を。
 触れない体もその言葉も、若干ずれた位置にある。違和感はあったが悪い心地はしなかったので、ニビは大人しく座っていた。
 タドは随分長くそうしていた。文句などは一切なかったが、あるところで身じろぎしたのを拾ってようやく、思い出したように顔を上げる。
 瞼が重たげなだけでなく夢を見ていたかの顔で、熱中して不自由な姿勢でいた腰を擦りながら自分の椅子に帰り、そこでも暫し呆然としたようにものを考えて、口を開き――開いてからも言葉を選ぶ間がある。
「……嫌でなかったら、また機会が欲しい……その匂いを売るつもりでまた会ってくれないか。此処でも、どこか――店があるなら会いに行く」
 その様を眺めて、思いがけず積極的な言葉を聞いて、ニビは一段と美しく笑んだ。彼もまた少し硬くなっていた体を緩めて応じる。
「勿論いいですよ。そんな注文は初めて貰ったけど。体売ってるんだから、匂いだってヤなことないですよ。僕、一人でやってるから店はないんでまた来ます」
 こっそり、少し得意な気持ちになっていた。自分の勘は結構当たる、上手く繋がる。こうして身一つで渡ってきたのだと。
「こっち来たら顔を出しますし、会いたく――嗅ぎたくなったら、飲み屋に伝言でもしておいてください。多分そんなに待たせないで来れます。此処じゃないほうがよくなったらどこかで待ち合わせでも」
 そうして行きつけの飲み屋を教えた。此処からも離れていない歓楽街の中、この町で男同士での相手を探すならすぐに名の挙がる店だ。酒場の上階に寝れる程度の個室も用意されている。ニビは宿というよりも客と会うときによく利用していた。これが大体いつもの手順だ。
 タドは場所や外観の説明に、多分分かる、と頷きを返した。
「香水の参考になるんですか?」
「……そうだね、するかもしれない。いい匂いの経験は役に立つ」
「ホント、世の中色んな仕事があるなぁ」
 もう少しだけ、まだどこかぼんやりとした人と軽いやりとりだけして、ニビは冷めた茶を飲み干して立ち上がる。ヤることをヤったら解散、というよりはピロートークもすることが多い彼だったが、今日はさすがにヤってもいないしそんな甘い空気ではない。急に押しかけてきたし次の約束もできたしこれくらいで、という引き際を見た動きだった。タドも見送りに立った。
「ああ、また雨が降りそうだ。傘を持っていきなさい」
 タドは扉を開けるなり呟いた。この前と違って然程雲は出ていないが――それすら見ずに、よく利く鼻で予想した。降るかな? とニビが仰ぐ間に、使い込まれた雰囲気の黒い傘が取り出される。
「次に来るときに返してくれればいい。それとも、今日も泊っていくかい」
「じゃあ、今日は傘を」
 ――また来るきっかけになる。
 そういうことかな、とニビは答えた。先日のようにただのお人よしな振る舞いかも知れないが、どちらにせよ彼に損はなかった。
 そして傘と共に、タドは金も握らせた。銅貨が重なる。
「さっきの分だ。足りるかい?」
「嗅いだだけですもん、足りますよ」
 これが自分の匂いの金額かとニビはまた不思議な気分になって笑う。一応お礼に来たのに、桃を買ったよりちょっと多いなあと思いながらも、ありがたく受け取っておいた。
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