蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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回想

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 夕刻。記入を終えた香料の在庫管理帳を閉じ、老舗香水店ロンゼンの調香師は暫し、疲れ目を休めるのに目を閉じた。そうすると使ったインクの匂いがして、次には奥に置かれたランプの放つ燃料臭さや紙を積んだ棚の匂いも意識に上がってくる。いつものこの記入台の様子である。
 自分は人より多くのにおいを知っていると、タドは自負している。
 嗅ぎ逃さない、辺りに漂うものを明確に感じ取るという意味でも、嗅いだものを細分化できるという意味でも、希少な香料を嗅いだ経験があるという意味でも、その活かし方を分かっているという意味でも。あらゆる意味でにおいを知っている。良い匂い、悪い臭い。どちらも彼の――美醜という意味では若干うけの悪い、存在感ある野暮ったい形の鼻は知っていた。
 生き物は大抵臭い。人間も含めて。ただ麝香のように、薄めて使うとまたとない馨しさを持つものがある。案外簡単には括れない。獣は匂いで敵味方の判別をし発情するようにできているし、人もまた、時によっては体臭を誘惑や興奮の材料とする。あとは、若い娘はよい匂いを発している。
 あの美しい男娼もその部類だった。女のように花や果実と同じ因子で匂い、しかしそれだけではなくやはり汗などの成分も隠れて、あるいは纏め上げるように混じる。様々の体臭が絶妙に合わさりタドの嗅覚を満たしてくるのだ。誰かがそんな香水を作って肌を濡らしたのではないかと思うほどに、素晴らしく魅力的なものだった。
 ――神の調香か。
 思い至って、彼は感嘆した。遥かなる存在をまざまざと思い知った。
 調香師は香りを作るが、それは大抵、既に世に存在する香りを目標にする。多くは花の香りを。あの絶妙な芳香、人の手でそのままに抽出はできない儚い幸福を求めて香料を合わせる。香水を買いに訪れる客は花の名、美しい記憶に惹かれて商品を手に取ることもままあるが、やはり何よりあの香りを纏いたいと願っている。忠実な再現であるほど褒められる。あれを作って花に与えた神とは至高の調香師に違いなかった。
 ――しかしそれをああして突きつけられるとは。
 ニビの香りは素晴らしい。タドにとって。
 他の事柄と同様に、匂いも人によって感じ方が違うものだ。好みが違う。見目と違わず多くの人に受けるにしても万人が同じ感想を抱きはしない。それも調香師として勤めよく理解するタドには尚更、自分好みの香りの持ち主との出会いというのは運命的なものを感じさせられた。
 運命の出会い、という響きの気恥ずかしさに、目を開けた彼は一人で首を振ってしまう。仕事では詩的で耽美な表現も使い慣れてはいるが、自分自身に添えるとこうも居心地が悪い。いい歳して何を考えているのだかと呆れ、口を滑らせないよう気をつけようと肝に銘じて片付けの手を動かし始める。しかしそれほどの素晴らしさであるのは確かで、出会いも間違いなく特別なものだった。
 人が多く粗雑な臭いにあてられるのでほとんど歓楽街には行かないタドが、偶然遅くなった帰り道に雨降りの暗い中で立ち尽くす男娼に気づいたこと。彼に、声をかけてしまったこと。
 流すかの大雨、しかし水に溶け出す臭いは立ち込める中、タドは濡れた足元を気にしながら急いでいた。行く手にぼやと佇む人影を見たとき、幽霊でも見たかと思ってその心臓は跳ねた。
 数軒離れた先、集合住宅の扉の前で立ち尽くしている。誰か訊ねて来たのだろうか。こんな雨の中、難儀なことだ。しかしあそこは土地を売るのにもう皆立ち退いたのではなかったか。
 彼の考えたとおり灯りは何処にも見えず、近づくうちに咳き込むのが聞こえた。ただでも病気など嫌に決まっているが、何処でもよく出る上に罹ると嗅覚を鈍らせるので、風邪はなおさら毛嫌いするものだった。従妹が若いのにこじらせて亡くなったのもいつも思い出した。そのときだって思い出して――すると途方に暮れて立ち尽くす赤の他人のことも妙に気になってしまった。今にも蹲りそうな疲れた雰囲気に、避けたい気持ちより心配が勝った。家に入る前に足が向いた。
 話せるほど寄ってみればやはり不快な臭いもした。風邪に違いない。
 顔を見た男娼は雨に降られて髪も乱れていたが、それでなお美しいのがすぐに分かった。つり目気味にぱちりとした色の淡い瞳、それを引き立てる為に線を引いたかの眉、すっと落ちた鼻梁、形よく膨らんだ唇。すべてが輪郭の内に見事に配されて中性的な美貌を成しているのだった。
 美貌につられたのではない。タドはあまりそういうのに関心が無い。素晴らしい匂いも当時はよく分からなかった。微かに感じて勘が働いたのかもしれないがあの晩はただ、放っておけなくなってしまったのだ。本当にそれだけだった。あとはすぐそこの自宅に貸せる部屋と寝台があったので言い出してしまった。彼はたまにお人好しになる。無防備ともいう。
 風邪など抜きにしてもああやって招き入れるなど不用心極まる。雇い主に知られたらまた叱られるだろうなとは思った。だがその気まぐれの結果、タドは素晴らしい幸運を引き寄せた。
 後日お礼にとニビがやってきたとき、扉を開けた瞬間は錯覚を疑ったものだ。彼が桃を手にしていたのでそちらかとも思いかけた。だがより近くで嗅いで確かめたくなるほどの匂いはやはりニビから漂ってきて――花ならともかく人が相手ではさすがに躊躇もあったが、ただ見送るにはあまりに惜しく、振り払って口にした。よい香りは他にも数多く知っている、作ったこともある。それらに並ぶか上回る。吸い込むと本当に心地よかった。
 花の咲く時期とて嗜好と実益を兼ねて足繁く通うものだが、好みのものがいつでも嗅げるとなると、いつでも嗅ぎたい。ニビの体は売り物で、望むならと差し出された。銀貨一枚もあれば手に入る。
 なんたる僥倖。ただでもそう感じていたのに、事はさらに上回っていく。
 誘いをかけられて、タドは彼の意に沿いたいと思った。気に入られたいと考えた。性欲より先にそういう欲求があった。この香りを齎してくれる人間とは仲良くしておきたい。その為ならそういうことをしてもいい。簡単だと思った。解消するほどの性欲を感じたことはここ数年無かったが、別にするのが嫌というわけではない、少し考えを巡らせただけで頷いた。
 それで触れたら、ああだ。男とは初めてだったがそんなことは隅に追いやられるほどに極上の体験をした。久々の性的快楽もさることながら、魅力を増したあの匂いに包まれることの恍惚とした心地と言ったら。
 つい深く息を吸いこんでも今は仕事場の匂いがするばかりで、はっとする。艶めく記憶を振り払い、タドは整頓を終えた机から離れて話し声のする隣の部屋に足を向けた。不足しそうな物について伝えたらもう帰るいつもの流れだ。仕事の話は勿論、多少の世間話や愚痴にも付き合いはするが、あまり長居はしない。他の店員にはまだ掃除などの仕事が残っていて、お喋りが盛り上がりすぎて叱られていることもあるので。
 今日も挨拶と少々の会話だけ交わしてさっさと上着を羽織り、裏口から出て家路を辿った。大通りから自宅まではかなりの距離がある。同僚たちは馬車でも使ってはと言うし、雇い主には事あるごとに近くに引っ越せと言われるが、慣れた生活を変えるのも億劫だったし別に困っていない。歩くのもどちらかと言えば好きだ。それくらいは刺激と運動の時間がないと心身年老いてしまいそうだった。香水のアイデアも欲しい。
 秋は深まり奉納祭の日が迫り、石畳の美しい広場では本格的な儀式の準備が見受けられる。町の神へと捧げる祭壇が建てられた横を往けばその柱の材木の香りや、半年近く仕舞いこまれていた幕の埃臭さ、掲げられた麦藁のリースの匂いがタドの記憶を刺激した。サンザシをくべた献火、新しい葡萄酒、焙り肉の煙、飴を煮詰める鍋。そういう思い出だ。演劇や曲芸の見せ物に連れ出され人の多さに酔ったことやもあったなと懐かしむ。そんな少し特別な日々が過ぎれば涼しい時期の花の情報も集まってくるだろう。秋のバラが咲いたと聞けば少し出歩いて挨拶に行き、モクセイが咲いたと聞けば寄り道して香りを浴びにいく。この季節、毎年のことだ。
 今年は男娼の香りも幾度か嗅ぐだろうなともう自然に考えて、タドはおかしくなった。随分と奇妙な関係、行為だが、彼としてはそういう位置だった。 
 男娼を買っている、というこれまでの人生に無かったことは勿論意識はするものの。最初はしっとりと色気を纏った美男なのだと思った人は、何度も会うと明るく話好きな若者で気安かった。からからと笑い、さらさらと喋って、瑞々しい表情を見せて誘惑するが、つかず離れず程よい距離が保たれている。だからタドは匂いの為に我慢するということもなく割に楽しくニビと付き合えているし、ずっと家で会っている。毎旬続けていれば生活に馴染んできてしまった。金のやりとりさえなければタドから見ては、久々にできた友人、と言ってもよかった。
 ただ、触れるようになってしまった上――友人にしては大分年が離れている。どう見ても若かったが、改めて年を聞いたときには自分との差に、タドは天井を仰いでしまったものだった。
「二十歳か。若いな。二回生まれてやっと俺と同じか」
「二回って」
 呟く言葉がウケて笑うのも明るい若者の雰囲気で、歓楽街が似合うだろうと思った。酒も出ない退屈な家に来て相手をしなくても多くの声がかかるのだろうと想像した。
 もしもニビがもっと――ありふれた容姿で生活に困っていそうなら、タドは積極的に支援を申し出ただろう。だが気後れするほどにニビは美しく、若くて余地がある。着ている物を譲るような裕福なご婦人も居るらしいと会話で知れたので、そんな出しゃばりは止めておいた。またあの香りを嗅がせてもらえるように、彼はくれぐれも鬱陶しくない客でいなければならなかった。
 ――俺のような奴のところに来るのは休憩気分かもしれない。ならいい。気楽に来てくれればそんなに有難いことはない。
 美しい鳥がたまに羽を休めにくる。素晴らしい香りの花を咥えて。あるいは、花が鳥の姿をとっていて束の間変身を解くのか。香水について話すように夢想するのは、ニビのほうになら似合う。
 ほんの僅か弾んだ心地で、涼しい風と共に行き交う人々、祭の時期にどこか浮き立つ街並みを眺めつつ、タドはいつもの道を辿って夕暮れを歩いた。繰り返して、ニビの訪問までの数日を待つ。果物をこれまでより一つ二つ多めに買うだけの準備をして、彼を待つのだ。
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