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理想の蕾は掌に
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時は過ぎる、花はいつか枯れる。嵐が散らすこともある。花を愛でる時間は限りあり、やがて見る目も閉じる。しかし、だからこそその一時は馨しい。
蕾が秘めたる可能性。これから咲き誇る予感と余地。花が綻び笑うその瞬間が此処にある。今宵に咲く色は白。
タドが語るその声をニビはベール越しに聞いた。白く、淡く透ける、花弁のように柔らかく薄いベールだった。
夕刻、香水店ロンゼンの新作披露の催しには多くの人が集った。解説の類は調香師や店員に任せ、ニビは喋らず試香に手を貸すだけの役に徹した。
服装はシンプルかつ伝統的な形の裾の長い黒服となった。ただしきちりと髪を纏めた頭には、そういった装いには普通用いないベールを被る。派手になりすぎず、しかし他とは違う存在感を放ち目立つ、老舗の格式と新しい挑戦を打ち出す姿だった。
すらりと立つその頂の秘密。見えそうで見えない絶妙さは、客の心を擽り引き寄せた。近づけば覗く美貌と共、ベールの内から広がる香りに皆感嘆の息を吐く。
「お手をどうぞ」
ニビが胸の前で手にするガラス製の香水瓶も、しっとりと深い黒色の地に白い花が咲いている。バラやツバキのようでもあり、クチナシやモクレンのようでもあり、どれとも違う、実在はしない空想の花だ。夜闇に香る姿を例の工芸家が見事に表現した、その中でも最もイメージに適うものを調香師が選んだ。特別な飾り瓶だった。
蕾の形をした蓋を摘まみ、香る一滴、ニビは練習した恭しい手つきで客の手に垂らす。
――まるで柔らかに花の中に抱かれるような経験だと、人々は絶賛した。そうした、どこか艶っぽく、ひっそりとした気配も持っている芳香だった。
ロンゼンの新時代を告げる第一作とその素晴らしさを伝える生きた広告の評判は、香水を多く購入する上流階級を皮切りに、次に庶民へと広まっていった。広告の男は男娼だとも囁かれたが――麝香などの強い臭いが香水の魅力を引き出す一要素として薄めて用いられるように――その醜聞も入り混じっては世間の関心をより高めた。その香りを嗅いでみたい、そしてその男を見てみたいと、多くの人々が連日ロンゼンへと訪れる。城に出入りする貴族たちの口を伝って、町の外にまで噂が広まりつつある。
まるで香りの化身かのように立ち、ニビは微笑んだ。毎日ではなく時折現れるのがまた客を盛り上げる。ニビはそうして演出をしたが、香水瓶のほうは新しく店の前に作られた飾り窓に常に置かれ、立派な香水を買えぬような若い娘たちの憧れの視線を集めていた。
タドが名付けた、香水の名前は『理想』という。
男娼は辞めることにしたので、もう体の相手はできない。
そう、何人か馴染みの客のところを訪れ、ニビは話をした。いつも服や宝飾品をくれた婦人、この町に来て最初の頃に相手して色々教えてもくれた男、賭け事に勝ったときだけ羽振りがよかった男、本命への想いと欲を秘めて慰めていた人。じゃあ元気でとすっぱり切れる人もいれば、この後は友達だという人もいた。最後の思い出だと張り切って抱いたり抱かれたりした。誰も特に引き留めてこなかったのが有難くもあり、やはり寂しくもあった。客のほうにだってプライドがある。この商売を上手くやってきた証でもあるだろうが、ちょっと拗れてみたかったかもなあと、ニビは一人で笑った。
代わりの仕事として、行きつけの飲み屋で雇ってもらうことにした。ニビをよく知る店主は歓迎してくれ、親しい店員にはタドとの関係も知られ、趣味を疑われたり羨ましいと喚かれたりした。とりえずそうやって働きついでに簡単な料理など教えてもらいながら、キンセに呼ばれたらロンゼンを手伝いに行く。そんなつもりだ。
タドのほうも新作に関わる顔出しや次の香水作りで、新しい生活という感じで忙しい。疲れたと言いながらも花の咲く季節になったので出歩いてもいる。今年は家に帰ればニビも居るのが嬉しいやら忙しいやらだった。花も嗅ぎたいがニビも嗅ぎたい。ずっとよい香りで彼の日々は充実している。
散歩から帰り、人目がない家ならと遠慮なく戯れてくるニビに笑い、花が咲いたのを引き寄せ匂いを確かめるようにタドも頬に触れ顔を寄せた。作った香水ではなくニビ自身の香りがするのを彼も遠慮なく楽しむ。
ニビは少しだけ我慢して待っていたが――堪えきれずに口づけをする。まだまだ彼は枯れないのだ。
蕾が秘めたる可能性。これから咲き誇る予感と余地。花が綻び笑うその瞬間が此処にある。今宵に咲く色は白。
タドが語るその声をニビはベール越しに聞いた。白く、淡く透ける、花弁のように柔らかく薄いベールだった。
夕刻、香水店ロンゼンの新作披露の催しには多くの人が集った。解説の類は調香師や店員に任せ、ニビは喋らず試香に手を貸すだけの役に徹した。
服装はシンプルかつ伝統的な形の裾の長い黒服となった。ただしきちりと髪を纏めた頭には、そういった装いには普通用いないベールを被る。派手になりすぎず、しかし他とは違う存在感を放ち目立つ、老舗の格式と新しい挑戦を打ち出す姿だった。
すらりと立つその頂の秘密。見えそうで見えない絶妙さは、客の心を擽り引き寄せた。近づけば覗く美貌と共、ベールの内から広がる香りに皆感嘆の息を吐く。
「お手をどうぞ」
ニビが胸の前で手にするガラス製の香水瓶も、しっとりと深い黒色の地に白い花が咲いている。バラやツバキのようでもあり、クチナシやモクレンのようでもあり、どれとも違う、実在はしない空想の花だ。夜闇に香る姿を例の工芸家が見事に表現した、その中でも最もイメージに適うものを調香師が選んだ。特別な飾り瓶だった。
蕾の形をした蓋を摘まみ、香る一滴、ニビは練習した恭しい手つきで客の手に垂らす。
――まるで柔らかに花の中に抱かれるような経験だと、人々は絶賛した。そうした、どこか艶っぽく、ひっそりとした気配も持っている芳香だった。
ロンゼンの新時代を告げる第一作とその素晴らしさを伝える生きた広告の評判は、香水を多く購入する上流階級を皮切りに、次に庶民へと広まっていった。広告の男は男娼だとも囁かれたが――麝香などの強い臭いが香水の魅力を引き出す一要素として薄めて用いられるように――その醜聞も入り混じっては世間の関心をより高めた。その香りを嗅いでみたい、そしてその男を見てみたいと、多くの人々が連日ロンゼンへと訪れる。城に出入りする貴族たちの口を伝って、町の外にまで噂が広まりつつある。
まるで香りの化身かのように立ち、ニビは微笑んだ。毎日ではなく時折現れるのがまた客を盛り上げる。ニビはそうして演出をしたが、香水瓶のほうは新しく店の前に作られた飾り窓に常に置かれ、立派な香水を買えぬような若い娘たちの憧れの視線を集めていた。
タドが名付けた、香水の名前は『理想』という。
男娼は辞めることにしたので、もう体の相手はできない。
そう、何人か馴染みの客のところを訪れ、ニビは話をした。いつも服や宝飾品をくれた婦人、この町に来て最初の頃に相手して色々教えてもくれた男、賭け事に勝ったときだけ羽振りがよかった男、本命への想いと欲を秘めて慰めていた人。じゃあ元気でとすっぱり切れる人もいれば、この後は友達だという人もいた。最後の思い出だと張り切って抱いたり抱かれたりした。誰も特に引き留めてこなかったのが有難くもあり、やはり寂しくもあった。客のほうにだってプライドがある。この商売を上手くやってきた証でもあるだろうが、ちょっと拗れてみたかったかもなあと、ニビは一人で笑った。
代わりの仕事として、行きつけの飲み屋で雇ってもらうことにした。ニビをよく知る店主は歓迎してくれ、親しい店員にはタドとの関係も知られ、趣味を疑われたり羨ましいと喚かれたりした。とりえずそうやって働きついでに簡単な料理など教えてもらいながら、キンセに呼ばれたらロンゼンを手伝いに行く。そんなつもりだ。
タドのほうも新作に関わる顔出しや次の香水作りで、新しい生活という感じで忙しい。疲れたと言いながらも花の咲く季節になったので出歩いてもいる。今年は家に帰ればニビも居るのが嬉しいやら忙しいやらだった。花も嗅ぎたいがニビも嗅ぎたい。ずっとよい香りで彼の日々は充実している。
散歩から帰り、人目がない家ならと遠慮なく戯れてくるニビに笑い、花が咲いたのを引き寄せ匂いを確かめるようにタドも頬に触れ顔を寄せた。作った香水ではなくニビ自身の香りがするのを彼も遠慮なく楽しむ。
ニビは少しだけ我慢して待っていたが――堪えきれずに口づけをする。まだまだ彼は枯れないのだ。
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