蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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後日談 ハッカ油を一滴

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 暑い日が続いていた。元々薄着で襟が開き気味のニビの服装もとびきり緩くなってきた。こうも適当な格好をしていても見苦しくないから美男は得なものだなあと、タドは感心するばかりである。とはいえ同居人が日毎暑がっていて微妙に元気がないのは気がかりで、自分もまたもさもさの頭を刈りたい気分になってきていたので、タドは秘策を持ち出した。
「ニビ君、風呂上りにこれを浴びておいで」
「なんですか? 新作?」
 夜半、仕事帰りの汗臭い体をどうにかしようとまっすぐ風呂場に向かうのを引き留め、手で揺らす香水瓶自体はニビにももう見慣れた物だった。タドが調香師として、あるいは私的に、ニビに試したいときにロンゼンから持ってくる。だから白い手はすんなり受け止めた。無垢な陶器の瓶には何か書いたラベルが貼られていることも多いが、今日は何もないのを飴色の目が確かめる。
「ハッカ油。原料の精油のほうだよ」
 ニビは意欲的に香水や店について学ぼうとしているので、タドも応えて、いつも丁寧に説明する。
「肌につけるんじゃなくて、水に溶いて浴びておいで。盥にほんの一滴でいいからね。入れすぎるとよくないから気をつけて」
 ただ今日の説明は雰囲気が違った。香りや、植物についての解説ではなく、使い方の指示のほうが細かい。そして表情にはなんとなく含むところがある。どこか楽しそうにして、いってらっしゃい、とニビを促す。
「はーい?」
 ニビは不思議そうにしながらも頷き風呂に向かった。タドはハッカと喧嘩しない匂いの茶を淹れにいった。そうして腰掛け待ち構える。ニビの自慢の黒髪は長いし、香水を試すときはタドに嗅がれると思って特に丁寧に洗うから、少し時間がかかる。四十分近く経った。
 やがて急いだ足音が聞こえてきて、半裸でまだ髪に水気を残したニビが明るい笑顔で居間に飛び込んでくると、タドももう相好を崩した。
「すごい、涼しい! こんな使い方もあるんですね!」
「はは、よかった」
 調香師タドは香料に詳しい。匂いは当然、その他の要素も手広く知識として備えている。
 この町の近隣にも栽培地のあるハッカの効能は匂いだけでなく、触れたときの清涼感が挙げられる。油を水に入れて浴びれば、この時期の温い水でもキンと冷えた冷水であったかのように身を冷ます。そしてその感覚がただの水より長続きする。夏には向きの特性だ。
 タドの言うことだからと匂いのことばかり考えていたニビは、その効果に感動していた。すーっと肌を包む清涼感が心地よくて最高だった。本当に、言うとおり一滴使っただけなのに全身清々しいのだから驚きだ。
「これだけでもう売れそう……」
 その興奮のままに呟き――直後はっとして、タドが目を細めるのに慌てる。
「勿論香りはタドさんが作ったものに負けますが」
「まあ、君は元がいいからね、それだけでも十分」
「すみません、怒らないで。言葉のあやってやつです……」
「怒ってないよ」
 タドはゆると首を振った。嘘ではない。喜んでくれてよかったと思っている。
 多少悔しいのはまあ、あるが。天然の香りの素晴らしさにはなかなか勝てないものだ。ましてや涼しさで競うのは分が悪い。清々しさを意図した調香の夏向けの香水の売れ行きも好調だが、こんな実用性は伴っていない。ただ今回は勝負のつもりではなかったし、ニビが驚いてはしゃいでくれたので、タドは満足である。
 あやすように頬を撫でてくる指先、微かに低い体温に目を閉じ、ついでに遠慮なく嗅ぐ。ハッカと、まだ石鹸の香りが強い。その中からニビの体臭を探るように鼻を押しつける。
「怒ってないとも。……うん、いい匂いだものな。夏の間は使うといいよ」
 予想どおり匂いの相性もよくて気分がよかった。普段使いしても問題が無いと勧めて、口角を上げる。
「君が夜這いにも来ないから心配だったんだ」
 笑い混じりの呟きに手が揺らぐ。タドが目を開けてみるとばちりと視線が交わった。ニビの指が、極めて自然な流れでもって耳を擽り首へと流れていく。
「タドさんが暑苦しいかと思ってたんですよ。暑いのだけじゃなくそっちも、我慢してたんです、僕」
「それも分かってるよ」
 目は、ランプの反射だけでなく爛々としていた。獲物を捉えた猫のようである。
 まず拭きなさいと濡れた髪を撫で返してやる、タドの掌が少しひやりとする。この後また暑くなって汗を掻くかもしれないが、そのときはまた二人で水を浴びればよいなと、彼は悠長に考えていた。明日は休みだし、ハッカ油は一滴で十分、小瓶一つでこの夏は保つ計算だ。
 暑さくらいでは削がれぬ元男娼の精力に付き合っているとちょっと使い過ぎる可能性はあったが――そこまでは、気温以上に熱烈な夜の最中に考えることではなかった。考える余裕は、この後タドには与えられなかった。
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