緑を分けて

綿入しずる

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その日八時に朝が来た

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 セヴラン・プレーツは、竪琴弾きライアスピラの母と二人で暮らしていた。美しい母は誰かの愛妾であり、彼はその誰かとの間にできた子供だった。セヴランはその誰かの素性をよく知らない。たまにやってきてはセヴランにも優しくはしてくれたが――母と会うときは偽名で過ごしているような、母よりもずっと年上の男だった。ただその誰かのお陰で、彼の幼少期は何不自由ないものであった。セヴランは瞳の色以外は父親に似ているのだった。
 自由気儘で子供っぽい母は愛する男に似た我が子を溺愛し、育ってからは友達のように接した。愛し、共に歌って遊んで、楽しいことを教えた。その結果セヴランは彼女に似た奔放さを備え、我儘で甘ったれに成長した。
 彼の交友関係は極めて狭かった。たまには友達ができることがあったが、近所の子供は娼婦もどきの竪琴弾きの母を快く思わない親に言われてすぐ疎遠になった。そして――どうにかそこを抜けて友達付き合いを続けられてもセヴラン自体にも問題があった。誰かと親しくなるほどに、彼はその友情を確かめたがる悪癖があったのだ。母から常々目一杯まで愛されていたのでちょっとやそっとでは愛されていると思えなくなっていた。他の友達や他の用事を優先されると拗ね、我儘を言って聞いてもらうことでやっと満たされた。しかしそんな関係が長続きするわけもなく、やがて喧嘩になり、面倒臭がって皆離れていってしまう。それから寂しがってももう遅い。楽師仲間ともその場での付き合いが精々だった。大体は母と遊んでいた。
 それでも母が元気でいるうちはよかったのだ。楽しく二人で竪琴を弾いて持て囃されていればよかった。だがその母は、彼が十九になった頃に病に臥した。
 いつからか父が姿を見せなくなり、死んだのだと聞かされる。愛妾の立場では葬式は当然、墓参りもできない。母は気落ちして、体調を崩し始めた。やがてその体調不良が酷く彼女を苦しめるようになり――これは病、命に係わるものだ、と医者に言われてからは、転がり落ちるよう。愛らしい女であったセヴランの母は酷く取り乱して叫んだり暴れたりするようになった。
 苦しい、怖い、一人にしないで。どうして。
 そういう母の声を無視することは、彼にはできなかった。多少調子がよくなったと思い家に置いて稼ぎに出ても結局、不安が過ぎればすべて放り出して帰った。そうするうちにそもそも仕事には呼ばれなくなった。楽しみの場で不穏な竪琴を聞きたい者など居なかった。
 セヴランは母に対し、出来ることはなんでもした。医者を呼び、看病して、好きなものを食わせては手を握り隣にいた。彼女の為だけに竪琴を弾いて歌った。やがて起き上がることもできなくなった彼女が朦朧として父の名で呼ぶのにもそれらしく答えてやった。けれど母の体調は一向に良くはならず――冬の日に眠るようにして事切れた。
 母が死んで、セヴランは勿論悲しかったが、一方で安堵もした。これで終わった。どうにか最期は安らかに済んだ、母はもう苦しむことはないのだと分かって、心底、ほっとした。
 けれどやっぱり、それでも置いていかないでほしかった、と思って、一人になってしまったのだと思って、もうどうしようもなく悲しくなり、動けなくなった。自分一人では生きていける気がしなかった。実際そうで、セヴランはそれから生きてはいなかった。体は無事なのに死んでしまう勇気ばかりはどうしても出なくて、仕方なくそのままで居ただけだ。あれほど大好きだった竪琴も弾き方を忘れ、それがまた苦しくて、思い出と共に封じてしまった。埃を積もらせていくそれに、胸が痛むことがないわけではなかったけれど。
 暫らくは、そんなではいけない、生きていかなくては、と声をかけてくれた人もいた。同情して共に母を悼んで泣いてもくれた。一度は彼を見限った雇い主――酒場の店主や劇場の支配人、楽師の同胞、共に歌った酔客たちだった。けれどその人たちも時が経つほど冷淡、、になっていく。戻って弾かないかと誘ってくれたのには、母親ももう死んだのから落ち着いただろうと、そう言われた気がして、耐えきれなくて逃げた。誰も悲しみを分かってくれない。自分も確かにそう思っていたのを当てられたようで、後ろめたい。あんなにも愛していたのに、愛しているのに。どうしようもなく寂しい。心が千々に散っていた。
 結局セヴランは、母が遺した財産とそれまでの貯金を削って生活するようになった。酒で酔い、賭け事の緊迫感で気を散らして、女の肌に縋った。柔らかい胸に顔を埋めるのは母に抱きしめられたことを思い出した。その記憶を塗りつぶした。
 そんな無茶をやっていれば余裕があったはずの貯えは数年で無くなった。使わない家具を売りに出して凌ぐ。この家ならよい値がつくだろう、安い部屋に引っ越しして売らないかと持ちかけられたこともあったが、それは躊躇した。母が愛した、自身の生まれ育った家である。もう随分と変わり荒れ果てていても。母の服や宝飾品もよい品があることは分かっていたが、売れなかった。母の部屋はそのまま閉じ込めて久しい。
 愛した母は亡く。愛した家はこの有様。彼自身、弱り果てていた。
 今度こそもう本当に、この家で自分も死んでしまおうか。怖いけれど、家を売ってしまうよりは楽だ。
 幾度目か。考え、しかしその夜も決意はしきれずに、目覚めた日。彼は奇妙なものを見た。自らの右手に乗った緑色。数度払っても落ちないのでよく見れば、生えている、何かの葉。
 ――なんだよ、これ。
 彼は怯えて身を起こした。それまでは死のうかと思っていたのに、悪い病気か、死んでしまうのだろうかと考えると恐ろしかった。その柔らかな草を恐る恐る摘まみ、引き抜いて――痛みはなかった――やはり何かの植物らしいのを見て、泣きそうになった。血ではなく青い匂いが滲んでくる。得体が知れないのにどうにも優しい色をしているのに混乱した。
 ――なんだよお。
 どこかから落ちた葉っぱか何かが手に着いただけだ。そう思いたかったが、撫でたくらいでは取れなかったことからしても、その日は外に出ていないことからしてもそれは本当は考えづらく――
 少ししてまた生えているのを見て、結局彼は医者を頼った。医者も驚いた顔をしたがしかし、すぐ何処かに連絡をする。そうしてセヴランに、こういうのはただちに知らせるようにと国に言われている、病気ではないらしいし、確かよくしてもらえるはずだと教えた。それに、どれほど彼がほっとしたか。
 そしてその後これが、彼も歌に知る神々の世界からやってきているものらしいと聞かされて、どれほど驚き呆然としたか。そんな中でも、益を齎すので国が管理する、金を貰える――あの家を売らなくとも生活できると聞いて、喜んだか。
 セヴランは喜んだ。
 これは神様がくれた幸運だと、心底、思った。

 セヴランは朝を待った。八時に担当者が来ると言われていたが、時計は売ってしまっていたので、遠くで鐘がその時を知らせるのに耳を澄ませた。そろそろ鳴るか、もしかしたらもう鳴っていたかと思う間に、鐘ではなくノックの音が聞こえた。
 どきどきとしながら扉を開ける。朝の光がセヴランを包み込んだ。
 ――眩しい。
 扉を開けた先に立っていた男たちは、綺麗な緑色のマントを羽織っていた。母がその色を好きだったことを、セヴランは急に思い出した。
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