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園の片隅(前)
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「んぁ……ここか……」
天気のよい朝だった。眩しさにくすぐられたようにして瞼を開けて、セヴランは寝違えた雰囲気で右肩に触れた。鎖骨のあたりから始まって見えない背の側に向かい、何か生えているのが分かる。そのこと自体にはもう慣れたが、見えない。鏡も売ってしまったので確認ができない。しかしなんとなくいつもと違う手触りがした。少なくとも蔦や葡萄の葉ではなさそうなのが、素人の手でも察せられた。
「あの花じゃないよな……」
すんと鼻を鳴らしてみても菫の匂いはしないし、草というより枝の感触があった。多分違う。それにまず安心した。恋の卵なら大慌てだし、今カイとああいうことになったら絶対、以前とは違う類の気まずさがある。勘弁願いたかった。そういうことにはそれなりの段階を経たかった。
それにしても涼しくなってきたのに服を着られないのは困るよなあと思いながらズボンを履き、生えたものに引っかけぬよう緩く襟を落としてシャツを羽織り、とりあえずトイレに行く。そのうちに遠くで鐘の音が聞こえたので、丁度よい。いつものように窓辺に腰掛け、水を飲みながら園丁官の訪れを待った。
訪問はすぐ。十分も待たず響くノックに顔を緩め出迎えて、すぐにくるりと戻りながら肩や背を示す。慣れたものだった。
「今日はこのへん」
「――これまでとは違うな。霊香柳や庭常じゃない……」
ただ今日はいつもの流れから少し外れる。カイの表情が一段引き締まった。居間に向かう最中で見る分にも、見慣れて新芽でも判断できるようになった種とは違うのが判別できた。滑らかな樹皮のどこか優美な一枝は、白く縁の見える丸みある形の葉をつけ始めていた。
じっと凝らしていた碧眼は、はいどうぞと右側を向けてセヴランが座るまでに大きく瞠られていた。テーブルに寄っても立ったままのカイは真っ先に、図鑑ではなく通信機を掴みとった。逸る気持ちと手元を制していつもの手順を辿る。撮影、鑑定依頼。セヴランはその様子を見上げてぱちぱちと瞬いた。
「……またなんか珍しいものでも生えた?」
連絡を入れるだけで後は黙ってしまった園丁官に、これまでとは違う緊張感を感じて訊ねる。自分でも確かめようと目を向けるがどうにも見えない。カイが答えるより先に、握られたままの通信機が声を発した。
「エッカルト、追加で園丁官を派遣します。そのまま観察を続けてください」
セヴランの問いを肯定する雰囲気と内容だった。
「黄金果樹の可能性がある。対応は慎重に――最良の状態で、採取を行います。消失や枯死の兆候が見られた際には判断を」
「――了解しました」
通信機を介した平淡な声音が伝える名に、セヴランはまた目を丸くした。
「黄金の果実? 神様が食べるやつ? なってる?」
どうなってると自分からは見えぬ枝を確かめようとする手はすかすかと宙を掻く。雑に葉を掠めそうなのをカイが掴んで止めて、膝に落ち着ける。ようやく声が出た。
「まだ実ってはない。枝葉だけだ」
「それで分かるんだ、さすが」
「最重要の標本だ。最初に教わってる。多分、なるべく生育してから採取だ」
黄金果樹。神々の園の最たるものはその果樹園である。多くの神話に登場する――子供でも知っているほどに有名な、神やそれに連なる者たちの不老の源。力の根源だ。一つ食えば一年身を保つ。人であれば、神のような力を得ることもあるという。それ故に多くの者が求め、騒動や争いさえ招いてきた。
セヴランの肩に宿ったのは、その苗木だ。
希少種の発現時の手引きはあって見通しは立つが、何せいつ消えてしまうか分からない代物である。すぐに消える可能性は低いとは言えど、何がなんでも、一番よいと思われる形で手に入れたい。現場の判断は委ねられている。危険ではないがカイの緊張は凄まじい。
カイは一度、自らを落ち着けるべく深呼吸した。実物は以前にも研修で見たことがある。平素はごく一部の園丁官のみが出入りする本部の深層、第一保管庭園で栽培されているのを見上げて目に焼きつけた。小さな林檎にも似た濃黄色の果実をたわわにつけてまさしく輝くようであった。今目の当たりにする枝に実りの気配はないが、それでもどこか照るように美しい。
思い至って記録用の撮影も始める。角度を変えて、通信機を近づけて。惜しくも根はないように見える。――確かに触れる。
「綺麗だ」
思わず、吐息と共に呟きが零れた。
「気になるなさすがに」
「……この家鏡くらいないのか」
「多分無いよ」
セヴランにはどうにもカイの様子しか見えなかった。折角なら当事者にも見せてやりたいとはカイも思うが――返事はそんなもので、壁掛けの鏡どころか手鏡さえ出てきそうにない。仕方なく、代わりに図鑑を開いてやった。古来の壁画の写しから園丁官が描き上げた精密画まで数多くが敷き詰めるように並んでいる。覗き込み、絵ではいまいち普通の木にしか見えぬのを眺め、セヴランは首を傾げた。
「黄金の果実、なったら食べるの?」
ページを撫で、まだついていないという果実の丸い形を辿って訊ねる。カイは首を振った。振ったが、きっと誰か食べているんだろうとは思った。そうでなければ価値はない。園丁官とは言え末端の人間には用途を知らされてはいないだけだ。セヴランは一人で得心して頷く。
「まあ多分王様とかそのへんだよね。偉い人好きだもんな、そういうの」
緊張し、興奮しきっている園丁官に対して当の庭の声は軽い。カイは数度瞬いてから問うた。
「貴方は……興味がないか?」
正直そのほうが、園丁官には有難くはあった。本人が野心など持って捥いで口に入れようものなら、またこれで儲けてやろうとでも考えたなら騒動になる。他の植物のときでもそうだが、ぞんざいに扱わない程度の関心で済ませてくれるのが一番だ。ただ、あの黄金の果実だぞ、と思いはする。
セヴランはより大きく首を傾げた。
「神様みたいに長生きしたってしょうがないでしょ。ああでも、うーん、あれか、死ぬまで老けないってんなら、やっぱ興味はあるかな。よれよれにならないで居られるってんなら。そりゃそのほうがありがたいよね」
多くの――今思い出しきることは難しいほどに数多ある、黄金の果実に関する歌や語りに思いを馳せながら、今は調べに乗せるでもなくあやふやに纏まらない言葉にする。
彼は別に、果実を食んで暮らす神でもなければ、こうしたものを追い求める王や勇者でもなく、ただ庭になっただけの人だった。カイたちと違ってこれを調べて採取して回っているわけでもない。急にぽんと生えてきても有難みが、というのが正直なところだった。肩を竦めると枝も小さく揺れる。
枝葉に――己に視線を注ぐ男を見上げて、彼は目を細めた。
「君は食べたい? 一個くらいなら黙って見ててやるよ」
唆すように言うから、カイは自身が神話の一人物になったように錯覚した。セヴランのことも、まだ実りなきその枝の化身であるようにも思えてならなかった。
――ああ今、神話の一端に居る。
勘違いでもなくそう考えて、じわと滲む感動にまた立ち尽くす。
「――まあまったく興味がないとは、言わないが。俺は採取ができれば十分だ」
頬を、軽く張るように擦って立ち返る。呆然と呑まれるのではいけない。神話に臨む庭師としての務めを果たすのだと自らを鼓舞する。記録の撮影はした。あとは、いつもどおりだ。彼は植物と、生えた人間のほうも相手にする特別な庭師、園丁官である。
体調は、普段と変わりない。その確認をして記録をつけておく。いつもよりなお手早くカルテを記しながら、応援の到着までにすべきことを考える。
一園丁官として――何より彼として、やるべきことがあった。
「なあ、多分また、暫らく向こうで過ごしてもらうことになると思う。――持っていきたい物とか、連絡しておきたい人とか、ないか」
発現したのが黄金果樹となれば、此処ではなく本部で管理することになるには違いなかった。――もしかすれば長期、期間など限りなく。そんな可能性もあった。
折角此処も掃除したのになんて思って、カイはそこまでは言えなかった。長引くようならきっと反対すると、この場でもう決めていた。押し隠して問うとセヴランは納得と諦め半々の表情で頷いた。すぐ切って持っていけと頼んだところでそうはならないのは明らかだ。魔法的誓約の効果もあって前よりも従順だった。
反発するとカイが困る。困るだけならよいが、折角仲良くなったのを揉めて台無しにしたくなかった。そういう意味でも同意するしかなかった。
「なるべく短期間で」
「善処する」
詭弁でもなくまっすぐ答えが返ってくるので信じることにした。きっとすぐに帰ってこられる我が家を見渡し、綺麗にはなったが物がないのをその目に映した。
「持ってくのは竪琴くらいかな。あと鍵と財布と。きっと俺は暇なんだろうからまた本貸してよ」
前回でなんとなく勝手は掴めていた。着替えも何も要らないのだから、旅に出るより気軽だった。あそこに閉じ込められるなら欲しいのは日用品より娯楽のほうだ。他の物は後で注文をつけるとして、楽器は絶対。今日もすぐ傍らに置かれたものを示して言えばカイも真剣なままに頷いた。
直後、セヴランがあっと声を上げるのに驚く。何か起こったのかと慌てて、肩の枝葉にも目を向けた。
「トルテ買ってあったんだけど。……今食っちゃわない?」
が、出てきた言葉はそんなもので――
「……引き継いだら取ってくる。それまで我慢してくれ」
「大人しく待ってるよ? 一緒に食おうよ」
腹が減っているという話ではない。ことくらい、カイも分かってはいるのだが。さっきのような蠱惑の響きではなく、聞き慣れてしまった駄々を捏ねるかの調子になっていくのに、むしろ弱ってしまう。
園は選ばない。何を生やしていようとセヴランはセヴランに違いなかった。
「まさか。怒られる」
「そんなすぐ来ないでしょ、今なら間に合うって」
「庭を見るのが俺の仕事なんだ」
「その庭のご希望だぞ。聞けよ」
カイが頑なに首を横に振るのでセヴランは盛大に溜息を吐いた。予定どおり燃料も、茶葉も菓子も用意して、ティーセットも万全なのに。
微かな重みと存在感を感じる首を撫でる。確かに生えろとは願ったがこんなに貴重なものじゃないほうがよかった。彼としてはいつものやつでよかったのだ。
「せっ、っかく、用意したのに」
ものの見事に不貞腐れたセヴランにカイも眉を下げた。黄金果樹の前には霞んでしまうが、彼だってその時間を楽しみにしていたのは確かだ。セヴランが用意していたというのも嬉しい。ちょっとにやけるくらいには。状況が状況なので上手く笑えないのがまたもどかしい。
枝ではなくセヴランの肩に手を置き、カイはまっすぐ彼を見た。背けられていた視線が上がってくるのを待って、口を開く。
「俺も残念だけど。――今度焼いてくるから。やりなおさせてくれ」
「……スモモのトルテ。アーモンドの乗ったやつ」
「分かった。約束する」
ぐう、とセヴランは呻いた。そんな真摯な眼差しと声で約束して、菓子を焼いてくれるなら、仕方ない。お叱りを恐れずこっそり一緒に食べてくれればもっとよいが。そうしてほしくて堪らなかったが。
「……俺、君が怒られるところ見たいなぁ」
「酷いこと言うな。ちょっとした説教じゃないぞ。――そんなことで担当を外されたらどうする」
「それはやだ……」
言ってみるととんでもないとカイが眉を寄せた。園丁官も軍人で、そういうところは大変に厳しい。少なくとも始末書は免れないし懲罰さえ過ぎる。この優秀で真面目な男が怒られるところを一度くらい見ておきたいのは冗談でもなかったが、脅しにはセヴランの眉も寄った。
言うとおり他の園丁官はすぐには来なかったが、変化は起きた。さわ、と葉擦れの音が聴こえるのに顔を上げても、その音を発したのは彼自身である。担いでいるかの具合の葉が肌を掠める。枝が分かれて育ってきた。もしかすれば風の音も聞こえているのかもしれないと思ってセヴランが耳に手を持っていくうちに、カイが判断した。
「セヴラン、外に出よう。もしかしたらもっと育つかもしれない……人目にはつきたくないが」
普段の庭常のように扉に引っ掛かると困る。ほんの半日ほどで大木に育つ例も見たことはないが知ってはいた。提案にセヴランは窓の外を指差した。
「そっち、裏のほうなら誰も見ないよ。前はよく爺さんが日向ぼっこしてたけど、居なくなったから」
「じゃあそうしよう」
セヴランは竪琴を抱えて、カイは鞄を持って、裏口から出た。立派な家は庭もそれなりの広さがある。ただし手入れなどされておらず、片や土が見え、片や庭木や雑草が伸び放題の有様だった。窓から見えるたびに思っていたけれど――やっぱり此処も戻ってこられたらどうにか、などと、カイは人の家に勝手なことを思った。
二人、少し隠れるように身を屈める。
時期柄半分枯れて色を変え葉を落としつつある中で、一つ、黄金果樹だけが青く瑞々しく目立っていた。そこだけ違う場所であるかのようだった。
カイの手が伸びてそっと梢に触れる。肌に溶け込む根元までを確かめ束の間見惚れて、すぐにセヴラン自身も窺う。薄着の肩にマントを貸しながら、なんとなく声も潜められた。
「……重くないか?」
「案外平気」
――お茶できないのは悔しいけど。家を出るのはやだし、色々めんどくさいけど。
カイの関心がまるで逸らされないのが結局嬉しい。だからやっぱり、生えるのは悪くないかもなとセヴランは思う。こんなに風に世話を焼いてもらえるのはこれのお陰だと思えば、庭であることは不幸ではない。庭にならなければ出会わなかった相手だと思えばなおのこと。
竪琴と共にマントの端を抱き寄せほんのり甘い心地に浸るうちに、表の道のほうから話し声が聞こえてきた。カイが呼べば家の構造を知っているデニスが先導してくる。
デニスと、園丁官が三人。カイも顔を知る内勤の園丁官たちは皆、黄金果樹を認めて感嘆の息を吐いた。断定がされ、急ぎで判断が話し合われる中でも木は伸び伸びと枝を広げている。
「プレーツさん、貴方は本部の管理下に入ります。急で生憎ですがこれは命令です。同行願います」
大した時間はかけずに段取りが成されて一言宣言されるのに、セヴランもどうぞと殊更はっきり頷いてやった。用意はできているとばかり、目立つ手荷物の竪琴を掲げて導かれるままに表へと向かう。
「隠匿の魔法で護送します。今、最短経路を確保中です」
「自分、荷物と施錠を」
カイは話していたとおり、台所に置かれていた菓子の包みを掴んで馬車へと向かった。今日のこれは、道すがら朝食になるだろう。
天気のよい朝だった。眩しさにくすぐられたようにして瞼を開けて、セヴランは寝違えた雰囲気で右肩に触れた。鎖骨のあたりから始まって見えない背の側に向かい、何か生えているのが分かる。そのこと自体にはもう慣れたが、見えない。鏡も売ってしまったので確認ができない。しかしなんとなくいつもと違う手触りがした。少なくとも蔦や葡萄の葉ではなさそうなのが、素人の手でも察せられた。
「あの花じゃないよな……」
すんと鼻を鳴らしてみても菫の匂いはしないし、草というより枝の感触があった。多分違う。それにまず安心した。恋の卵なら大慌てだし、今カイとああいうことになったら絶対、以前とは違う類の気まずさがある。勘弁願いたかった。そういうことにはそれなりの段階を経たかった。
それにしても涼しくなってきたのに服を着られないのは困るよなあと思いながらズボンを履き、生えたものに引っかけぬよう緩く襟を落としてシャツを羽織り、とりあえずトイレに行く。そのうちに遠くで鐘の音が聞こえたので、丁度よい。いつものように窓辺に腰掛け、水を飲みながら園丁官の訪れを待った。
訪問はすぐ。十分も待たず響くノックに顔を緩め出迎えて、すぐにくるりと戻りながら肩や背を示す。慣れたものだった。
「今日はこのへん」
「――これまでとは違うな。霊香柳や庭常じゃない……」
ただ今日はいつもの流れから少し外れる。カイの表情が一段引き締まった。居間に向かう最中で見る分にも、見慣れて新芽でも判断できるようになった種とは違うのが判別できた。滑らかな樹皮のどこか優美な一枝は、白く縁の見える丸みある形の葉をつけ始めていた。
じっと凝らしていた碧眼は、はいどうぞと右側を向けてセヴランが座るまでに大きく瞠られていた。テーブルに寄っても立ったままのカイは真っ先に、図鑑ではなく通信機を掴みとった。逸る気持ちと手元を制していつもの手順を辿る。撮影、鑑定依頼。セヴランはその様子を見上げてぱちぱちと瞬いた。
「……またなんか珍しいものでも生えた?」
連絡を入れるだけで後は黙ってしまった園丁官に、これまでとは違う緊張感を感じて訊ねる。自分でも確かめようと目を向けるがどうにも見えない。カイが答えるより先に、握られたままの通信機が声を発した。
「エッカルト、追加で園丁官を派遣します。そのまま観察を続けてください」
セヴランの問いを肯定する雰囲気と内容だった。
「黄金果樹の可能性がある。対応は慎重に――最良の状態で、採取を行います。消失や枯死の兆候が見られた際には判断を」
「――了解しました」
通信機を介した平淡な声音が伝える名に、セヴランはまた目を丸くした。
「黄金の果実? 神様が食べるやつ? なってる?」
どうなってると自分からは見えぬ枝を確かめようとする手はすかすかと宙を掻く。雑に葉を掠めそうなのをカイが掴んで止めて、膝に落ち着ける。ようやく声が出た。
「まだ実ってはない。枝葉だけだ」
「それで分かるんだ、さすが」
「最重要の標本だ。最初に教わってる。多分、なるべく生育してから採取だ」
黄金果樹。神々の園の最たるものはその果樹園である。多くの神話に登場する――子供でも知っているほどに有名な、神やそれに連なる者たちの不老の源。力の根源だ。一つ食えば一年身を保つ。人であれば、神のような力を得ることもあるという。それ故に多くの者が求め、騒動や争いさえ招いてきた。
セヴランの肩に宿ったのは、その苗木だ。
希少種の発現時の手引きはあって見通しは立つが、何せいつ消えてしまうか分からない代物である。すぐに消える可能性は低いとは言えど、何がなんでも、一番よいと思われる形で手に入れたい。現場の判断は委ねられている。危険ではないがカイの緊張は凄まじい。
カイは一度、自らを落ち着けるべく深呼吸した。実物は以前にも研修で見たことがある。平素はごく一部の園丁官のみが出入りする本部の深層、第一保管庭園で栽培されているのを見上げて目に焼きつけた。小さな林檎にも似た濃黄色の果実をたわわにつけてまさしく輝くようであった。今目の当たりにする枝に実りの気配はないが、それでもどこか照るように美しい。
思い至って記録用の撮影も始める。角度を変えて、通信機を近づけて。惜しくも根はないように見える。――確かに触れる。
「綺麗だ」
思わず、吐息と共に呟きが零れた。
「気になるなさすがに」
「……この家鏡くらいないのか」
「多分無いよ」
セヴランにはどうにもカイの様子しか見えなかった。折角なら当事者にも見せてやりたいとはカイも思うが――返事はそんなもので、壁掛けの鏡どころか手鏡さえ出てきそうにない。仕方なく、代わりに図鑑を開いてやった。古来の壁画の写しから園丁官が描き上げた精密画まで数多くが敷き詰めるように並んでいる。覗き込み、絵ではいまいち普通の木にしか見えぬのを眺め、セヴランは首を傾げた。
「黄金の果実、なったら食べるの?」
ページを撫で、まだついていないという果実の丸い形を辿って訊ねる。カイは首を振った。振ったが、きっと誰か食べているんだろうとは思った。そうでなければ価値はない。園丁官とは言え末端の人間には用途を知らされてはいないだけだ。セヴランは一人で得心して頷く。
「まあ多分王様とかそのへんだよね。偉い人好きだもんな、そういうの」
緊張し、興奮しきっている園丁官に対して当の庭の声は軽い。カイは数度瞬いてから問うた。
「貴方は……興味がないか?」
正直そのほうが、園丁官には有難くはあった。本人が野心など持って捥いで口に入れようものなら、またこれで儲けてやろうとでも考えたなら騒動になる。他の植物のときでもそうだが、ぞんざいに扱わない程度の関心で済ませてくれるのが一番だ。ただ、あの黄金の果実だぞ、と思いはする。
セヴランはより大きく首を傾げた。
「神様みたいに長生きしたってしょうがないでしょ。ああでも、うーん、あれか、死ぬまで老けないってんなら、やっぱ興味はあるかな。よれよれにならないで居られるってんなら。そりゃそのほうがありがたいよね」
多くの――今思い出しきることは難しいほどに数多ある、黄金の果実に関する歌や語りに思いを馳せながら、今は調べに乗せるでもなくあやふやに纏まらない言葉にする。
彼は別に、果実を食んで暮らす神でもなければ、こうしたものを追い求める王や勇者でもなく、ただ庭になっただけの人だった。カイたちと違ってこれを調べて採取して回っているわけでもない。急にぽんと生えてきても有難みが、というのが正直なところだった。肩を竦めると枝も小さく揺れる。
枝葉に――己に視線を注ぐ男を見上げて、彼は目を細めた。
「君は食べたい? 一個くらいなら黙って見ててやるよ」
唆すように言うから、カイは自身が神話の一人物になったように錯覚した。セヴランのことも、まだ実りなきその枝の化身であるようにも思えてならなかった。
――ああ今、神話の一端に居る。
勘違いでもなくそう考えて、じわと滲む感動にまた立ち尽くす。
「――まあまったく興味がないとは、言わないが。俺は採取ができれば十分だ」
頬を、軽く張るように擦って立ち返る。呆然と呑まれるのではいけない。神話に臨む庭師としての務めを果たすのだと自らを鼓舞する。記録の撮影はした。あとは、いつもどおりだ。彼は植物と、生えた人間のほうも相手にする特別な庭師、園丁官である。
体調は、普段と変わりない。その確認をして記録をつけておく。いつもよりなお手早くカルテを記しながら、応援の到着までにすべきことを考える。
一園丁官として――何より彼として、やるべきことがあった。
「なあ、多分また、暫らく向こうで過ごしてもらうことになると思う。――持っていきたい物とか、連絡しておきたい人とか、ないか」
発現したのが黄金果樹となれば、此処ではなく本部で管理することになるには違いなかった。――もしかすれば長期、期間など限りなく。そんな可能性もあった。
折角此処も掃除したのになんて思って、カイはそこまでは言えなかった。長引くようならきっと反対すると、この場でもう決めていた。押し隠して問うとセヴランは納得と諦め半々の表情で頷いた。すぐ切って持っていけと頼んだところでそうはならないのは明らかだ。魔法的誓約の効果もあって前よりも従順だった。
反発するとカイが困る。困るだけならよいが、折角仲良くなったのを揉めて台無しにしたくなかった。そういう意味でも同意するしかなかった。
「なるべく短期間で」
「善処する」
詭弁でもなくまっすぐ答えが返ってくるので信じることにした。きっとすぐに帰ってこられる我が家を見渡し、綺麗にはなったが物がないのをその目に映した。
「持ってくのは竪琴くらいかな。あと鍵と財布と。きっと俺は暇なんだろうからまた本貸してよ」
前回でなんとなく勝手は掴めていた。着替えも何も要らないのだから、旅に出るより気軽だった。あそこに閉じ込められるなら欲しいのは日用品より娯楽のほうだ。他の物は後で注文をつけるとして、楽器は絶対。今日もすぐ傍らに置かれたものを示して言えばカイも真剣なままに頷いた。
直後、セヴランがあっと声を上げるのに驚く。何か起こったのかと慌てて、肩の枝葉にも目を向けた。
「トルテ買ってあったんだけど。……今食っちゃわない?」
が、出てきた言葉はそんなもので――
「……引き継いだら取ってくる。それまで我慢してくれ」
「大人しく待ってるよ? 一緒に食おうよ」
腹が減っているという話ではない。ことくらい、カイも分かってはいるのだが。さっきのような蠱惑の響きではなく、聞き慣れてしまった駄々を捏ねるかの調子になっていくのに、むしろ弱ってしまう。
園は選ばない。何を生やしていようとセヴランはセヴランに違いなかった。
「まさか。怒られる」
「そんなすぐ来ないでしょ、今なら間に合うって」
「庭を見るのが俺の仕事なんだ」
「その庭のご希望だぞ。聞けよ」
カイが頑なに首を横に振るのでセヴランは盛大に溜息を吐いた。予定どおり燃料も、茶葉も菓子も用意して、ティーセットも万全なのに。
微かな重みと存在感を感じる首を撫でる。確かに生えろとは願ったがこんなに貴重なものじゃないほうがよかった。彼としてはいつものやつでよかったのだ。
「せっ、っかく、用意したのに」
ものの見事に不貞腐れたセヴランにカイも眉を下げた。黄金果樹の前には霞んでしまうが、彼だってその時間を楽しみにしていたのは確かだ。セヴランが用意していたというのも嬉しい。ちょっとにやけるくらいには。状況が状況なので上手く笑えないのがまたもどかしい。
枝ではなくセヴランの肩に手を置き、カイはまっすぐ彼を見た。背けられていた視線が上がってくるのを待って、口を開く。
「俺も残念だけど。――今度焼いてくるから。やりなおさせてくれ」
「……スモモのトルテ。アーモンドの乗ったやつ」
「分かった。約束する」
ぐう、とセヴランは呻いた。そんな真摯な眼差しと声で約束して、菓子を焼いてくれるなら、仕方ない。お叱りを恐れずこっそり一緒に食べてくれればもっとよいが。そうしてほしくて堪らなかったが。
「……俺、君が怒られるところ見たいなぁ」
「酷いこと言うな。ちょっとした説教じゃないぞ。――そんなことで担当を外されたらどうする」
「それはやだ……」
言ってみるととんでもないとカイが眉を寄せた。園丁官も軍人で、そういうところは大変に厳しい。少なくとも始末書は免れないし懲罰さえ過ぎる。この優秀で真面目な男が怒られるところを一度くらい見ておきたいのは冗談でもなかったが、脅しにはセヴランの眉も寄った。
言うとおり他の園丁官はすぐには来なかったが、変化は起きた。さわ、と葉擦れの音が聴こえるのに顔を上げても、その音を発したのは彼自身である。担いでいるかの具合の葉が肌を掠める。枝が分かれて育ってきた。もしかすれば風の音も聞こえているのかもしれないと思ってセヴランが耳に手を持っていくうちに、カイが判断した。
「セヴラン、外に出よう。もしかしたらもっと育つかもしれない……人目にはつきたくないが」
普段の庭常のように扉に引っ掛かると困る。ほんの半日ほどで大木に育つ例も見たことはないが知ってはいた。提案にセヴランは窓の外を指差した。
「そっち、裏のほうなら誰も見ないよ。前はよく爺さんが日向ぼっこしてたけど、居なくなったから」
「じゃあそうしよう」
セヴランは竪琴を抱えて、カイは鞄を持って、裏口から出た。立派な家は庭もそれなりの広さがある。ただし手入れなどされておらず、片や土が見え、片や庭木や雑草が伸び放題の有様だった。窓から見えるたびに思っていたけれど――やっぱり此処も戻ってこられたらどうにか、などと、カイは人の家に勝手なことを思った。
二人、少し隠れるように身を屈める。
時期柄半分枯れて色を変え葉を落としつつある中で、一つ、黄金果樹だけが青く瑞々しく目立っていた。そこだけ違う場所であるかのようだった。
カイの手が伸びてそっと梢に触れる。肌に溶け込む根元までを確かめ束の間見惚れて、すぐにセヴラン自身も窺う。薄着の肩にマントを貸しながら、なんとなく声も潜められた。
「……重くないか?」
「案外平気」
――お茶できないのは悔しいけど。家を出るのはやだし、色々めんどくさいけど。
カイの関心がまるで逸らされないのが結局嬉しい。だからやっぱり、生えるのは悪くないかもなとセヴランは思う。こんなに風に世話を焼いてもらえるのはこれのお陰だと思えば、庭であることは不幸ではない。庭にならなければ出会わなかった相手だと思えばなおのこと。
竪琴と共にマントの端を抱き寄せほんのり甘い心地に浸るうちに、表の道のほうから話し声が聞こえてきた。カイが呼べば家の構造を知っているデニスが先導してくる。
デニスと、園丁官が三人。カイも顔を知る内勤の園丁官たちは皆、黄金果樹を認めて感嘆の息を吐いた。断定がされ、急ぎで判断が話し合われる中でも木は伸び伸びと枝を広げている。
「プレーツさん、貴方は本部の管理下に入ります。急で生憎ですがこれは命令です。同行願います」
大した時間はかけずに段取りが成されて一言宣言されるのに、セヴランもどうぞと殊更はっきり頷いてやった。用意はできているとばかり、目立つ手荷物の竪琴を掲げて導かれるままに表へと向かう。
「隠匿の魔法で護送します。今、最短経路を確保中です」
「自分、荷物と施錠を」
カイは話していたとおり、台所に置かれていた菓子の包みを掴んで馬車へと向かった。今日のこれは、道すがら朝食になるだろう。
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
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「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
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ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
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魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由
スノウマン(ユッキー)
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スラム育ちの少年二人は、15歳になり神の祝福でスキルを得た事で道をたがえる。彼らはやがて青年となり、片方は魔王討伐に旅立つ勇者として華々しい活躍をし、もう片方はただ彼の帰還を待つ相変わらずスラム暮らしの存在となる。
これは何も持たない青年がただ勇者の帰りを待つ日常を描いた作品です。
無自覚両片想いの勇者×親友。
読了後、もう一度だけ読み直して頂けると何か見える世界が変わるかもしれません。
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