緑を分けて

綿入しずる

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風が吹き抜けていく

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 セヴランは眠れない夜にぼうと天井を見上げた。酒を飲もうかと思っても手元には無く、台所は遠い。毛布から抜け出す気持ちを固めるまではまだかかった。
 風の音がする。ギイ・サルー――埃を払うだけした大きな白犬のぬいぐるみを暫し手探りに撫でまわす。寝返りを打つ。窓辺以外は殺風景な部屋が暗闇に滲む。
 ふと、数年前までは相応に物があったのを思い出した。片付けられずに物を積んでいた自分の机や椅子は最初に手放した家具だった。それから立て続けに家の雰囲気に合わせて揃えられていた品々を売って、思い出が傷を開く居間の調度も衝動的に放り出し、束の間の平静に似た虚無と生活費に変えて今の状態だ。
 後悔はしていた。なんなら売った次の瞬間にはもう悔いているときがあった。それでも当時は繰り返さずにはおれなかった。母を忘れたくない一方で、忘れられないのが、居なくなったことを意識するのがつらく逃れたかった。どうしようもなく追いつめられていた。
 そうして――手放すのではなく封じ込めた物もある。食器棚の奥のティーセットのように。
 セヴランはゆっくりと瞬きをして、やはり飲もうと決め、身を起こした。突っかけた靴の冷やかさが不快だった。

「俺がやろうか。調子悪いなら座ってろよ」
「え?」
「平気か? 疲れてるんじゃないか」
 いつもどおりの手順。採取を終えて、茶の用意にと立ち上がったセヴランをカイが引き留めた。
 体温や血圧に異常はなかったが、調子か、あるいは機嫌が悪いのだと思った。話していてどうにも反応が鈍く上の空だった。それを指摘し、表情を窺いつつ立ち上がろうとするのを今度はセヴランが留める。
「ああいや、違う。そういうんじゃなくて、ごめん、ちょっと考え事っていうか」
 歯切れ悪く言って、大きく、落ち着けるように息を吸う。そうしてカイを見た。青い目に少したじろいで、しかし言う。曖昧に笑ったような顔になった。
「頼みがあるんだけど」
「うん」
 硬い声音にカイは少し姿勢を正し、まず返事だけした。それを言い出そうとして言い出せないでいた、ゆえの不自然さだったと分かり、この男をそうさせるだけの事柄は何かと構えた。いつも我儘な男だ。こんなに悩んで、頼み、なんてわざわざ言うのはそれだけで重大だと知れた。
 暖炉の火が音を立てる。風が外で騒いだ。
「……死んだ母さんの部屋に、入りたくて」
 やがて告げる細い声に、カイはすぐには返事ができなかった。びくりとする響きに言葉を詰まらせ、言ってしまって震える唇がもう一度勇気を出すのを見ていた。
「一緒に居てほしい。居るだけでいい。一人じゃ無理そうで、今度、君の暇な日でいいから」
 夜通し考えて纏めた、それでなお言い淀んだ言葉をやっとの思いで口にするのを。
 男の手はこういうとき、一人で握り締められる。それを見つけてカイは手を伸ばした。
「俺でいいなら」
 やはり冷えていた指を安心させるように握り、目を見つめてはっきりと頷いた。セヴランはそれだけで泣きそうに瞳を揺らした。
 カイはぐっと歯を食いしばる。どうにかしてやりたいと逸る意識を落ち着かせ、なお強く手を握った。
 一人にさせたくはなくて、台所には二人で行った。そうして動きながらぽつぽつと話して事の日取りを決めた。

 次の休みの木曜日、カイはいつもより遅く昼前にやってきて一杯茶を飲み、セヴランに連れられて二階へと上がった。
 奥の部屋の前に立ち扉を見つめる人を待つ。彼もまた、緊張に拳を握り息を呑んだ。
 セヴランが動くには、真夜中に寝床から抜け出すよりもずっと気力が要った。あの夜より、それ以前より躊躇い続けていた。一人なら、もっと時間がかかっただろう。あるいは結局開けられずに隣の自室に逃げ込んでいた。カイが居るからどうにか固まらずに、セヴランは取っ手を掴んだ。
 気持ちに反して扉は軽く滑らかに開いた。
 ――母さんの匂いがする。
 思って、淡緑色の目がその姿を探し、すぐ諦める。
 カイは一瞬遅れて部屋の中を見遣り、言葉を失っていた。居間やセヴランの部屋とは様子が全然違った。此処のほうが、普通の、誰かが暮らしている部屋だった。物が沢山詰まっていた。立派な家具も多くの日用品も、鋏や鏡だって此処にはあった。花柄のカーテンが開けられたままで明るい。
 けれども部屋の主はもう居ないのを知っていた。その事実が日常の延長の景色を強烈なものにした。
 埃が動いて煌めく中にセヴランが歩み出た。靴跡の残る絨毯を踏んで、埃っぽくも懐かしい匂いのする空気を吸い込み、母の、元気だった頃も病み臥した頃も、すべての記憶をごちゃまぜに胸に詰まらせながら手を伸ばした。また迷ってそれでも、動く。
 部屋で過ごす女がよくそうしていたように――眠りにつく前にも願ったように、窓を開けて風を招く。押し込めていたものが溢れだした。吸った息が攣れた。
 俯くその体を歩み寄ったカイが支えた。母とは違う体温が抱き締めてくれるのを感じて、セヴランの視界は一層に滲んだ。
「ぅ」
 悲しみは薄れたと思ってもまた押し寄せてくる。今、此処に居ないことがこんなにも耐え難い。
 浚われそうになる、崩れかける体を支える腕に縋ってようやく立つ。――立っていられる。新たに迫り上がる涙を風が拭っていく。
 カイは泣きじゃくる人を抱きしめてただそこに居た。それ以外の方法など分からなくて、かける言葉も、来るまでに色々と思い巡らせていたがやはり思いつかなくて。少し貰い泣きしてしまいながら。
「どうしたらいいかなあ、まだ分かんないや……」
 一頻り泣いた果てに、セヴランは呟いてカイに謝った。もっと何かがどうにかなると、しようと思っていたがこれが限界だった。カイは窓を閉めて頷いた。
「いいよ、無理するな。一回戻るか」
「ごめん」
「いいよ」
 多く遺されたものにはまだ手を着けられず、小さな取っ掛かりとして椅子と宝石箱一つだけ持ち出して、二人は居間へと降りた。
 椅子に積もった埃を拭い、ようやく同じくらいの目線で向かい合わせに座る。互いに、息を吐いた。
 セヴランは泣き腫らした瞼を誤魔化すように揉み、同じ手つきで、開けた脚付きの箱から装飾品を持ち上げて弄った。可憐な、エナメルが模った青い小鳥のブローチ。母が身に着けていたときのことをちゃんと思い出した。いつ、どんな服に合わせていたか。ピンを通す仕草。自分が着けてやったこともある。ちくりと指先を刺した失敗も。記憶は紐づいて途切れない。共に並んだ耳飾りやリボンも同じように思い出があった。
「……服もね、全部残ってるんだ。――衣裳部屋に沢山。俺の服は結構売っちゃったんだけど。虫食ってないといいな」
 ぽつりと言う。
「仕立て直してもらって着ようかと思ってて」
「そうだな、喜ぶだろう」
 カイは咄嗟にそう答え、すぐに首を振った。ポットに残っていた紅茶を注ぎながら言いなおす。
「……いや、勝手なこと言った。セヴラン、俺は分からない。でもいいと思う」
「生真面目だな君」
 ただでも他人の意見のように言うものではないが、ましてや死人で、カイにとっては知らぬ人だ。正直何も分からなかったので、あくまで自分の所感として述べた。訂正までしてくる真面目さにセヴランは小さく笑ったが、カイのこういうところに救われていた。
 しかし、セヴランには分かった。母とは生まれてからべったりの付き合いで、毎日ずっと一緒にいたのだから。彼が誰よりも分かっていた。
「母さんは――色々、言うだろうけど。着れるもんなら着ちゃいなさいよ、って最終的には言うな。高かったのよ、しまっておいてもなんにもならないわ――」
 口振りを再現してみるとまた懐かしく、涙が出て睫毛を湿らせた。心の内では響きまで甦るのに、声だけは全然似ないのが物寂しくて仕方が無かった。似ていてもそれはそれで切なかったに違いないが。
「着て演って稼いで、楽しく暮らしましょって言うんだ」
「明るい人だったんだな」
「明るくって、歌が上手くて、世界一の美人だよ」
 冗談かの響きにカイは困ったように口の端を上げた。こういうとき笑ってよいのか分からなかったのだ。真剣に聞きすぎるのも違う気がしたけれど。自分が家族を喪ったときはどう言うだろうかと思えば、また難しかった。
 代わりにセヴランが笑って見せた。会いたいなあ、という呟きは声にならなかった。また遺品を撫でて幾らかの後、見えないようにではなく大事にしまうように、彼は箱の蓋を閉じなおした。
 それからまた二人で台所に向かった。泣いた分を補うようにカイがスープを作ってくれたのが優しくて沁みて、セヴランは何度もスプーンを握り締めた。
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