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孫策伯符
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196年の天下のようすを俯瞰してみよう。
黄河の南、兗州と豫州を曹操が支配している。
豫州の許都に献帝を迎え、地方勢力にすぎなかった曹操が、国家の中心人物として、にわかに躍り出てきた感がある。
中国北部、冀州、幽州、幷州、青州では、長らく袁紹と公孫瓚が争っていたが、両者の総力戦、鮑丘の戦いで袁紹が勝利し、俄然優勢となった。
公孫瓚は冀州河間国の堅城、易京城に兵糧十年分をたくわえて立て籠もり、なおも健在である。袁紹は包囲攻城をつづけている。
洛陽と長安のある司隷は、献帝が去って、天下の中心の座から転落した。
李傕、郭汜は長安にいるが、求心力を失い、その勢力は衰退している。
第三の実力者、張済はじり貧を避けるため、荊州北部へ転戦した。そこで流れ矢に当たって戦死したが、甥の張繡が軍を引き継ぎ、荊州南陽郡を制した。
荊州の大部分の支配者は、劉表である。孫堅の侵攻を防ぎ、彼を敗死させている。
その西の益州は、劉璋の版図。山脈に囲まれた要害の地で、独立国の様相を呈している。北部の漢中郡は、五斗米道の指導者、張魯が支配している。
中国北西部の涼州は、異民族の侵入がたび重なる不安定な土地である。
董卓の勢力が強い地でもあった。彼の没後、馬騰と韓遂が勃興している。
馬騰は尊皇の心が篤かったが、韓遂は朝廷に対する反抗心が強く、両者の間で争いが絶えない。
南部の揚州では、勢力争いが激化している。
袁術は長江の北、九江郡の寿春を拠点としている。
彼の庇護下にあった孫策は、自立するための戦いを起こし、揚州刺史の劉繇を攻撃し、呉郡と丹陽郡を奪取した。
この時期、中国でもっとも勢いがあるのは、孫策である。
孫策伯符は175年、孫堅の長男として、呉郡富春県で生まれた。相当の美男子であった。
廬江郡の名門出身の周瑜公瑾と親しくなり、彼の勧めで廬江郡舒県へ移住した。
191年、孫堅が戦死し、その軍は袁術に吸収された。
父の死後、孫策は袁術の庇護下に入り、荊州南陽郡、揚州九江郡と住処を変えた。
「父の兵を返してください」と孫策が袁術に頼んだことがある。
「そなたの父の兵などいない。すべてわしの兵である」と袁術は答えた。
「それでは、殿の兵とこれを交換していただけないでしょうか」
孫策は父の形見、伝国の玉璽を袁術に差し出した。
「おお、これは皇帝の印……」
194年、袁術は孫策に千人ほどの兵を与えた。その中に孫堅の配下だった武将、朱治、黄蓋、韓当、程普がいた。
孫策は少ない手勢で廬江郡太守の陸康を攻め、勝利したが、それに対する褒賞は与えてもらえなかった。
袁術は側近の劉勲を太守に任命した。廬江郡は実質的には袁術のものとなった。
袁術からの独立を見据えて、孫策はさらに人材を集めようとした。
「あなたを私の師としたい」と言って、張昭を招き、張紘には、「父の跡を継ぎたい」という熱意を涙混じりに伝えた。
ふたりは孫策の重臣となった。
孫策は軍旅に出るとき、必ず張昭か張紘のどちらかをともない、残りのひとりに留守を任せた。
「総大将たるもの最前線に立つべきではありません」というのは、張紘の言葉。
孫策は孫堅に似て、先頭に立って兵を率いるタイプであった。
蔣欽、周泰、凌操、陳武らの武勇の士も得た。幼馴染の周瑜も馳せ参じてきた。
孫策は袁術と対立していた劉繇を攻撃することにし、江東と呼ばれる長江下流域に進軍した。
長江を渡り、瞬く間に張英が守る当利口と樊能、于糜が守る横江津を制圧し、劉繇が籠っていた牛渚の要塞も陥落させた。
電撃的な勝利であった。
この地は袁術に譲らなかった。
「おれは江東に拠って立つ」
孫策は自立し、江東の小覇王という二つ名で呼ばれるようになった。
この頃、太史慈と呂蒙を配下にした。
太史慈は劉繇旗下の勇将で、偵察中ふいに遭遇した孫策と一騎打ちになり、引き分けたことがある。
丹陽郡で抵抗していたが、大軍に囲まれ、捕縛された。
「私はきみの勇が失われるのを惜しむ。どうかともに戦ってほしい」
孫策は太史慈を縛る縄を自らほどいた。
「実はあなたを尊敬していました。主を裏切ることができず、抗していたのです」
彼は孫策旗下最高の猛将として活躍することになる。
呂蒙は自分を馬鹿にした役人を斬り、自首して牢にいた。
孫策は彼に面会して、非凡さを見抜き、側近にした。
呂蒙は字が読めず、無学を恥じていたが、その頭脳は秀でていた。
後に孫権に勧められて勉学に励み、熱心に書を読み、智将魯粛を感服させるほどになる。
江東攻略中に、孫策は美人姉妹の噂を聞いた。
「公瑾、美しい女がふたりいるらしい。さらおうではないか」
孫策は周瑜とともに姉妹を強奪し、姉の大喬を妾とした。周瑜は妹の小喬を娶った。
江東の二喬と呼ばれ、ふたりとも絶世の美女であった。
美形同士の孫策と大喬が並ぶと、さぞかし絵になったことであろう。
袁術の軍略はぱっとしないが、孫策の進撃は鮮やかである。
「彼は父親の孫堅以上かもしれぬ」
曹操は孫策への警戒を強め、討つべきかと考えた。
しかし、曹操の策源地と孫策の戦場との間には、隔たりがある。第三者の土地を越えて侵略するほどの力はない。まずは周囲の敵を傘下におさめていかねばならない。
曹操は荊州南陽郡に目を向けた。そこには張繡がいる。
黄河の南、兗州と豫州を曹操が支配している。
豫州の許都に献帝を迎え、地方勢力にすぎなかった曹操が、国家の中心人物として、にわかに躍り出てきた感がある。
中国北部、冀州、幽州、幷州、青州では、長らく袁紹と公孫瓚が争っていたが、両者の総力戦、鮑丘の戦いで袁紹が勝利し、俄然優勢となった。
公孫瓚は冀州河間国の堅城、易京城に兵糧十年分をたくわえて立て籠もり、なおも健在である。袁紹は包囲攻城をつづけている。
洛陽と長安のある司隷は、献帝が去って、天下の中心の座から転落した。
李傕、郭汜は長安にいるが、求心力を失い、その勢力は衰退している。
第三の実力者、張済はじり貧を避けるため、荊州北部へ転戦した。そこで流れ矢に当たって戦死したが、甥の張繡が軍を引き継ぎ、荊州南陽郡を制した。
荊州の大部分の支配者は、劉表である。孫堅の侵攻を防ぎ、彼を敗死させている。
その西の益州は、劉璋の版図。山脈に囲まれた要害の地で、独立国の様相を呈している。北部の漢中郡は、五斗米道の指導者、張魯が支配している。
中国北西部の涼州は、異民族の侵入がたび重なる不安定な土地である。
董卓の勢力が強い地でもあった。彼の没後、馬騰と韓遂が勃興している。
馬騰は尊皇の心が篤かったが、韓遂は朝廷に対する反抗心が強く、両者の間で争いが絶えない。
南部の揚州では、勢力争いが激化している。
袁術は長江の北、九江郡の寿春を拠点としている。
彼の庇護下にあった孫策は、自立するための戦いを起こし、揚州刺史の劉繇を攻撃し、呉郡と丹陽郡を奪取した。
この時期、中国でもっとも勢いがあるのは、孫策である。
孫策伯符は175年、孫堅の長男として、呉郡富春県で生まれた。相当の美男子であった。
廬江郡の名門出身の周瑜公瑾と親しくなり、彼の勧めで廬江郡舒県へ移住した。
191年、孫堅が戦死し、その軍は袁術に吸収された。
父の死後、孫策は袁術の庇護下に入り、荊州南陽郡、揚州九江郡と住処を変えた。
「父の兵を返してください」と孫策が袁術に頼んだことがある。
「そなたの父の兵などいない。すべてわしの兵である」と袁術は答えた。
「それでは、殿の兵とこれを交換していただけないでしょうか」
孫策は父の形見、伝国の玉璽を袁術に差し出した。
「おお、これは皇帝の印……」
194年、袁術は孫策に千人ほどの兵を与えた。その中に孫堅の配下だった武将、朱治、黄蓋、韓当、程普がいた。
孫策は少ない手勢で廬江郡太守の陸康を攻め、勝利したが、それに対する褒賞は与えてもらえなかった。
袁術は側近の劉勲を太守に任命した。廬江郡は実質的には袁術のものとなった。
袁術からの独立を見据えて、孫策はさらに人材を集めようとした。
「あなたを私の師としたい」と言って、張昭を招き、張紘には、「父の跡を継ぎたい」という熱意を涙混じりに伝えた。
ふたりは孫策の重臣となった。
孫策は軍旅に出るとき、必ず張昭か張紘のどちらかをともない、残りのひとりに留守を任せた。
「総大将たるもの最前線に立つべきではありません」というのは、張紘の言葉。
孫策は孫堅に似て、先頭に立って兵を率いるタイプであった。
蔣欽、周泰、凌操、陳武らの武勇の士も得た。幼馴染の周瑜も馳せ参じてきた。
孫策は袁術と対立していた劉繇を攻撃することにし、江東と呼ばれる長江下流域に進軍した。
長江を渡り、瞬く間に張英が守る当利口と樊能、于糜が守る横江津を制圧し、劉繇が籠っていた牛渚の要塞も陥落させた。
電撃的な勝利であった。
この地は袁術に譲らなかった。
「おれは江東に拠って立つ」
孫策は自立し、江東の小覇王という二つ名で呼ばれるようになった。
この頃、太史慈と呂蒙を配下にした。
太史慈は劉繇旗下の勇将で、偵察中ふいに遭遇した孫策と一騎打ちになり、引き分けたことがある。
丹陽郡で抵抗していたが、大軍に囲まれ、捕縛された。
「私はきみの勇が失われるのを惜しむ。どうかともに戦ってほしい」
孫策は太史慈を縛る縄を自らほどいた。
「実はあなたを尊敬していました。主を裏切ることができず、抗していたのです」
彼は孫策旗下最高の猛将として活躍することになる。
呂蒙は自分を馬鹿にした役人を斬り、自首して牢にいた。
孫策は彼に面会して、非凡さを見抜き、側近にした。
呂蒙は字が読めず、無学を恥じていたが、その頭脳は秀でていた。
後に孫権に勧められて勉学に励み、熱心に書を読み、智将魯粛を感服させるほどになる。
江東攻略中に、孫策は美人姉妹の噂を聞いた。
「公瑾、美しい女がふたりいるらしい。さらおうではないか」
孫策は周瑜とともに姉妹を強奪し、姉の大喬を妾とした。周瑜は妹の小喬を娶った。
江東の二喬と呼ばれ、ふたりとも絶世の美女であった。
美形同士の孫策と大喬が並ぶと、さぞかし絵になったことであろう。
袁術の軍略はぱっとしないが、孫策の進撃は鮮やかである。
「彼は父親の孫堅以上かもしれぬ」
曹操は孫策への警戒を強め、討つべきかと考えた。
しかし、曹操の策源地と孫策の戦場との間には、隔たりがある。第三者の土地を越えて侵略するほどの力はない。まずは周囲の敵を傘下におさめていかねばならない。
曹操は荊州南陽郡に目を向けた。そこには張繡がいる。
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