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献帝劉協

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 首都が許に移った。
 新たな人事について誰かと相談したいが、複数の人間と話すと、紛糾するばかりである。
 曹操は相談相手に荀彧を選んだ。青州黄巾賊との交渉がうまくいったのは、彼が誠実であったからだと評価している。

「皇帝を身近にお迎えし、私は天下の政治に関与しなければならなくなった。私自身はどの地位につけばよいと思うか」
 曹操は諮問した。
 荀彧はあらかじめ考えていたのか、すらすらと答えた。
「殿は三公になる必要があるでしょう。司空がよろしいかと存じます。司空長史に郭嘉を任用し、彼に実務を任せれば、殿は覇業に専念することができます」
 司空は監察を統括する。
 司空長史は司空の補佐官で、司空府の次官である。
「袁紹が公孫瓚に勝利し、黄河の北、冀州、幽州、幷州を支配している。彼も高い地位につけねばなるまい」
「袁紹殿はいまやこの国で最大の実力者です。大将軍がふさわしいかと」
 大将軍は、あらゆる将軍の上の位である。
「それでよかろう。董承殿の処遇はいかにすべきか」
「あの方は献帝陛下に近すぎます。列侯になっていただき、権力から遠ざけるべきでしょう」
「そうしよう。そなたにも枢要な地位についてもらう。尚書令となり、すべての上奏に目を通せ」
「御意」

 荀彧は尚書令になった。
 このときから、皇帝と曹操の二重の指揮下に置かれることになったわけだが、彼は生涯、曹操の命令の方を重んじた。

 尚書令は配下に尚書台という役所を持つ。権力の中枢にいて、皇帝の文書を管理する。
 上奏とは、皇帝に意見を伝えることであり、文書による場合が多かった。尚書令はそれを検閲できるから、あらゆる官の動向の把握が可能である。意見を握りつぶすこともできる。

 許はそれまで地方都市にすぎず、宮殿や国衙はなかった。
 曹操は急ごしらえの仮宮殿を造り、そこに献帝を迎え入れた。
 他にも多くの建物を急造し、荀彧と相談して人選した三公九卿の役所とした。

 曹操は献帝に拝謁しなければならない。
 彼は、181年生まれの若い皇帝に信頼されたいと思っていた。
 ちなみに曹操は霊帝に近侍したことはあるが、このときまで献帝との付き合いはない。

「曹操でございます」
「司空をつとめよ」
 献帝のこの言葉で、曹操の地位が正式に決まった。

「朕が無事に許へ来ることができたのは、そなたの力のおかげである。頼りにしている」
 聡明な皇帝である。自身には力がないことを知っている。だが、後漢の皇帝として、親政したいという気持ちを失ってはいない。
「曹操、朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けをかけて退位させてほしい」
 宮中で重大な発言をした。
 その場に曹操がいるだけでなく、百官が居並んで、帝の発言を聞いている。
 ご冗談を、と曹操は言いたかったであろう。実際は言葉が出てこず、冷や汗を流して、額を床にすりつけるばかりであった。

 献帝は親政することはできなかった。
 最大の実権は曹操にある。
 彼の息がかかった者たちが高い官職を独占し、曹操政権とでも言うべき政府が出現した。
 董卓とのちがいは、悪逆非道でないこと。
 曹操はまともな政治をした。

 全国の地方官に命じて、人民と土地の調査をさせ、戸籍を整備し、税を適正かつ着実に徴収させた。
 また、監察制度を整え、汚職を禁止した。
 群雄割拠時代であるが、地方は完全に独立しているわけではなく、幾分かは中央に服従している。
 許に金が集まるようになり、曹操は立派な宮殿を建てることができた。

 曹操の支配下にある豫州と兗州では、屯田制を実施した。流民に土地を与え、農具と耕牛を貸した。税は収穫の半分という重いものだったが、金銭を持たない者にとっては、現物払いは気が楽であった。

 献帝劉協は過酷な人生を歩んでいる。
 生母の王栄は、何皇后に嫉妬され、毒殺された。
 父霊帝が崩御すると、兄劉弁が即位したが、董卓によって廃位、殺害された。
 劉協は189年に皇帝になったが、董卓の傀儡であった。
 190年に洛陽から長安への遷都が行われ、嫌々ながら移った。
 洛陽の炎上は、献帝にとって痛恨事であった。
 董卓の死亡後も権力は持てず、李傕、郭汜、張済、董承、楊奉らの顔色をうかがいつづけた。
 そして長安の権力闘争から逃れ、許へ移動したが、そこでも曹操の傀儡となっている。

「献帝陛下のご威光により、許都に宮殿が建ちました」
「朕の威光ではなく、曹司空の力であろう」
「陛下の詔勅がなければ、税収は増えなかったでしょう」
「荀彧に言われて出したものである。彼はそなたの部下であったか」

 曹操は献帝から信頼されたいと思っていたが、親政はさせなかった。
 皇帝を擁し、その権威を利用して、乱世でのし上がろうと考えている。献帝自身がリーダーとなって、権力を行使するのは好ましくない。
 一方、献帝はいつまでも傀儡でいることを耐えがたく思っていた。理想の皇帝に近づきたい。
 皇帝と司空の気持ちはすれちがい、両者の心は離れるばかりであった。 
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