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蜀漢滅亡
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魏の大軍が、蜀の首府成都に迫っている。
敵将鄧艾が率いる軍に、我が国に残っていた最後の支柱たる将軍諸葛瞻すら討たれ、もはや蜀軍に首府を守る余力はない。
戦っても、多くの将兵を無駄死にさせるだけ。
あげくの果ての滅亡は、火を見るより明らかだった。
私は絶望していた。
選択肢はふたつしかない。
かなわぬまでも最期まで魏軍と戦って、名誉の戦死を遂げるか。
成都を開城して降伏し、残っている将兵の命を守るか。
相談できるような有能な人材はもう残っていない。
私自身で決断するしかないーー。
私は蜀漢の第二代皇帝、劉禅公嗣。
偉大なる父、劉備玄徳は貧しい筵売りの身から出発し、戦いと流浪の日々を経て、蜀漢を建国するに至った。
その功業は、天下三分の計を献策した諸葛亮孔明なくしては不可能だったとはいえ、黄巾の乱以来、乱世を生き抜いてきた父は、まちがいなく三国時代の英雄のひとりだ。
劉備の下に、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲ら諸将が集い、蜀の国が打ち立てられた。その壮絶なる歴史を、私は多くの人から聞いて知っている。
魏軍に敗れ、まもなく蜀漢は滅亡する。
父と比べると、遥かに見劣りする私のこれまでの人生を振り返った。
私は建安十二年に、劉備を父とし、甘夫人を母として、荊州の新野で生まれた。
父が諸葛亮を三顧の礼で軍師として迎え入れたのは、同じ年のことである。
建安十三年に、私は一度死にかけた。
荊州に曹操軍が南下し、荊州刺史の劉琮は戦わずに降伏した。
劉備は母と私を捨てて遁走した(父はそういう人なのだ。過去に呂布や曹操に牙を向けられたときも、家族をかえりみずに逃亡し、生き永らえたそうだ。逃げ足の速さは父の特技である。家族はたまったものではない)。
そのとき、趙雲が父のそばに私がいないことに気づき、魏の大軍の中に引き返し、母と私を救ってくれた。
「嬰児を抱えて戦うあの者は誰だ」と魏の総帥、曹操が言ったらしい。
「あの勇将は趙雲です。千人をもって討ちかからねば、倒すことはできますまい。あの嬰児は劉備の子でありましょう」と答える者がいた。
「劉備には、関羽の他にも、あのような忠義の武将がいたのか。嬰児を守りながら戦うなど、彼以外にできることではなかろう。私は趙雲を惜しむ。追うな、殺すな」
趙雲の超人的な武勇と人材好きな曹操の性格のおかげで、私は九死に一生を得た。
同年、赤壁の戦いが勃発し、呉将周瑜は強大なる曹操軍を撃破した。
曹操を殺し損ねたとはいえ、寡兵をもって大軍を倒す大勝利だった。歴史の転換点。もし呉がこの戦いに負けていれば、魏、呉、蜀が鼎立する三国時代は到来せず、曹操の天下統一が成っていたであろう。
その後、周瑜が江陵で曹仁と戦っている隙に、父は荊州四郡を獲った。
さらに周瑜病没という劉備にとっての幸運があり、父は勇躍、益州をも得て、蜀を建国するに至る。
劉備の下に軍師諸葛亮、五虎大将軍の関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲が居並ぶ光景は、壮観という他なかった。
大国魏、それに次ぐ呉、やや弱小ながら蜀が並び立つ三国時代が始まった。
私は蜀の建国期に少年時代を過ごしたのである。戦乱の時代ではあったが、私にとってはしあわせな時期だった。
建安二十三年、呉の総帥、孫権の命を受け、呂蒙が関羽を守将とする荊州に侵攻した。
翌年、関羽は捕らえられ、斬首された。
劉備は怒り狂った。
「我が義兄弟たる関羽を殺すとは。張飛と三人で、生まれたときはちがえども、同じときに死のうと誓い合った。必ず仇を討つであろう」
父は呉との対決を虎視眈々と狙うようになった。
関羽の死後、劉備は持ち前の明るさを失い、私はしだいに苦しみを感じるようになっていった。
建安二十五年、曹操の嫡子、曹丕が後漢の献帝から帝位を簒奪した。
それに対抗して、劉備も皇帝に即位。蜀の地に樹立された漢帝国の初代皇帝となった。
章武元年、父は孫権への復讐のため、諸葛亮や趙雲の諫止を聞かず、ついに夷陵の戦いを起こした。
蜀と呉は、巨大な魏に立ち向かうために、できることなら同盟すべきであったが、父の激情がそれを許さなかった。
その結果は、呉将陸遜の反撃による大敗であった。
劉備は逃げ込んだ白帝城で、重篤な病に陥った。死期を悟り、丞相の諸葛亮を呼び寄せ、遺言した。
「孔明、そなたの才能は魏の曹丕を軽く凌駕する。必ずや蜀漢に繁栄をもたらしてくれるであろう。我が子が皇帝としてふさわしい素質を備えていれば、輔弼してほしい。だが、もし劉禅が暗愚であったならば、迷わずそなたが皇帝となり、国を治めよ」
私にとっては驚愕すべき遺言である。
自分が暗愚であるとは思っていないが、英明であるとうぬぼれてもいない。
知性では天才的な経略家、諸葛亮にとうていおよばず、武力では英傑趙雲に遠くおよばない。
もし私に取り柄があるとすれば、諸将に逆らわず、その力を発揮してもらうことくらいだろうか。
私は平凡な人間だ。諸葛亮にとってかわられることを怖れた。
幸い、彼は私を立てて、引きつづき丞相として、誠実に蜀統治の実務をになってくれた。
私は祭祀に専念した。
その後、諸葛亮は魏を倒すため、北伐を行った。
しかし、目的を果たすことはできなかった。
建興十二年の第五次北伐が、建国の忠臣の最後の戦いとなった。
彼は五丈原で、宿敵司馬懿仲達と対峙しているときに病没する。
諸葛亮の北伐の際、魏延が長安を急襲する作戦を何度か献策したらしい。だが、危険すぎる奇策であるとして、諸葛亮は実施しなかった。丞相は魏延を嫌っていた。武勇にすぐれていたため、やむを得ず従えていたようだ(私は蜀の滅亡に際して、魏延の策を実施していたらどうなったであろうかとふと思ったが、いまさらどうしようもないことである)。
諸葛亮の死の直後、楊儀から私への上奏があった。魏延が反逆したという。
魏延からは逆に、楊儀が魏に寝返ったとの報告が寄せられた。
私は重臣の董允と蔣琬に真偽を問うた。ふたりとも魏延を疑っていた。
私が迷っている間に、楊儀は魏延を討ってしまった(彼を救わなかったことを、私は深く後悔した。建興七年に趙雲が亡くなっており、魏延ほどの勇将は、得がたい存在となっていたのだ。魏延の死により、もし彼が長安を攻撃していたら、魏の要衝を落とすことができたのかどうかは、永遠の謎となった)。
諸葛亮亡きあとも、蜀はいくばくか命運を保った。
蔣琬、董允、費禕が統治に力を発揮した。私は彼らに政治をまかせ、口出しを控えた。
姜維が軍事に才能を見せ、北伐で勝利したこともあった。
だが、大勢としては、蜀の人材はしだいに先細りとなり、ついには払底したごとくとなった。
国力は貧していくばかりだった。
私はまちがっていたのであろうか。
蜀の衰退を直視して、広く人材を募り、政治に積極的になって、自ら対策するべきだったのか。
軍事を学んで親征し、北伐すべきだったのか。
いくら悩んでも、ときはすでに遅かった。
炎興元年、魏の大将軍司馬昭が軍を起こし、指揮官のひとり鄧艾が成都に迫ってきた。
勝利の見込みがまったくないのに抵抗し、蜀の将兵を無駄死にさせることは、私の望むところではない。
悩んだあげく、魏に降伏した。
蜀漢が滅んだ後、私は劉氏ゆかりの地、幽州安楽県の安楽公に封じられた。
老後、私は表面上はにこやかに暮らしながらも、蜀をいかに運営すべきだったのか、臣下のみにまかせるのではなく、自らやれることはなかったのか、と深く悔悟する日々を過ごした。
時勢は、しだいに曹家を滅ぼし、司馬氏を勃興させるような方向性を示すようになっていた。
大権を持つ司馬昭から、宴席に招かれたことがあった。
もし私が漢復興の意志をまだ深く秘めていると知られたら、彼に殺されるであろう。
宴で蜀の音楽が演奏された。蜀の旧臣の多くが涙を流した。私は心で泣き、顔では笑っていた。
「蜀を思い出しますか」と司馬昭が私に問うた。
「いいえ、戦乱が終わって楽しく、蜀を思い出すことなどありません」と答えた。
司馬昭はあざ笑い、私を軽蔑したようだった。
それでかまわない。
私に残された使命は、時の権力者に憎まれないようにして、漢の劉氏の血統を途絶えさせないことだけだ。
泰始七年、私は病に罹った。助からぬであろうと思った。
六十五歳。
もう十分に生きた。
まさか自分がこの記憶を持ったまま、建安十二年に生まれる嬰児に転生しようとは、想像もしていなかった。
私はもう一度、劉禅として生きることになる。
敵将鄧艾が率いる軍に、我が国に残っていた最後の支柱たる将軍諸葛瞻すら討たれ、もはや蜀軍に首府を守る余力はない。
戦っても、多くの将兵を無駄死にさせるだけ。
あげくの果ての滅亡は、火を見るより明らかだった。
私は絶望していた。
選択肢はふたつしかない。
かなわぬまでも最期まで魏軍と戦って、名誉の戦死を遂げるか。
成都を開城して降伏し、残っている将兵の命を守るか。
相談できるような有能な人材はもう残っていない。
私自身で決断するしかないーー。
私は蜀漢の第二代皇帝、劉禅公嗣。
偉大なる父、劉備玄徳は貧しい筵売りの身から出発し、戦いと流浪の日々を経て、蜀漢を建国するに至った。
その功業は、天下三分の計を献策した諸葛亮孔明なくしては不可能だったとはいえ、黄巾の乱以来、乱世を生き抜いてきた父は、まちがいなく三国時代の英雄のひとりだ。
劉備の下に、諸葛亮、関羽、張飛、趙雲ら諸将が集い、蜀の国が打ち立てられた。その壮絶なる歴史を、私は多くの人から聞いて知っている。
魏軍に敗れ、まもなく蜀漢は滅亡する。
父と比べると、遥かに見劣りする私のこれまでの人生を振り返った。
私は建安十二年に、劉備を父とし、甘夫人を母として、荊州の新野で生まれた。
父が諸葛亮を三顧の礼で軍師として迎え入れたのは、同じ年のことである。
建安十三年に、私は一度死にかけた。
荊州に曹操軍が南下し、荊州刺史の劉琮は戦わずに降伏した。
劉備は母と私を捨てて遁走した(父はそういう人なのだ。過去に呂布や曹操に牙を向けられたときも、家族をかえりみずに逃亡し、生き永らえたそうだ。逃げ足の速さは父の特技である。家族はたまったものではない)。
そのとき、趙雲が父のそばに私がいないことに気づき、魏の大軍の中に引き返し、母と私を救ってくれた。
「嬰児を抱えて戦うあの者は誰だ」と魏の総帥、曹操が言ったらしい。
「あの勇将は趙雲です。千人をもって討ちかからねば、倒すことはできますまい。あの嬰児は劉備の子でありましょう」と答える者がいた。
「劉備には、関羽の他にも、あのような忠義の武将がいたのか。嬰児を守りながら戦うなど、彼以外にできることではなかろう。私は趙雲を惜しむ。追うな、殺すな」
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同年、赤壁の戦いが勃発し、呉将周瑜は強大なる曹操軍を撃破した。
曹操を殺し損ねたとはいえ、寡兵をもって大軍を倒す大勝利だった。歴史の転換点。もし呉がこの戦いに負けていれば、魏、呉、蜀が鼎立する三国時代は到来せず、曹操の天下統一が成っていたであろう。
その後、周瑜が江陵で曹仁と戦っている隙に、父は荊州四郡を獲った。
さらに周瑜病没という劉備にとっての幸運があり、父は勇躍、益州をも得て、蜀を建国するに至る。
劉備の下に軍師諸葛亮、五虎大将軍の関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲が居並ぶ光景は、壮観という他なかった。
大国魏、それに次ぐ呉、やや弱小ながら蜀が並び立つ三国時代が始まった。
私は蜀の建国期に少年時代を過ごしたのである。戦乱の時代ではあったが、私にとってはしあわせな時期だった。
建安二十三年、呉の総帥、孫権の命を受け、呂蒙が関羽を守将とする荊州に侵攻した。
翌年、関羽は捕らえられ、斬首された。
劉備は怒り狂った。
「我が義兄弟たる関羽を殺すとは。張飛と三人で、生まれたときはちがえども、同じときに死のうと誓い合った。必ず仇を討つであろう」
父は呉との対決を虎視眈々と狙うようになった。
関羽の死後、劉備は持ち前の明るさを失い、私はしだいに苦しみを感じるようになっていった。
建安二十五年、曹操の嫡子、曹丕が後漢の献帝から帝位を簒奪した。
それに対抗して、劉備も皇帝に即位。蜀の地に樹立された漢帝国の初代皇帝となった。
章武元年、父は孫権への復讐のため、諸葛亮や趙雲の諫止を聞かず、ついに夷陵の戦いを起こした。
蜀と呉は、巨大な魏に立ち向かうために、できることなら同盟すべきであったが、父の激情がそれを許さなかった。
その結果は、呉将陸遜の反撃による大敗であった。
劉備は逃げ込んだ白帝城で、重篤な病に陥った。死期を悟り、丞相の諸葛亮を呼び寄せ、遺言した。
「孔明、そなたの才能は魏の曹丕を軽く凌駕する。必ずや蜀漢に繁栄をもたらしてくれるであろう。我が子が皇帝としてふさわしい素質を備えていれば、輔弼してほしい。だが、もし劉禅が暗愚であったならば、迷わずそなたが皇帝となり、国を治めよ」
私にとっては驚愕すべき遺言である。
自分が暗愚であるとは思っていないが、英明であるとうぬぼれてもいない。
知性では天才的な経略家、諸葛亮にとうていおよばず、武力では英傑趙雲に遠くおよばない。
もし私に取り柄があるとすれば、諸将に逆らわず、その力を発揮してもらうことくらいだろうか。
私は平凡な人間だ。諸葛亮にとってかわられることを怖れた。
幸い、彼は私を立てて、引きつづき丞相として、誠実に蜀統治の実務をになってくれた。
私は祭祀に専念した。
その後、諸葛亮は魏を倒すため、北伐を行った。
しかし、目的を果たすことはできなかった。
建興十二年の第五次北伐が、建国の忠臣の最後の戦いとなった。
彼は五丈原で、宿敵司馬懿仲達と対峙しているときに病没する。
諸葛亮の北伐の際、魏延が長安を急襲する作戦を何度か献策したらしい。だが、危険すぎる奇策であるとして、諸葛亮は実施しなかった。丞相は魏延を嫌っていた。武勇にすぐれていたため、やむを得ず従えていたようだ(私は蜀の滅亡に際して、魏延の策を実施していたらどうなったであろうかとふと思ったが、いまさらどうしようもないことである)。
諸葛亮の死の直後、楊儀から私への上奏があった。魏延が反逆したという。
魏延からは逆に、楊儀が魏に寝返ったとの報告が寄せられた。
私は重臣の董允と蔣琬に真偽を問うた。ふたりとも魏延を疑っていた。
私が迷っている間に、楊儀は魏延を討ってしまった(彼を救わなかったことを、私は深く後悔した。建興七年に趙雲が亡くなっており、魏延ほどの勇将は、得がたい存在となっていたのだ。魏延の死により、もし彼が長安を攻撃していたら、魏の要衝を落とすことができたのかどうかは、永遠の謎となった)。
諸葛亮亡きあとも、蜀はいくばくか命運を保った。
蔣琬、董允、費禕が統治に力を発揮した。私は彼らに政治をまかせ、口出しを控えた。
姜維が軍事に才能を見せ、北伐で勝利したこともあった。
だが、大勢としては、蜀の人材はしだいに先細りとなり、ついには払底したごとくとなった。
国力は貧していくばかりだった。
私はまちがっていたのであろうか。
蜀の衰退を直視して、広く人材を募り、政治に積極的になって、自ら対策するべきだったのか。
軍事を学んで親征し、北伐すべきだったのか。
いくら悩んでも、ときはすでに遅かった。
炎興元年、魏の大将軍司馬昭が軍を起こし、指揮官のひとり鄧艾が成都に迫ってきた。
勝利の見込みがまったくないのに抵抗し、蜀の将兵を無駄死にさせることは、私の望むところではない。
悩んだあげく、魏に降伏した。
蜀漢が滅んだ後、私は劉氏ゆかりの地、幽州安楽県の安楽公に封じられた。
老後、私は表面上はにこやかに暮らしながらも、蜀をいかに運営すべきだったのか、臣下のみにまかせるのではなく、自らやれることはなかったのか、と深く悔悟する日々を過ごした。
時勢は、しだいに曹家を滅ぼし、司馬氏を勃興させるような方向性を示すようになっていた。
大権を持つ司馬昭から、宴席に招かれたことがあった。
もし私が漢復興の意志をまだ深く秘めていると知られたら、彼に殺されるであろう。
宴で蜀の音楽が演奏された。蜀の旧臣の多くが涙を流した。私は心で泣き、顔では笑っていた。
「蜀を思い出しますか」と司馬昭が私に問うた。
「いいえ、戦乱が終わって楽しく、蜀を思い出すことなどありません」と答えた。
司馬昭はあざ笑い、私を軽蔑したようだった。
それでかまわない。
私に残された使命は、時の権力者に憎まれないようにして、漢の劉氏の血統を途絶えさせないことだけだ。
泰始七年、私は病に罹った。助からぬであろうと思った。
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