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第七話 ランチデートと恋心

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 伊織は、憂葉の荷物を近くの駐車場(神谷一族専用)に停めてあった自身の自家用車のトランクに積んでいく。

(和葉さんの車もいかにも高級車って感じだったけど、伊織さんの車はまたランクが違う気がする……)

 伊織の自家用車もだが、周りの神谷の人物のものであろう車も高級そうなものばかりだった。

 さすが名家一族といったところか。

「さて、行こうか」

「あれ? 歩いていける距離なんですか?」

「ああ、僕は行ったことがないんだが、下町に美味い洋食屋があると聞いてな」

 さあ、行こう、と伊織が言うので、憂葉は素直に着いていくことにした。

 そこが、和葉とよく行ったサビれた洋食屋とも知らずに。

「あの」

「うん?」

「部長は何をしていたのですか?」

 伊織は、「ああ……」と呟いてから部長の罪を暴露する。

「奴はお主の給料を横領しておったのよ」

「……おかしいと思ってました。働いても働いても少ないなって」

 働いても、働いても、増えない給料。
 それが、己の価値だと思っていた。

「此処だな。看板がレトロでいい味を出しておるな」

「此処……」

 そこは、もう五年ほど来ていなかった行きつけの洋食屋。
 憂葉が十歳、和葉が十五歳のときに初めて和葉に連れてきてもらった大好きな場所だった。

「どうして?」

「……和葉さんから、憂葉さんは此処のオムライスが大好きだったと聞いてな。どうしても連れてきたいと思うたのだ。迷惑だったか?」

「うれしい、うれしいです。……和葉さんがいなくなって何だかわたし、ふさぎ込んでしまって、何処にも行く気になれなくて……」

「これからは色んな所へ行けるからな」

「はい……!」

 嬉しさもワクワクも抑えつつ、憂葉は伊織が開けてくれた扉から洋食屋の中に入る。
 スマートなエスコートに、これまた流石名家の人間。と思ってしまった。

「いらっしゃ……ん? 憂葉?」

「雅彦(まさひこ)兄さん、お久しぶり!」

 こじんまりとしたサビれた店内には疎らに客が席についていて、早めの昼食を食べていた。
 厨房には、憂葉より十歳ほど上だろう男が一人いた。
 憂葉は、「あれ?」と声を上げた。

「雅彦兄さん、女将さんは?」

 この洋食屋の店主は、今ここにいる雅彦の母のはずだったが、店内を見回してみても彼女の姿はない。

「ああ、お袋なら入院中」

「はて、入院とは」

「てか、あんた、神谷のだろ。なんで憂葉といるんだよ」

「ははは、僕はそんな有名人だったか」

「はぐらかすな」

 威嚇をする雅彦に対して、伊織は笑顔を絶やさず、憂葉が此処に来なくなった理由、自分たちが此処に来た理由、そして、伊織と憂葉の関係性について説明した。

「……神谷は自分勝手だな」

「そんなことは……。兄さん、女将さん、病気なの?」

「いや、ただのぎっくり腰。動けないから無理やり入院させた」

「ぎっくりも酷いと身動きとれんからな。うちの爺さんもそうだった」

「まあな。客ならしゃーねぇから、そこ座れよ」

 雅彦は二人をカウンター席に案内し、手書きのメニュー表を手渡してきた。

「憂葉は、オムライス?」

「うん! 此処のオムライス大好きなの!」

「そか」

 雅彦の顔が少し赤いのを伊織は見て見ぬフリをした。
 憂葉は、もう自分の花嫁だから。

「雅彦殿、おすすめはあるかの?」

「男ならメガカツカレーとかかな。結構食う人ならの話だけど」

「ふむ、では、それを頼もう」

「はいよ。オムライスとメガカツカレーね」

 雅彦は調理をしに厨房へと向かい、具材を切ったり炒めたりし始めた。

「此処の女将にも会ってみたいものだ」

「とても明るくて優しい人です! あの……」

「うむ、今度は和葉さんも連れて来ようぞ」

「はい!」

 そうこうしていると、雅彦がまず憂葉の前にふわトロの卵にデミグラスソースが乗ったオムライスを持ってきて、少ししてから、伊織の前に、大盛りのカツカレーを持ってきた。

「うわぁ! 懐かしい!」

「レシピは変わってないから、味もそのままのはずだぜ」

「ほう。美味そうだ。おっと、腹の虫が……」

 ぐぅぅぅぅと大きな空腹音は伊織からだったようで、彼は「あい、すまん」と顔を赤くした。

「ははは! 神谷も所詮人の子か」

「少なくとも僕は人の子よ」

 花嫁をこんなにも愛おしく思い、その花嫁の知り合いの男を、こんなにも憎らしいと思うのは、「神の子」などではない。
 ただの「人の子」だ。

 それからしばらくその洋食屋でゆっくりと時間を過ごした二人は、雅彦に「また来る」と告げて、洋食屋をあとにし、駐車場から車で憂葉のアパートに帰ってきた。

 伊織は、遠慮する憂葉を押し切り、荷物を部屋に運び込む。

「もう殆ど荷造りは出来ているようだの」

「そうですね。元々あまり物が多くないし、最低限の物だけ残したらこうなりました」

「……引っ越しを待ち望んでいると思っても、よいか」

 憂葉は少し頬を染める。
 それを見て、伊織は満足げに微笑み、部屋を後にしようとする。

「何か、飲んでいかれますか?」

「いや、今日は帰ろう。また今度は、引っ越しの日に来る故な」

「……はい」

 憂葉は伊織の車が去っていくのを見送り、なんだか寂しい気持ちになっていた。


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