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名前も無くした人魚姫
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「今日はクジラが降るでしょう。」
右から左に情報を流す。
窮屈な屋敷に膨大な書類とすし詰め状態にされて早数年。
いつものごとくふらりとやってきた彼女は、挨拶上のキスもハグも全て余所に彼の手を引いて駆け出した。
非常に迷惑極まりない行為だが、彼を連れ出した当の本人はどこ吹く風である。
困った知人を持ってしまったものだ。
「で、どこに向かっているんだよ。」
彼女は顔だけで振り返ると、口角を上げて静かに笑う。
月明かりで照らしだされた誰もいない街に二人分の影が落とされていた。
「今日はクジラが降るでしょう。」
「・・・質問を変える。それ、どういう意味なんだ?」
愛しい彼女の口から繰り返し紡がれる意味難解な言葉は、真夜中の街に吸い込まれては消えていった。
「今日はね、特別な日なんだ。クジラが降る夜は特別なことじゃない?それと一緒。まあ、クジラじゃなくても何でも良かったんだけどね。」
消えていく言葉を再び手繰り寄せ、意味を添えてはまた紡ぐ。
彼女は不思議な存在だ。
「お前も俺も誕生日はまだ先だろ?今日は特別な日なんかじゃない。」
「そうだね。でも、今日は誕生日やカレンダーの中の、目に見える特別な日とは違う。」
ふと彼女は立ち止る。
ずっと追いかけては空回って、今まで触れようとしても届かなかった姿はいつの間にか届く範囲にあった。
「おめでとう。」
「おい、何言って・・・。」
「おめでとう。」
彼女は言葉を意図的に遮り、また「おめでとう」と言う。
それは唐突であり、どこかおかしな所では言葉足らずな不器用さは彼女の短所であり、そしてまた、同時に可愛らしい所でもあった。
簡潔に言えば彼女の言葉一語一句、彼女の全てが愛おしい。
しかし普段は心地の良い声色が、なぜか心に小さな荒波をたてる。
このまま話を進めてはいけない。
彼の直感はそう告げていた。
「なあ、立ち話もなんだし店に入ろう。それかもう夜だし一度帰るのも・・・。」
静寂に包まれた街では異様に浮いた、苦し紛れの時間稼ぎ。
彼女はそんな物には興味はないようで、視線は荒いタイルが敷かれた道に落ちていた。
そんな彼女の前では、もう言葉は出てこない。
「言ったでしょ。おめでとうって。」
「・・・どういうことだよ。」
「さあ。」
素っ気ない返事に今度は彼が視線を外す。
「ねえ。」の一言に視線を戻すと、彼女は子供のように無邪気に手を差し伸べていた。
今までどんなに試行錯誤しても見ることの出来なかった彼女の笑顔は、空に浮かぶ月よりも綺麗で美しい。
出かけた言葉は息と共に喉を下る。
彼女の手を握り、歩幅を揃えて歩いた。
昔は、自分よりも年上な彼女の歩幅に合わせて歩くのに必死だった彼。
時には無理矢理背伸びをして、大人ぶって。
それがいつしか反対になって、今度は彼が彼女を置いていくことに気付かないでいた。
「今日は貴方が大人になった日。僕にはそのきっかけは何か分からないけど、きっと貴方がとても大きな決意をした日だ。」
次第に見慣れた街並みは途絶え、視界が開け潮の香りがより濃くなる。
気づけば街はずれの浜辺まで足を運んでいた。
海面に浮かぶのは、あの日と同じように欠けた月。
幼い頃、独りぼっちになった彼は、愛らしかった顔を涙でぐしゃぐしゃにしてこの浜辺でうずくまっていた。
しっかりと胸に抱きかかえていたのは、いつも母が読んでくれた童話の絵本「人魚姫」。
自分の体よりいくらか大きな絵本を抱え、彼は家族が欲しいと願った。
あの頃から彼女の姿は変わっていない。
「僕が僕でいられるのは貴方が子供の時だけ。大人っていう窮屈な檻の中で、思い出されずに消えていくのは御免だからね。」
「・・・でも。」
「大丈夫。貴方にはもう、人生を共に歩むパートナーもいる。僕がいなくても生きていけるでしょ。」
「・・・。」
抑え込んでいた感情が溢れだす。
言葉は次第に嗚咽に代わる。
頬を涙が伝っては溜まり伝っては溜まり。
彼女を抱きよせ、縋りついた。
「いやだ・・・、行かないでくれ。」
「駄目だよ。どんなに足掻いてもいつか僕らは必ず消える。」
「いやだ・・・。だから・・・海は・・・嫌いなんだ。悲しい事・・・ばかり。」
「・・・じゃあ、僕と出会ったのは悲しい事?」
「・・・。」
「ねえ、最後くらいしっかりしなよ。・・・泣き虫。」
「・・・ごめん。」
「ほら、顔をあげて?」
途切れ途切れの思いを、無理に押し出した。
彼女の手がそっと頬に添えられる。
「僕は何処にも行かない。ずっと貴方の中にいるから。僕は貴方だけのものだから。」
笑う気配。
海の中にいるように景色は歪んで映った。
最後に彼女の顔を見たい、その思いとは裏腹に涙は次から次へと溢れてくる。
涙を全て追い出す為、一度静かに眼を閉じた。
額に感じる子供独特な高めの体温。
「ありがとう。」
最後まで彼の名前を呼ばず、自分の名前をも聞かせてくれなかった彼女。
それでも彼女の声は深く強く心に根付く。
不安定な海面が映し出すのは欠けた月、聞こえるのは波の音。
そこに彼女はいなかった。
右から左に情報を流す。
窮屈な屋敷に膨大な書類とすし詰め状態にされて早数年。
いつものごとくふらりとやってきた彼女は、挨拶上のキスもハグも全て余所に彼の手を引いて駆け出した。
非常に迷惑極まりない行為だが、彼を連れ出した当の本人はどこ吹く風である。
困った知人を持ってしまったものだ。
「で、どこに向かっているんだよ。」
彼女は顔だけで振り返ると、口角を上げて静かに笑う。
月明かりで照らしだされた誰もいない街に二人分の影が落とされていた。
「今日はクジラが降るでしょう。」
「・・・質問を変える。それ、どういう意味なんだ?」
愛しい彼女の口から繰り返し紡がれる意味難解な言葉は、真夜中の街に吸い込まれては消えていった。
「今日はね、特別な日なんだ。クジラが降る夜は特別なことじゃない?それと一緒。まあ、クジラじゃなくても何でも良かったんだけどね。」
消えていく言葉を再び手繰り寄せ、意味を添えてはまた紡ぐ。
彼女は不思議な存在だ。
「お前も俺も誕生日はまだ先だろ?今日は特別な日なんかじゃない。」
「そうだね。でも、今日は誕生日やカレンダーの中の、目に見える特別な日とは違う。」
ふと彼女は立ち止る。
ずっと追いかけては空回って、今まで触れようとしても届かなかった姿はいつの間にか届く範囲にあった。
「おめでとう。」
「おい、何言って・・・。」
「おめでとう。」
彼女は言葉を意図的に遮り、また「おめでとう」と言う。
それは唐突であり、どこかおかしな所では言葉足らずな不器用さは彼女の短所であり、そしてまた、同時に可愛らしい所でもあった。
簡潔に言えば彼女の言葉一語一句、彼女の全てが愛おしい。
しかし普段は心地の良い声色が、なぜか心に小さな荒波をたてる。
このまま話を進めてはいけない。
彼の直感はそう告げていた。
「なあ、立ち話もなんだし店に入ろう。それかもう夜だし一度帰るのも・・・。」
静寂に包まれた街では異様に浮いた、苦し紛れの時間稼ぎ。
彼女はそんな物には興味はないようで、視線は荒いタイルが敷かれた道に落ちていた。
そんな彼女の前では、もう言葉は出てこない。
「言ったでしょ。おめでとうって。」
「・・・どういうことだよ。」
「さあ。」
素っ気ない返事に今度は彼が視線を外す。
「ねえ。」の一言に視線を戻すと、彼女は子供のように無邪気に手を差し伸べていた。
今までどんなに試行錯誤しても見ることの出来なかった彼女の笑顔は、空に浮かぶ月よりも綺麗で美しい。
出かけた言葉は息と共に喉を下る。
彼女の手を握り、歩幅を揃えて歩いた。
昔は、自分よりも年上な彼女の歩幅に合わせて歩くのに必死だった彼。
時には無理矢理背伸びをして、大人ぶって。
それがいつしか反対になって、今度は彼が彼女を置いていくことに気付かないでいた。
「今日は貴方が大人になった日。僕にはそのきっかけは何か分からないけど、きっと貴方がとても大きな決意をした日だ。」
次第に見慣れた街並みは途絶え、視界が開け潮の香りがより濃くなる。
気づけば街はずれの浜辺まで足を運んでいた。
海面に浮かぶのは、あの日と同じように欠けた月。
幼い頃、独りぼっちになった彼は、愛らしかった顔を涙でぐしゃぐしゃにしてこの浜辺でうずくまっていた。
しっかりと胸に抱きかかえていたのは、いつも母が読んでくれた童話の絵本「人魚姫」。
自分の体よりいくらか大きな絵本を抱え、彼は家族が欲しいと願った。
あの頃から彼女の姿は変わっていない。
「僕が僕でいられるのは貴方が子供の時だけ。大人っていう窮屈な檻の中で、思い出されずに消えていくのは御免だからね。」
「・・・でも。」
「大丈夫。貴方にはもう、人生を共に歩むパートナーもいる。僕がいなくても生きていけるでしょ。」
「・・・。」
抑え込んでいた感情が溢れだす。
言葉は次第に嗚咽に代わる。
頬を涙が伝っては溜まり伝っては溜まり。
彼女を抱きよせ、縋りついた。
「いやだ・・・、行かないでくれ。」
「駄目だよ。どんなに足掻いてもいつか僕らは必ず消える。」
「いやだ・・・。だから・・・海は・・・嫌いなんだ。悲しい事・・・ばかり。」
「・・・じゃあ、僕と出会ったのは悲しい事?」
「・・・。」
「ねえ、最後くらいしっかりしなよ。・・・泣き虫。」
「・・・ごめん。」
「ほら、顔をあげて?」
途切れ途切れの思いを、無理に押し出した。
彼女の手がそっと頬に添えられる。
「僕は何処にも行かない。ずっと貴方の中にいるから。僕は貴方だけのものだから。」
笑う気配。
海の中にいるように景色は歪んで映った。
最後に彼女の顔を見たい、その思いとは裏腹に涙は次から次へと溢れてくる。
涙を全て追い出す為、一度静かに眼を閉じた。
額に感じる子供独特な高めの体温。
「ありがとう。」
最後まで彼の名前を呼ばず、自分の名前をも聞かせてくれなかった彼女。
それでも彼女の声は深く強く心に根付く。
不安定な海面が映し出すのは欠けた月、聞こえるのは波の音。
そこに彼女はいなかった。
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