エスメラルドの宝典

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第30話

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 半壊した部屋から星空の見上げ、慧は大きなため息をついた。

《どうやら撤退したようだね。安心してくれ。増援が車で現れたりもしてないよ》
「その可能性は、考えてなかったな」
《ふむ。声に疲れが表れているね。ゆっくり戻ってきなよ。焦る必要はもうないんだ。天谷邸が我々の留守に急襲されたとも、他所で爆発が起きたとの情報も入っていない。私は車で一服しながら待っていよう》
「そうさせてもらう」

 慧はイヤホンマイクに手を伸ばし、人差し指で電源を落とした。機器を胸ポケットにしまう。
 悠司は彼に気を遣ってくれていた。かつての同僚を殺めたうえ、千奈美との交戦。肉体はともかく精神も疲弊していると思ったのだ。人の良い男だと、慧は心中で感想をこぼす。
 しかし、彼が疲弊しているのはそれだけが理由ではない。
 解錠アンロック――感覚の鋭敏化は脳に過剰な負荷をかける。身体に備わったすべての感覚器官から許容量を超える情報を受信するのだから当然だ。コンピュータが膨大なデータを処理する際に放熱するのと同じく、脳が平常に戻るために伴う疲労が彼に負荷をかけている。
 精神面にも、疲れとは別の傷を負っていた。
 もしかしたら、ここで命を落としていたのかもしれないという恐怖。
 もしも男の自爆が少しでも早ければ。もしも鏡花が助けに来てくれなければ。
 もしも千奈美が、わざと銃弾をはずしてくれなければ。
 そうなっていたとしても、なんとかなったかもしれない。自分ならやれたと信じたい気持ちが虚栄を張ったが、無傷で済まないことは疑いようがない。そうなれば、慧の計画は破綻していた。
 二度目はないのだ。失敗は許されない。

 阿久津の件は、知らない仲でもないがために同情してしまった。その油断が、元同僚の自爆を事前に察知することを妨害したのだ。
 千奈美を説得できなかったのも、未熟だったから。慧自身が覚悟していた〝つもり〟なだけで、本当の意味で彼女と向き合う決意が足りていなかったからだ。
 多くを反省しなければならない。
 彼は無惨な様相に変わり果てた室内を眺め、そう自分を戒めた。

「おつかれさまです。上倉くんが無事で安心しました」

 慧の隣に鏡花が並ぶ。彼女は早くも柔和な普段の表情に戻っていた。

「奴らが爆薬を惜しんでくれて助かった。建物ごと破壊されていたらどうなっていたか」
「色々と考えてる上倉くんのことですから、相手がそういった手段を選ばないと確信してたんじゃないですか?」
「そんなことはない。何かがわずかでも違っていたら、ここで命を落としていた。結局のところ、奴らが俺を低く評価していたから助かった。例えば宝典魔術師が裏切っていたら、対応もまた変わっていただろうな」
「九条千奈美さんですね?」
「千奈美を始末するためなら、奴らは元アジトを棺桶にすることもいとわなかったかもしれん」

 宝典の防御性能は一方向に対してのみ働く。全方向からの衝撃、それも前触れの無い爆発であれば、魔術の発動も間に合わない。鏡花の扱った完全無欠の防御であればいかなる攻撃も無に等しいかもしれないが、慧の知る限り千奈美にそんな魔術は使えない。そもそも慧の誘いを断ったのだから、彼女が裏切っていた場合の想像など不毛だ。
 しかし、何かが違って千奈美がついてきてくれていたら……慧は背筋が寒くなった。彼女を残してきたのは正解だったのかもしれない。

「上倉くんの判断は正しかったですね。九条さんも元気そうで良かったです」
「お前は暢気だな。自分の命が狙われたというのに」
「そうですね。私に対しては、九条さんも本気でした」
「ああ、そうだな」

 弾丸が外れたことに対して、運が良かったとは思わない。自らを捉える銃口に迷いがあったことを、いちいち言われずとも慧は理解している。
 相手と向き合う覚悟ができていないのは千奈美も同じだったのだ。築かれた思い出が慧の動きを止めたように、彼女の決意をも引きとめた。

 彼女が行使した魔術――アンダルサイトの石言葉は〝愛の予感〟。
 両親を殺されて慧と同じく藤沢に拾われた彼女は、一度奪われた愛情を深く求めた。
 その相手は、恩人である藤沢か。対象は一人とは限らない。他にも相手がいるとすれば、それは誰か。
 ……求める心が変わっていないのなら、まだ希望はある。だが慧としても、それがいつまでも続いてくれるとは思わない。
 彼女に敵として対峙するのは、これで三度目。
 きっと、次はもうない。
 千奈美が最後に見せた瞳が、そう宣告していた。

「今度は、俺も本気で狙われるだろうな」
「心配ありません。上倉くんは、私が守りますから」

 未来に待つ不安を跳ね除ける微笑み。
 下心のない純朴な笑顔に、慧の胸の重荷が少しだけ軽くなった。

「頼もしいな。腕の立つ鏡花に守ってもらえるなら安心だ」

 慧は千奈美が飛び去った方角に目をやった。
 秋の澄み切った星空を眺め、彼はもう一度鏡花を見据える。

「逃がしてくれたんだな、千奈美を」
「だって、上倉くんに怒られると思いましたから」
「おこられる?」
「上倉くんは自分の手で九条さんを止めたいんじゃないかって、そう思いましたので」

 自信があるのか、ないのか。鏡花は曖昧ながら淡々と答えた。

「それは、余計な配慮をさせてしまったな」
「私の勝手な判断です。迷惑だったらごめんね」
「いや、鏡花の考えは正しい。そうだな。千奈美の件は、俺がなんとかしないとな」
「応援してますよ、上倉くん」
「応援されるだけでうまくいけばいいんだがな」

 緊張からの解放感に気が緩んだ彼は、頬を緩ませ軽口を叩く。
 別に深い意味があるわけではなかった。ただ、それを聞いた鏡花は顔に影を落とした。

「……いじわるなことは、あまりいわないでください」
「気にするな。もとより失敗するつもりはない。応援してくれるなら、お前には結末を見届けてほしい」

 組織に加入して間もない慧を、鏡花は不自然なほどに慕っている。
 鏡花以外の誰かなら、慧もこんなふうに信頼しなかった。それが鏡花だから。彼女の言葉が全て本心であることは、先に扱った宝典魔術が証明している。
 慧から「見届けてほしい」なんて言われるとは思っていなかったのか、鏡花は虚を突かれた顔をした。
 けれど、すぐに満面の笑顔を咲かせた。

「はい。幸せな結末にしましょうね」
「大層な表現だ」

 どうにか機嫌を取り戻してくれたようで、慧は密かに胸を撫で下ろした。

「社長を待たせていますし、そろそろ帰りましょうか」
「敵がまたしかけてくる可能性もあるしな」

 出会って以来最も楽しそうな顔を浮かべ、鏡花は半壊した部屋を出て廊下を進む。あとに続きながら、慧はまた〝彼女〟を想う。
 これ以上つらい思いをさせたくはなかった。
 次に会うときに、全ての決着をつける。
 目前に迫る運命に、慧の決意は揺らがない。
 二年前に裏切りを断られたように、今回も説得に応じてくれるとは限らない。
 フリーフロムを潰してもなお、千奈美が聞く耳を持たず拒絶するのなら、慧に選べる道は一つしか残されない。

「上倉くん、乗らないんですか?」

 思考に耽っていた慧は、気づけば元アジトの入口まで歩き足を止めていた。
 天谷邸から乗ってきた車が目の前に停めてある。悠司が路上から移動させたのだ。助手席の窓から顔を出す鏡花。車のハイビームの発光を受けながら、彼を不思議そうに見ていた。

「すまない。すぐに乗ろう」

 促されて乗車する。悠司はアクセルペダルを踏み込んだ。
 慧の目的を阻む壁はあまりにも高い。拭いきれない不安が、依然として彼の心に居を構えている。
 それでも、大切な人だから。
 彼女を救いたいと、そう突き動かす信念に間違いはないと胸を張れるから。

 目的に至れるなら、彼は他の全てを捨ててもいいとさえ考えていた。
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