エスメラルドの宝典

のーが

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第42話

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 感情の失われた低い声色。囁いた千奈美は右手を振りおろす。
 天井の氷柱が支えを失い、一斉に落下した。
 振り出しに戻ろうにも入口は氷塊が塞ぐ。
 助かる方法は彼女のいる出口に逃げる他にない。
 だが、間に合う距離ではない。
 天井の落下が急激に加速する。三階の高さにある通路に取り残された彼に、避ける術はない。

 ――ならば、逃げなければいい。

 慧は連絡通路の中央で立ち止まる。二本の刀を巻き込むように腰を捻り、屈んで右膝を立てる。身体の正中線に軸を作るよう想像し、音と空気の変化を頼りに氷柱の天井が最接近する瞬間を待つ。
 即座にそれは訪れた。
 収縮したバネが弾けるごとく、刀が頭上を半月に裂く。
 落下した氷柱が床の根元にまで突き刺さる。氷に触れた地点から、染みが広がるように周辺が凍結する。
 しかし、慧の立つ狭小とした範囲だけは原形を留めていた。彼の足元にはガラス片に似た結晶が散乱する。
 必殺の魔術を跳ね除けたのだ。慧は口を真一文字に結ぶ彼女を見つめ返す。
 凍った床に一歩踏み出そうとして、異状に気づいた。
 彼の額から冷や汗が噴き出す。

「な、に――」

 足元の違和感。
 床に幾筋もの亀裂が入っている。満遍なく、入口から出口まで。
 通路の終端に立つ千奈美。つまらなさそうに慧を眺め、正面に手をかざす。唯一の脱出口が、いくつもの細長い氷柱により塞がれる。
 進む先も逃げる先も失った。崩落秒読みの足場に孤立する。
 諦めても同情されるほどの窮地。だが彼の頭にあるのは彼女を救う使命だけで、選ぶべき答えは他にない。
 慧の決意を嘲笑うように、通路は音を立てて端から崩れる。
 氷柱に塞がれた脱出口を凝視する。
 彼は氷の床を駆けた。
 大股で、素早く。
 一度踏んだ箇所は即座に欠け、地上約一〇メートルの高さからボロボロと崩れ落ちる。

 ――あと十歩。

 同じ失敗は繰り返さない。許されもしない。

 ――あと五歩。

 引き返せないのだから、道がなくとも進むしかない。

 ――あと。

 氷壁が覆う脱出口への到達を目前に、残りの歩幅が踏むべき足場を消失した。

「まだ――――ッ!」

 普段は出さない声で気合を込める。崩れた足場を蹴飛ばし舞い上がる。
 着地する先はない。眼前に広がるのは、千奈美の生成した氷壁のみ。
 砕けた氷柱の破片が煌く。慧は逆手に持つ刀を腰の後ろまで引く。
 全体重を柄頭にのせた。
 全霊をかけ、刀を握る拳を突き出す。

「終わりじゃないッ!」

 柄頭が氷壁の中心に激突する。確かな手応えを彼は感じた。
 亀裂が走る。瞬間、壁は無数の欠片に飛散した。
 着地した慧は身体を一回転させ、落下の衝撃を緩和する。
 九死に一生を得た彼は、窮地を脱した安堵に心を緩めた。身体を起こそうとして天井を仰ぐ。

 眼前に、銀色の切っ先があった。

 突き落とされたナイフから間一髪で逃れる。起き上がりざまに逆手に持つ刀を構え、追尾するナイフを弾く。迫る銀閃は留まらず、幾度も苛烈に暴走する。
 俊敏な動作に、彼女のズボンから薬莢が数発こぼれ落ちた。
 無我夢中ならば、隙を作ることは容易。慧は執拗に追い回すナイフを弾き返し、呼吸を整えるために距離を取る。
 咄嗟に千奈美の手がホルスターに伸びた。彼は判断を誤ったと自覚する。
 立て直す猶予はない。流麗に引き抜かれた拳銃の撃鉄が落ちる。
 薄暗い部屋の窓際、反射的に身体を左右に揺らして二発をかわす。
 攻撃と回避のスイッチを切り替え、拳銃を叩き落そうと肉薄する。
 銃口が下がる。千奈美は左手のナイフを振り上げ迎え撃つ。
 金属と金属が幾重にも火花を散らした。死を呼ぶ甲高い衝突音が暗闇に反響する。
 虚をつく千奈美の水面蹴り。慧は地面から足を離して回避する。
 宙に浮き避けようがない状況。彼の眼下から垂直に弧を描く刃が来襲する。
 なんとか防ぐが、体勢を崩した。彼女の鞭のような中段蹴りが飛んでくる。
 順手に握る刀を引き寄せ、衝撃を肘で受け止める。
 死に物狂いで防ぎきった慧に、千奈美は間合いを取りつつ銃口を向ける。休む間など与えない。連続して銃声が三度響く。
 研ぎ澄ました視力が、銃弾の描く軌跡を寸分の狂いなく予測する。それはもはや予知の域にあった。弾道を見切った弾丸に当たるはずもない。
 けれども距離が空いたままでは埒が明かない。慧はたまらず駆け寄る。
 重なる銀閃。
 今度は弾かず、信念をぶつけあうように刃が競り合う。

「慧は満足そうだよね。新しい仲間と肩を並べてさ。そんなに私たちが邪魔? 嬉しいよ。両想いだね」
「満足なわけあるか。フリーフロムを潰してお前を救い出すまで俺は満たされない。お前はどうなんだ? このまま不本意に悪行を重ねる生き方で満足できるのか? 拾われた命だからしょうがないと、自分を騙し続けて!」
「何でも思い通りになんてできないんだよ! 私だって、拾われるならAMYサービスのような治安を守る正しい組織が良かった。でも、親を裏切るなんてできないっ!」
「藤沢智弘を、親だというのか」

 慧の集中が乱れる。彼女は後ろへ跳び拳銃を構える。
 奥歯を噛み、いつ撃たれてもかわせるよう銃口の深淵を注視する。彼の心拍数が、病的なまでに速度を増す。

「両親を失った私を八年間も育ててくれたんだから、親も同然だよ。慧にとってもそうでしょ?」
「たとえ親だとしても、他人から奪って生き延びている奴を看過はできない。親が道を踏み外したなら、正しい道を教えてやるのも子の役目だ。それが無理なら、罪を終わらせることも」
「ボスだって奪いたくて奪ってるんじゃない。そうしなきゃみんなを生かせないからだって慧もわかってるでしょ! 国が満足な支援をしてくれなかったときに、みんな飢え死にしておけばよかったって思う? そしたら私も慧も生きてなかったんだよ!?」
「俺も藤沢が両親を殺した連中と同じだとは思っていない。だが、俺たちが奪った奴らにも大切な人や人生の目的があったかもしれない。俺は自分を正義だとは思わない。これまでの自分の罪を清算するために、フリーフロムを終わらせる」
「それなら私を救う必要なんてない」
「いや、俺は勝手な理由でフリーフロムを潰すし、勝手な理由で千奈美を救う」
「理由って?」
「千奈美にとって藤沢がそうであるように、俺は千奈美が大切なんだ」

 時間が止まったかのような静寂。
 不意を突く銃撃。慧は落ち着いて予備動作を読み、左後方に転がり回避する。
 彼の足元に、数発の薬莢が散らばっていた。近接戦闘の際に千奈美がこぼしたものだ。
 千奈美の指が再度引き金を引こうとする。
 慧は避けなかった。
 暗闇から彼を狙う拳銃が、空虚な音を立てる。装填可能な六発の弾丸を撃ち尽くした凶器は、もはや玩具と変わらない。
 向けた銃口を下ろさず、彼女は正面にいる慧を見つめた。

「……本当に勝手だよ。慧は私に選ばせたよね。一緒にフリーフロムと敵対するか、このままボスについていくかって。私はボスに恩を返したいって言って、慧も反対しなかったじゃん」
「すまない」

 千奈美は頬を強張らせた。弱々しく謝罪する慧を睨む。

「ボスの守ろうとしたモノを滅茶苦茶にしておいて、私の心も好き放題にかき乱して、出てくる言葉がそれだけ? 謝れば許してもらえるとでも?」
「他にできることはない。気持ちは伝えた。あとは、千奈美の判断に委ねるしかできない」
「どんな答えでも受け入れる?」
「納得できなくてもどうしようもない。委ねるといったが、俺を選んでくれるなら後悔はさせない」
「そっか……」

 小さく相槌を打ち、千奈美は構えていた拳銃をおろした。
 慧は返答に期待を抱かずにはいられない。
 彼女は、首を横に振った。

「悪いけど、私は慧を選べない。フリーフロムを抜けるにしても、今から寝返るなんてやり方は嫌だから」
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