エスメラルドの宝典

のーが

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第41話

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「千奈美……降伏する気はないのか?」

 無駄と知りながらも、慧は尋ねずにはいられない。

「降伏なんて、冗談じゃない」
「藤沢はお前を囮にするつもりなんだろ? 恩を返すというなら、もう充分だ」
「そうかもしれないね」

 銃口を下げぬまま、表情を変えぬまま、千奈美は慧を見据える。

「ここで囮の役目を果たせば、もうフリーフロムとは縁を切ってもいいかも」
「それなら今でもいいだろ。手を引いて俺たちの側につけ!」

 存外にも傾きかけていた千奈美の心に、慧は必死に訴える。

「嫌だ。お前たちAMYサービスにだけは、絶対に」
「どういう意味だ? 私怨でもあるのか?」
「そうじゃない。私にとって、AMYサービスは敵でしかないってこと」
「連中はお前を歓迎してくれるはずだ。俺のときだって――」

 発砲音が遮る。弾丸が慧の足元を抉った。
 千奈美の握る拳銃から、硝煙が微かに漏れていた。

「別に私を説得しなくたっていい。お前と私は敵同士なんだから、会話なんて必要ない。お前にはお前の味方がいて、私には私の味方がいる。殺しあうなら、さっさと始めよう」
「藤沢を守るために命を張るのか? 大罪人の男を」
「命なんて私にはないよ。ボスに拾われたのだから、この身体はボスのために働くだけ」

 千奈美は拳銃の銃身を下げ、左手を正面に突き出した。
 その手に武器はない。素手のまま虚空に手のひらをかざす。
 彼女の周りに、緑色の粒子が出現した。

「勘違いしてるみたいだけど、死ぬ気なんてないから」

 咽び泣きたくなるほどの殺意。
 彼女の手に、異能を授ける宝典が生まれる。
 慧は二本の直刀を正眼に構えた。全身を巡る意識の流動を爆発的に加速させる。閉じた瞼の裏側に、翠緑色の輝きを見る。
 連絡通路を吹き抜ける風の音色の変化を聞き取った。
 地上に蔓延する硝煙のきな臭さを嗅ぎ取った。
 力を抜いて、手を離したのかと錯覚する加減で柄を握り直した。
 たったひとりでも目的を遂げるために得た、彼だけの持つ特別な異能だ。
 犯罪組織として育った慧が、何かを守るという目的を遂げるために。

「ここでお前を殺して、それからお前の仲間も殺す」

 瞼を閉じる慧の耳に、聴きたくない言葉が届く。
 守りたいと願う人から向けられる敵意。逃げずに彼は受け止める。
 ここで踏ん張らなければ嘘になってしまう。勇気を出して決断した自分の選択も、叶えたかった目的も。
 彼は証明しなければならない。
 自分の行動が押し付けではなく、千奈美にとっても正しかったのだと。

 ――解錠アンロック

 暗示を心中で呟き、慧は重く垂れていた瞼を跳ね除けた。
 翠緑色に輝く右目が、対峙する彼女を捉える。

「やっぱり、そんな力を隠してたんだ」
「世間一般のソレとは違うようだが、身を守るには充分だ」
「よくも自信満々にっ!」

 異能を発動した慧を、彼女は本気を出すに値する敵とみなす。
 宝典の表紙からページが捲れ、静止する。

「第二六宝典魔術――」

 放つ燐光が、鮮やかな青色に変貌する。光の放出量は凄まじく、千奈美の華奢な身体を飲み込む。
 その魔術を、慧は知らなかった。
 悠司が言ったように心情の変化が扱える魔術に影響するならば、第二六宝典魔術は気持ちの変化の証だ。
 都合の良い理由であってほしいと、慧は切実に願う。
 漂う粒子の集合体に包まれる千奈美。視線の中央に慧を捉えて集中する。
 慧は愛用する二本の剣尖を天と地に向けた。刀身が二つに割る世界から魔術の発動を静かに待つ。
 彼女は彼の注視を意に介さない。意識を乱す兆候すら見せぬまま、宝典の発光をさらに眩しくさせる。
 周囲に冷気が溢れだす。発動されようとしている魔術が先日と同じ凍結系なのだと慧は察する。

「――アフェクション・サファイア」

 千奈美は宝典の消滅に合わせ、左手を薙ぎ払う。
 青い粒子が連絡通路の隙間から空に漏れ、虚空に数多の氷塊が生成する。
 慧は彼女の準備が整ったと判断した。独特な構えを維持し、右足に重心を置き前傾姿勢をとる。
 それは突進の予備動作だ。あえて見せつけて、次の行動を宣言する。
 向けられた銃口に、自ら飛び込んでいくつもりだと。

「これで最後だ」

 通路の奥に潜む闇を目指し、慧は床を蹴った。
 大股かつ小刻み。常軌を逸した身体制御が、驚異的な移動速度を実現する。
 交差して並ぶ柱の間を疾走する視界。微かな風が隙間から吹きつける。
 火薬の炸裂する微弱な振動。反射的に右へ跳ぶ。
 狭い通路の中央を、弾丸の黄金色の閃光が貫いた。
 当たれば致命傷は免れない。
 弾丸は間髪入れず飛来する。
 撃たれてから避けているようでは間に合わない。音速で動けるのなら話は変わってくるが、仮に実現できたとして人間の肉体に耐えられるはずもない。
 彼に可能なのは、撃たれる前に回避するくらい。
 引き金を引く動作を視て、火薬の爆ぜる振動を聴く。
 無論、額に汗をかくほどの集中力を持続させなければ感知できない。わずかでも気を抜けば絶命する。生きた心地などあるはずもない。
 千奈美の拳銃に装填された弾丸が底をついた。弾切れを示す音も彼女は眉を歪める。
 好機だ。慧は一息で通路の奥へ到達しようと加速する。
 ふたりの間合いはあと十歩。所要時間は約二秒。二秒あれば、彼の手は届く。
 弾を切らした彼女が、拳銃を握る腕を薙いだ。それは残弾把握を怠った自分に苛立ったわけでも、降参を意味するわけでもない。
 あと五歩。次の瞬間には、彼女に手を触れられる。
 突如として慧の視界を異質な影が覆った。肌で感じる気温が急激に低下する。
 何が起ころうとしているか勘付いた。
 迷う時間はない。彼は恐れを捨てて突っ込む。

「――ちッ!」

 だが、あと一歩のところで巨大な氷塊が彼の眼前を遮った。
 氷柱つららを思わせる円錐型の青い氷塊。連絡通路の支柱のみならず天井をも粉砕する。破壊された外殻の残骸が、灰色の粉塵となって拡散した。
 氷塊は一つではない。やむを得ず後退を余儀なくされた慧を追尾して、息つく間もなく飛来しては通路を破壊する。彼は振り出しまで押し戻される。
 今度は斜め前方から気流の変化を察知した。
 慧は片膝をつき身体を丸める。粉塵の霧を裂いた氷塊が、屈む彼の頭上を通過した。無事に避けて振り返る。

 退路が氷塊に塞がれていた。

 千奈美は避けられることまで計算していたのだ。
 灰色の煙に覆われた空間。その深奥から、強烈な殺気が放たれる。
 膝をあげ、慧は逆手の刀を前面に構える。
 煙をまとい飛びかかる千奈美。左手のナイフを振り下ろす。軌道を予測した直刀が弾き返す。
 天井の崩落により瓦礫が積もる床の上、月明かりを直に受け取る空の下、幾度となく刃の重なる音が奏でられる。

「殺す。殺してやる。私の前から消えろッ!」

 その殺意もまた凶刃となり、慧を内側から斬りつける。

「どうして裏切ったッ! 慧だって私と同じくせに! ボスが助けてくれなかったら死んでたのにッ!」
「命を救われたから何をしていようと見て見ぬフリをするのか! そんなもので正しい結末を迎えるとでも思うのか!」
「そもそもそんな土俵に立ってない。ボスが選んだなら従うだけ。前も言ったけど、死んでいたはずの私たちに正しいも悪いもないんだよッ!」
「救ってくれる相手は選べなかった! 俺たちは恩人の質を見極めるべきじゃないのか!」
「何様のつもりだッ!」

 乱舞するナイフを受け流す度、慧の肉体に負荷がかかる。
 それ以上に、会話するほどに千奈美との距離が離れていくようで心が痛い。

「私は慧を守ってあげたかったッ! 歳が近いって理由だけだったけど、学校とは違ってそれだけで特別だった! なのにこんなひどい裏切り行為っ……お前さえいなければッ!」

 千奈美の悲痛な訴えが、どんな凶器よりも鋭く慧の身体を抉り傷つける。
 彼の得意とする近接戦では勝てないと判断して、千奈美は距離をとった。鋭利な言葉に意識を奪われ、慧は咄嗟に追撃に転じることができない。
 拳銃を収め、右手を夜空に伸ばす千奈美。その手の動きを追い、慧は頭上を仰ぐ。
 無数に並んだ氷柱が、通路上空を覆い尽くしていた。
 あまりに現実離れした光景。戦慄する彼を置き去りに、千奈美は対岸にある連絡通路の接合部まで飛び退く。
 次に起こるであろう事象を慧は予見した。瓦礫の積もる床を蹴る。

「さようなら」
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