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9.お飾り妻は助けられた
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ジョージとダイアナを見送った後、ラフィーナはジャンに向き直った。ジャンはまだ壁に背を預けて座り込んでいる。うなだれる顔から表情は読み取れず、静かな呼吸音だけが聞こえてくる。
正直を言えばもうジャンとは口を利きたくなかったが、今後のことについて少し話をしなければならないと思ったからだ。
ジョージはラフィーナに「あなたが不利益をこうむるような判断は絶対にしないと約束する」と言ってくれた。ジャンとラフィーナの関係が破綻したとしても、エニス家への援助をすっぱり打ち切るようなことはないだろう。
心強い味方が増えた今、ラフィーナには今までのように体の良いお飾り妻としてカールトン家に留まっている理由がなかった。
「ジャン様。これからのことについてお話したいのですけれど」
「……」
「身勝手な主張だとは思いますが、私はしばらくのあいだ両親の元に返らせていただきたく存じます。これだけのことが起こってしまった今、もう今までのように体の良いお飾り妻を演じることはできません」
「……」
「私たちの結婚関係や、エニス家への資金援助については、後日ジョージ様を交えて話をさせていただきたく――ジャン様?」
ジャンがいつまで経っても何も言わないので、ラフィーナは不思議に思って名前を呼んだ。
するとジャンは唐突に立ち上がり、ラフィーナ目がけて掴みかかってきた。
「きゃっ……」
「ラフィーナぁぁ!! 全部、全部お前のせいだぞ! お前がルネ・セラフィム修道院のことなど持ち出さなければ、こんなことにはならなかったんだ!」
ジャンは目を血走らせ、ラフィーナの首を絞めようとする。口角から泡を飛ばし、罵倒を吐き散らす様は人間の姿とは思えない。言葉の通じない獣のようだ。
5年間に渡る怠慢と不貞行為を暴かれた。両親に見放され、見下していたラフィーナにすら見限られ、今のジャンは理性など失ってしまっているのだろう。
(このままじゃ殺されてしまう……!)
ラフィーナは懸命に抵抗した。ジャンの腹を蹴り飛ばし、両手をめちゃめちゃに振り回した。
なおも掴みかかろうとするジャンの爪先が頰をかすめる。痛みを感じても抵抗を止めることはできなかった。怒りに我を忘れたジャンは手加減などしない。少しでも力を緩めればすぐにでも絞め殺されてしまう。
「この糞女が、お前さえ、お前さえいなければぁぁ……!」
(誰か、誰か助けて――)
ついに首に手をかけられて、ラフィーナは心の中で助けを呼んだ。脳裏に浮かんだのは、いつもそばにいてくれた小さなドラゴンの姿だった。
刹那、轟音が響きわたった。
その荒々しさたるや、屋敷の一角に雷が落ちたようだ。壁の一部が大きく壊れ、辺りには大小さまざまな大きさの瓦礫が散らばった。粉々になった窓ガラスの破片が、太陽の光を浴びて輝く。
ラフィーナはまばたきをすることも忘れて、屋敷の壁を壊したその生物を見つめた。
「ドラゴン」
瓦礫の真ん中には巨大なドラゴンが立っていた。
絶望すら感じさせるほど恐ろしげな風貌のドラゴンだった。黒々とした鱗に包まれた腕は丸太のように太く、黄金色の鉤爪がギラギラと生えそろっている。巨大な翼は天を裂き、するどい牙は人間の骨など簡単に噛み砕くことだろう。
いつか馬小屋で見たドラゴンの数倍はあろうかという巨躯が、太陽を背中に堂々と立つ。 その恐ろしくも美しいドラゴンを前にすれば、人間など矮小な存在だと思われてならなかった。
『お前、ラフィーナのことを傷つけたな』
ドラゴンの声は地響きのようだった。しかしその声には聞き覚えがあり、ラフィーナは安堵感に涙が出そうになった。
(ギド、助けに来てくれたの)
ラフィーナの願いは天に届いたのだ。
巨大なドラゴンとなったギドは、するどい眼差しでジャンを睨みつけた。
『おい、そこの人間。ラフィーナに血を流させてただで済むと思うのか』
ただ睨みつけられただけとはいえ、相手が巨大なドラゴンならば身が竦むほど恐ろしい。ジャンはガチガチと歯の根を震わせ、逃げることもままならず、置物のように地面にへたりこんでいた。
『ああ……お前がジャンか。愛する女をそばに起きたいがために、ラフィーナに仮初の番を演じさせる愚かな男』
「あ、あぅ……」
『仮初とはいえ、番を傷つける雄に生きる価値はない。お前に、ラフィーナのそばにいる資格はない』
刹那、ドラゴンが啼いた。大地が割れんばかりの咆吼だった。
ラフィーナはとっさに耳を塞いだが、恐怖に震えていたジャンは咆吼を全身に浴びた。白目を剥いてばったりと倒れ、それきり動かなくなってしまった。
◇
「ギド! 助けにきてくれたのね!」
ラフィーナはギドに駆け寄った。小さかった頃のギドはスカートの中に隠せるくらいの大きさだったが、今となってはラフィーナの頭上を遥かに超える。
以前、ギドは『竜人は大きな傷を負うと肉体を縮めて生命力の消費を抑える』と話していたことがある。こうして元の大きさに戻れたということは、傷がすっかり癒えたと言うことなのだろう。
ラフィーナはギドの鼻先に抱きつき、再会の喜びを噛み締めた。それから、少し離れたところに倒れるジャンを見た。
「……死んではいないわよね?」
『死なないだろ。吼えただけだぞ』
「心臓の弱い人なら、死んでもおかしくなさそうな声だったわ」
『ラフィーナが殺してもいいというのなら、容赦はしないけど?』
ギドがわざとらしく牙を剥いたので、ラフィーナは首を横に振った。
「殺さないで。こんな救いようの男でも、いなくなれば悲しむ人はいるもの」
『……ラフィーナは優しいな』
ギドが微笑んでつぶやいたとき、部屋の外からざわめきが聞こえた。屋敷の壁が壊された音や、ドラゴンの咆哮を聞いて、メイドたちが何事かと騒ぎ始めているのだろう。
彼女たちがこの部屋に入ってくるまで、さほどの時間はかからないはずだ。
(壁が壊れているのは適当に言い訳すればいいけれど……ギドの姿を見られたら大騒ぎになってしまうわ)
「ギド、人の姿になれる?」
『ん? ああ』
ギドの身体は氷が溶けるように小さくなった。するどい牙と爪は消え、大きな翼は跡形もない。
ラフィーナはギドの変身風景を黙って眺めていたが、そこに現れた人の姿かたちを見て目を丸くした。
ラフィーナの目の前に立っていたのは、立派な背格好をした青年だった。いつか見た小さな子どもの姿は面影もない。
黒々とした髪がひたいを流れ、黒曜石のような瞳は力強い輝きを放っている。黒いローブに包まれた肉体はたくましく、ラフィーナよりもこぶし3つ分は背が高い。
そして、巨大なドラゴンの面影をそのまま閉じ込めたかのような美しくも精悍な顔立ちだ。ジャンも整った顔立ちをしているが、さらにその数段は上をいく。頭部に生えた2本の角と、背中で折りたたまれた左右の翼が、人外的な美しさを助長するようだった。
ラフィーナはぽかんと口を開けて目の前の青年を見つめた。変身風景を眺めていても、彼がギドであるとはにわかには信じがたかった。
「ギド……よね?」
「ああ、俺が俺以外の誰かに見えるのか?」
「み、見えるわ。だってとっても大きくなってしまったし……見た目も全然ちがうわ。こっちが本当の姿なの?」
「そうだ。これならしっかり、大人に見えるだろう?」
ギドは悪戯げに笑った。
――俺がこんなに小さいから、まだ子どもだと思ってるんだろ!
いつかのギドの言葉を思い出し、ラフィーナはおかしくなった。姿かたちは変わってしまっても、目の前にいる青年は確かにギドだ。
「どうして私が危険な目に遭っているとわかったの?」
「空を飛んでいたら、ラフィーナの血の匂いがしたんだ。だから大急ぎで戻ってきた」
「そうだったの……」
ギドが駆けつけてくれた理由がわかり、納得すると同時にどうしようもなく嬉しくなった。
ギドは国に帰る準備をしながらも、ずっとラフィーナのことを気にかけてくれていた。もしもギドが助けにきてくれなかったら、今頃、ラフィーナはジャンに絞め殺されていたかもしれない。
「ギド、助けてくれてありがとう」
ラフィーナが心からのお礼を言うと、ギドは照れくさそうに微笑んだ。
それから別人のように表情を変えた。
「さて、おしゃべりはここまでにして、すぐにここを発つぞ」
「え?」
「ここは危険だ。たくさんの武装した兵士たちが、この屋敷に近づいている」
ラフィーナは息を呑んだ。ギドの言葉の意味がわからないほど愚かではなかった。
「まさか、イオラ王国の兵士が攻めてきたというの?」
「空から見ただけだから、兵士の国籍まではわからない。でも東の方からやってきていた。馬に乗っているからスピードはかなり速い。間もなくこの屋敷に辿り着くだろう」
「そんな……」
目の前が真っ暗になった。
イオラ王国が戦の準備をしているかもしれない、とユクト司祭は言った。しかし、まさかこんなにも早く開戦の狼煙があげられようとは。カールトン家はまだ何の準備もできていないというのに。
ラフィーナはジャンを揺り起こそうとして、止めた。ジャンにイオラ王国の兵士が攻めてきていると伝えたところで信じてはもらえないだろう。仮に信じてもらえたところで、ジャンに何かができるとは思えなかった。5年間、遊び呆けていただけの愚かな当主に、戦を止める力などない。
どうすればいいかわからず部屋の扉を開けた。そこには数人のメイドたちがいて、「さっきの大きな音は何だったのかしら?」と不安そうに話し込んでいた。
「みんな、落ち着いて聞いてほしいの……。この屋敷に、イオラ王国の兵士が近づいているわ。他のメイドたちにも伝えて、すぐに避難してちょうだい」
ラフィーナが藁にも縋る思いで訴えると、メイドたちは揃って迷惑そうな顔をした。
「……何ですか? いきなり」
「そうやって作り話で人の気を引こうとするのは止めてください。私たち、ただでさえリリア様のお世話で疲れているんです」
「そうそう、お飾り妻の相手をしている暇なんてないんですよ」
メイドたちはラフィーナを見下すようにクスクスと笑う。そしてわざとらしくラフィーナに肩をぶつけ、その場からいなくなってしまった。
ラフィーナは呆然として立ち尽くした。この屋敷の中でラフィーナの立場は低い。メイドたちはみなリリアの機嫌はとろうとするくせに、ラフィーナには労いの言葉一つかけてくれたことがない。
その立場の低さが、こんなところで影響を及ぼすとは思いもしなかった。
信じてもらえなかったことがやるせなくて、ラフィーナはうつむいて涙を零した。
(だめ、私の力ではどうすることもできない。だって誰も、私の言うことなんて信じてくれない……)
その後も数人のメイドたちに話しかけてみたが結果は同じで、ラフィーナは落胆を抱えギドのところへと戻った。
ギドは壊れた壁の間から東の空を見つめていた。青々とした空には羊のような綿雲がぽこぽこと浮かんでいる。あくびが出るくらいのどかな光景だ。
しかしギドの口から放たれる言葉は、のどかには程遠かった。
「ラフィーナ、もうこれ以上は待てない。馬と、鉄と、火薬の臭いがすぐ近くまで来ている」
ラフィーナはぼんやりと東の空を見つめた。澄んだ空の下には緑の森が広がっている。いつもと変わらない風景だ。
しかしそのいつもと同じ風景の向こう側からは、着々と危機が迫っている。
「あ――」
森の中にとある人物を見つけ、ラフィーナは声をあげた。その人物は茶色い馬の手綱を引きながら、損壊した屋敷の壁を怪訝な表情で見つめていた。
(あの人なら、私の話を信じてくれるかもしれない)
「ギド。お願い、あともう少しだけ時間をちょうだい。最後にあの人と話をしたら、あとはギドの言うとおりにするから」
ギドはもどかしそうな顔をしながらも、渋々うなずいた。
正直を言えばもうジャンとは口を利きたくなかったが、今後のことについて少し話をしなければならないと思ったからだ。
ジョージはラフィーナに「あなたが不利益をこうむるような判断は絶対にしないと約束する」と言ってくれた。ジャンとラフィーナの関係が破綻したとしても、エニス家への援助をすっぱり打ち切るようなことはないだろう。
心強い味方が増えた今、ラフィーナには今までのように体の良いお飾り妻としてカールトン家に留まっている理由がなかった。
「ジャン様。これからのことについてお話したいのですけれど」
「……」
「身勝手な主張だとは思いますが、私はしばらくのあいだ両親の元に返らせていただきたく存じます。これだけのことが起こってしまった今、もう今までのように体の良いお飾り妻を演じることはできません」
「……」
「私たちの結婚関係や、エニス家への資金援助については、後日ジョージ様を交えて話をさせていただきたく――ジャン様?」
ジャンがいつまで経っても何も言わないので、ラフィーナは不思議に思って名前を呼んだ。
するとジャンは唐突に立ち上がり、ラフィーナ目がけて掴みかかってきた。
「きゃっ……」
「ラフィーナぁぁ!! 全部、全部お前のせいだぞ! お前がルネ・セラフィム修道院のことなど持ち出さなければ、こんなことにはならなかったんだ!」
ジャンは目を血走らせ、ラフィーナの首を絞めようとする。口角から泡を飛ばし、罵倒を吐き散らす様は人間の姿とは思えない。言葉の通じない獣のようだ。
5年間に渡る怠慢と不貞行為を暴かれた。両親に見放され、見下していたラフィーナにすら見限られ、今のジャンは理性など失ってしまっているのだろう。
(このままじゃ殺されてしまう……!)
ラフィーナは懸命に抵抗した。ジャンの腹を蹴り飛ばし、両手をめちゃめちゃに振り回した。
なおも掴みかかろうとするジャンの爪先が頰をかすめる。痛みを感じても抵抗を止めることはできなかった。怒りに我を忘れたジャンは手加減などしない。少しでも力を緩めればすぐにでも絞め殺されてしまう。
「この糞女が、お前さえ、お前さえいなければぁぁ……!」
(誰か、誰か助けて――)
ついに首に手をかけられて、ラフィーナは心の中で助けを呼んだ。脳裏に浮かんだのは、いつもそばにいてくれた小さなドラゴンの姿だった。
刹那、轟音が響きわたった。
その荒々しさたるや、屋敷の一角に雷が落ちたようだ。壁の一部が大きく壊れ、辺りには大小さまざまな大きさの瓦礫が散らばった。粉々になった窓ガラスの破片が、太陽の光を浴びて輝く。
ラフィーナはまばたきをすることも忘れて、屋敷の壁を壊したその生物を見つめた。
「ドラゴン」
瓦礫の真ん中には巨大なドラゴンが立っていた。
絶望すら感じさせるほど恐ろしげな風貌のドラゴンだった。黒々とした鱗に包まれた腕は丸太のように太く、黄金色の鉤爪がギラギラと生えそろっている。巨大な翼は天を裂き、するどい牙は人間の骨など簡単に噛み砕くことだろう。
いつか馬小屋で見たドラゴンの数倍はあろうかという巨躯が、太陽を背中に堂々と立つ。 その恐ろしくも美しいドラゴンを前にすれば、人間など矮小な存在だと思われてならなかった。
『お前、ラフィーナのことを傷つけたな』
ドラゴンの声は地響きのようだった。しかしその声には聞き覚えがあり、ラフィーナは安堵感に涙が出そうになった。
(ギド、助けに来てくれたの)
ラフィーナの願いは天に届いたのだ。
巨大なドラゴンとなったギドは、するどい眼差しでジャンを睨みつけた。
『おい、そこの人間。ラフィーナに血を流させてただで済むと思うのか』
ただ睨みつけられただけとはいえ、相手が巨大なドラゴンならば身が竦むほど恐ろしい。ジャンはガチガチと歯の根を震わせ、逃げることもままならず、置物のように地面にへたりこんでいた。
『ああ……お前がジャンか。愛する女をそばに起きたいがために、ラフィーナに仮初の番を演じさせる愚かな男』
「あ、あぅ……」
『仮初とはいえ、番を傷つける雄に生きる価値はない。お前に、ラフィーナのそばにいる資格はない』
刹那、ドラゴンが啼いた。大地が割れんばかりの咆吼だった。
ラフィーナはとっさに耳を塞いだが、恐怖に震えていたジャンは咆吼を全身に浴びた。白目を剥いてばったりと倒れ、それきり動かなくなってしまった。
◇
「ギド! 助けにきてくれたのね!」
ラフィーナはギドに駆け寄った。小さかった頃のギドはスカートの中に隠せるくらいの大きさだったが、今となってはラフィーナの頭上を遥かに超える。
以前、ギドは『竜人は大きな傷を負うと肉体を縮めて生命力の消費を抑える』と話していたことがある。こうして元の大きさに戻れたということは、傷がすっかり癒えたと言うことなのだろう。
ラフィーナはギドの鼻先に抱きつき、再会の喜びを噛み締めた。それから、少し離れたところに倒れるジャンを見た。
「……死んではいないわよね?」
『死なないだろ。吼えただけだぞ』
「心臓の弱い人なら、死んでもおかしくなさそうな声だったわ」
『ラフィーナが殺してもいいというのなら、容赦はしないけど?』
ギドがわざとらしく牙を剥いたので、ラフィーナは首を横に振った。
「殺さないで。こんな救いようの男でも、いなくなれば悲しむ人はいるもの」
『……ラフィーナは優しいな』
ギドが微笑んでつぶやいたとき、部屋の外からざわめきが聞こえた。屋敷の壁が壊された音や、ドラゴンの咆哮を聞いて、メイドたちが何事かと騒ぎ始めているのだろう。
彼女たちがこの部屋に入ってくるまで、さほどの時間はかからないはずだ。
(壁が壊れているのは適当に言い訳すればいいけれど……ギドの姿を見られたら大騒ぎになってしまうわ)
「ギド、人の姿になれる?」
『ん? ああ』
ギドの身体は氷が溶けるように小さくなった。するどい牙と爪は消え、大きな翼は跡形もない。
ラフィーナはギドの変身風景を黙って眺めていたが、そこに現れた人の姿かたちを見て目を丸くした。
ラフィーナの目の前に立っていたのは、立派な背格好をした青年だった。いつか見た小さな子どもの姿は面影もない。
黒々とした髪がひたいを流れ、黒曜石のような瞳は力強い輝きを放っている。黒いローブに包まれた肉体はたくましく、ラフィーナよりもこぶし3つ分は背が高い。
そして、巨大なドラゴンの面影をそのまま閉じ込めたかのような美しくも精悍な顔立ちだ。ジャンも整った顔立ちをしているが、さらにその数段は上をいく。頭部に生えた2本の角と、背中で折りたたまれた左右の翼が、人外的な美しさを助長するようだった。
ラフィーナはぽかんと口を開けて目の前の青年を見つめた。変身風景を眺めていても、彼がギドであるとはにわかには信じがたかった。
「ギド……よね?」
「ああ、俺が俺以外の誰かに見えるのか?」
「み、見えるわ。だってとっても大きくなってしまったし……見た目も全然ちがうわ。こっちが本当の姿なの?」
「そうだ。これならしっかり、大人に見えるだろう?」
ギドは悪戯げに笑った。
――俺がこんなに小さいから、まだ子どもだと思ってるんだろ!
いつかのギドの言葉を思い出し、ラフィーナはおかしくなった。姿かたちは変わってしまっても、目の前にいる青年は確かにギドだ。
「どうして私が危険な目に遭っているとわかったの?」
「空を飛んでいたら、ラフィーナの血の匂いがしたんだ。だから大急ぎで戻ってきた」
「そうだったの……」
ギドが駆けつけてくれた理由がわかり、納得すると同時にどうしようもなく嬉しくなった。
ギドは国に帰る準備をしながらも、ずっとラフィーナのことを気にかけてくれていた。もしもギドが助けにきてくれなかったら、今頃、ラフィーナはジャンに絞め殺されていたかもしれない。
「ギド、助けてくれてありがとう」
ラフィーナが心からのお礼を言うと、ギドは照れくさそうに微笑んだ。
それから別人のように表情を変えた。
「さて、おしゃべりはここまでにして、すぐにここを発つぞ」
「え?」
「ここは危険だ。たくさんの武装した兵士たちが、この屋敷に近づいている」
ラフィーナは息を呑んだ。ギドの言葉の意味がわからないほど愚かではなかった。
「まさか、イオラ王国の兵士が攻めてきたというの?」
「空から見ただけだから、兵士の国籍まではわからない。でも東の方からやってきていた。馬に乗っているからスピードはかなり速い。間もなくこの屋敷に辿り着くだろう」
「そんな……」
目の前が真っ暗になった。
イオラ王国が戦の準備をしているかもしれない、とユクト司祭は言った。しかし、まさかこんなにも早く開戦の狼煙があげられようとは。カールトン家はまだ何の準備もできていないというのに。
ラフィーナはジャンを揺り起こそうとして、止めた。ジャンにイオラ王国の兵士が攻めてきていると伝えたところで信じてはもらえないだろう。仮に信じてもらえたところで、ジャンに何かができるとは思えなかった。5年間、遊び呆けていただけの愚かな当主に、戦を止める力などない。
どうすればいいかわからず部屋の扉を開けた。そこには数人のメイドたちがいて、「さっきの大きな音は何だったのかしら?」と不安そうに話し込んでいた。
「みんな、落ち着いて聞いてほしいの……。この屋敷に、イオラ王国の兵士が近づいているわ。他のメイドたちにも伝えて、すぐに避難してちょうだい」
ラフィーナが藁にも縋る思いで訴えると、メイドたちは揃って迷惑そうな顔をした。
「……何ですか? いきなり」
「そうやって作り話で人の気を引こうとするのは止めてください。私たち、ただでさえリリア様のお世話で疲れているんです」
「そうそう、お飾り妻の相手をしている暇なんてないんですよ」
メイドたちはラフィーナを見下すようにクスクスと笑う。そしてわざとらしくラフィーナに肩をぶつけ、その場からいなくなってしまった。
ラフィーナは呆然として立ち尽くした。この屋敷の中でラフィーナの立場は低い。メイドたちはみなリリアの機嫌はとろうとするくせに、ラフィーナには労いの言葉一つかけてくれたことがない。
その立場の低さが、こんなところで影響を及ぼすとは思いもしなかった。
信じてもらえなかったことがやるせなくて、ラフィーナはうつむいて涙を零した。
(だめ、私の力ではどうすることもできない。だって誰も、私の言うことなんて信じてくれない……)
その後も数人のメイドたちに話しかけてみたが結果は同じで、ラフィーナは落胆を抱えギドのところへと戻った。
ギドは壊れた壁の間から東の空を見つめていた。青々とした空には羊のような綿雲がぽこぽこと浮かんでいる。あくびが出るくらいのどかな光景だ。
しかしギドの口から放たれる言葉は、のどかには程遠かった。
「ラフィーナ、もうこれ以上は待てない。馬と、鉄と、火薬の臭いがすぐ近くまで来ている」
ラフィーナはぼんやりと東の空を見つめた。澄んだ空の下には緑の森が広がっている。いつもと変わらない風景だ。
しかしそのいつもと同じ風景の向こう側からは、着々と危機が迫っている。
「あ――」
森の中にとある人物を見つけ、ラフィーナは声をあげた。その人物は茶色い馬の手綱を引きながら、損壊した屋敷の壁を怪訝な表情で見つめていた。
(あの人なら、私の話を信じてくれるかもしれない)
「ギド。お願い、あともう少しだけ時間をちょうだい。最後にあの人と話をしたら、あとはギドの言うとおりにするから」
ギドはもどかしそうな顔をしながらも、渋々うなずいた。
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