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第一話「はじまり」
しおりを挟む涼しい風を頬に感じ、重たい瞼を上げる。ぼやけた視界で見つめた先にあったのは白い縁の窓。薄い水色のカーテンがほのかになびいていた。ゆったりと起き上がり、蜂蜜色の瞳で周りを見渡す。意識がだんだんはっきりしてくる。しかしそんな意識とは裏腹に、現状は全く把握できていなかった。
ここは一体どこなのだろう。大きな本棚に、シンプルな机。そして今寝ていたであろうベッド。
――見覚えのない部屋だ。
「あら、起きたのね」
突然聞こえた声にびくっとしてしまう。扉はよく見える位置にあるというのに、扉の開く音に気が付けなかったようだ。部屋に入って来たのは群青色の髪と瞳が綺麗な女性だった。短く切られたその髪はその女性の明るさを象徴しているようで、実際に明るい笑顔をしていた。この部屋の主だろうか。
「気分はどう?」
「あ……えと、悪くないです……」
久々に声を出した気がする。そのせいか少し掠れてしまった。なんだか気恥ずかしくなり、俯く。髪がかすかに顔にかかり、ふわりと潮の香りがした。無意識にその亜麻色の髪に触れる。感じる違和感に、本当に自分の髪なのかと疑問を抱いた。
「どうしたの?」
女性が不思議そうにその様子を見つめる。
「髪が、ちょっと、ごわごわします」
まるで覚えたての言葉を発するかのように、ぎこちなく声を出した。その様子が面白かったのか、それとも発した言葉が意外だったのか。女性は豪快に笑った。
「そりゃあそうよ。あなた海辺に倒れていたんだもの。とりあえず着替えはさせたけど、きちんとお風呂に入った方がいいわね」
視線を合わせるようにして女性は身をかがめる。そして群青色の瞳が優しく微笑んだ。
「私はアンナ。もしよかったら、あなたの名前を教えてくれる?」
そんなアンナの微笑にほっと安心感を抱き、口を開く。しかしその瞬間、心臓の高鳴りと共に一瞬呼吸が止まったような感覚がした。
――わからない。
身体が震えるような感覚がして、思わず手を抑える。そんな様子を見て、アンナは落ち着かせるようにその手に両手を添えた。
「……まだ混乱しているのかも知れないわ。とりあえずお風呂に入って。話は後にしましょう」
アンナはそう言って明るい笑顔を見せた。ゆっくりと息を吐いて、少女はこくりと頷いた。
温まった身体を拭き、無心でアンナの用意してくれた服を着る。先程まで寝ていた部屋のカーテンと似た、薄い水色のワンピース。サイズは不思議とぴったりだ。新しい服というわけではなさそうだが、アンナの服とも思えない。ふっと息を吐いて、髪の水分を拭き取った。
「あ、あの、お風呂ありがとうございました」
先程までいた部屋ではなく、アンナに言われた部屋におそるおそる入っていく。お風呂で温めたことで喉が潤ったのか、声はもう掠れていなかった。部屋はどうやらリビングのようだが、誰もいない。そのリビングから繋がっている部屋から水の音がした。キッチンと繋がっているのだろうか。ゆっくりと足を進める。
しかしそこには見知らぬ男がいた。烏羽色の髪に、吸い込まれそうなくらい深い闇のような瞳。
「っ!」
目が合い、思わず立ち止まってしまう。男はテーブルで珈琲を飲んでいた。その目力に圧倒され、後ずさろうとしたところで、明るい声が響いた。
「おかえりー」
奥からやってきたアンナは、二人分のカップをのせた白いトレーを持っていた。その明るい笑顔があまりに男と対照的で、呆然としてしまう。その様子を見てアンナは笑う。
「カフェオレ淹れたの。よかったら飲んで」
「は、はい」
男の隣に腰掛けるアンナを見て、ぎこちない動きでその向かい側に腰掛ける。カフェオレを一口飲むと、その温かさに心が落ち着いていくのを感じた。そしてちらりとアンナの隣に座る男に目をやる。一体誰なのだろう。二人はどのような関係なのだろう。
「さっきもちょっと言ったと思うけど、あなたは海辺に倒れていたの。そこであなたを拾ったのが、このウィリアムっていうツリ目で柄の悪い男なのよ。なんか怖がらせちゃったみたいで、ごめんね」
「い、いえ、そんな……」
咄嗟にそう答えて、ウィリアムと言われた男を見る。最初に目が合って以来、全くこちらを見ていない。やはり怖がったような態度がよくなかったのだ。思わずぎゅっとカップを握る。
「あんた何か言うことないの?」
アンナが呆れたようにウィリアムに言う。彼はアンナを一瞥して、珈琲の入ったカップを撫でる。
「……柄は悪くない」
「そこじゃないわよ」
「あ、あの」
鼓動が早い。かなり落ち着いたつもりでいたが、まだ緊張しているようだ。集まる二人の視線に、瞳を揺らす。すぅっと息を吸い込んだ。
「そ、その……助けていただいて、ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げる。しかし何の反応もない。不安そうに顔を上げると、二人は驚いたように少女を見ていた。
「ふふ、いいのよ。倒れてる女の子を放っておくなんてできないもんね、ウィル」
「……あぁ」
そしてアンナはかすかに微笑んだままカップを置いた。
「こちらとしては、あなたが海辺に倒れていたことくらいしか説明できないんだけど……何か覚えてることはある?」
その言葉に、頭を巡らせた。言葉や物の名称はわかる。しかし、今まで歩んできた筈の人生が全てなくなってしまったかのように、何も思い出せない。出身も、家族も、何もかもがわからなかった。
「……ごめんなさい」
そう言って俯く。言いようのない不安が胸に広がり、下唇を噛んだ。前方からアンナの唸る声が聞こえる。
「うーん……まぁそういうこともあるわよね。何か思い出すまでここにいればいいわ」
いいでしょ?とアンナはウィリアムに問いかける。ウィリアムはあぁと話を聞いていたかどうか怪しいくらいの生返事を返す。着々と進む話についていけず、ぼーっと二人の会話を聞く。
「あの、ここにいればいいって……」
「ここはウィルの家なの。本当なら私が泊めてあげるべきなんだけど……家の状況的にそういうわけにもいかなくて、ごめんね」
申し訳なさそうなアンナに勢いよく首を横に振る。こんな記憶のない見ず知らずの人間を泊めてくれること自体、ありがたい話だ。
「よ、よろしくおねがいします」
おずおずと頭を下げる。アンナは明るい笑顔を浮かべた。
「困ったことがあったら言ってね。私でも、ウィルでもいいから」
その言葉でウィリアムに視線を移す。しかし彼は黙って珈琲を堪能している。もう目が合う気配はなかった。
「名前も思い出せないとなると、かなり不便よね」
アンナが考え込むように腕を組む。名前。確かにかなり不便だ。
「何か呼び名でも考える?」
「え、えっと、お任せできますか……?」
今の自分に人名なんて思い浮かべることはできないだろう。心の喪失感に気付かないふりをして、曖昧に笑う。アンナは愉快そうに笑った。
「あら、私のネーミングセンスに賭けようっていうの」
「……やめた方がいい」
「ちょっと、どういう意味よ」
やっと言葉を発したウィリアムの言葉にアンナはわざとらしく頬を膨らませて抗議する。そしてまたにっこりと笑って少女を見る。
「エリーっていうのはどう?」
ウィリアムは黙ってアンナに視線を移した。少女はこくりと頷く。名前を考えてくれたことで、少女は少し自分自身が安定したような気がした。
「ありがとうございます。……とても、いい名前だと思います」
じゃあ決まりね、と笑うアンナに、エリーもまた嬉しそうに笑った。
こうしてエリーと名付けられた記憶喪失の少女と、無愛想で柄の悪い男の同居生活が始まったのだった。
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