夜明けの続唱歌

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暁月

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 雨の気配はなかった。
 薄雲が流れ、合間に星は見えているものの、沼の近くはすすけたように不気味な仄暗ほのぐらさをたたえている。
 アダムの隣に立つメルニは、闇に白く浮かびあがって見えた。透けるような肌の白さだけでなく、白い衣服を身に着けているためだ。その横顔から、表情をうかがい知ることはできない。小川のそばでは昨日と同じように火をおこしているが、そこからは離れ、沼の近くで肩を並べている。
「アダムさんが、泱街オーペムガーナのためにここまでされるのは、どうして?」
 黒い沼のほうを向いたまま、メルニが呟く。ほかには誰もいない。にごりない声は、耳のすぐ近くで聞こえたような気がした。
「やりかけたことだ。最後まで、私がやるべきことだと感じた。それだけさ」
 実際、なんのためにとは考えていない。昨夜、一匹の蛾が焚火に飛びこむとき、なにか耳に触れた。うまく説明することはできないが、それが理由のひとつに数えられることは確かだ。だが、それを言ったところでわかってはもらえないだろう、とアダムは思った。
 アダムはときどき、そういった言葉に呼ばれた。
 風の吹く音、枝の擦れ合う音、地鳴り、海鳴り、鳥の声や虫の。それらは決して雄弁ではないが、なにかを伝えようとしている、と感じることがある。単なる思い過ごしなら、次からは耳を貸さない。いつもそのつもりで聞いていたが、そうはならなかった。
 アダムだけが聞こえる『こえ』。それを、ことさら他人にわかってもらおうとは思わない。いつからか、思わなくなったのだ。自分にしか聞こえないのであれば、自分が耳を貸すほかはない。アダムは、そう考えるようにしていた。
「それより、すまない。結局、君におとりを頼むことになってしまったな」
「これは最後まで、あたしがやるべきこと。それだけ、です」
 先のアダムの答えを真似て言い、メルニが小さく笑った。か弱く見えるが、はらは据わっている。芯は意外にしっかりしているのかもしれない。
 沼をぐるりと取り囲む木々の外側、昨夜フロスマヌドゥカの群れを目撃したあたりに並んで立っている。いまのところ、現れる様子はない。昼間の作業で手を加えた周囲の異変を察知し、警戒している可能性はある。だとすれば、今夜は穴ぐらに閉じこもって出てこないかもしれない。根競こんくらべのようなものだ。
 陽暮れ前に、川魚と山菜を煮こんだもので夕餉ゆうげを簡単に済ませておいたので、あとは待つだけだった。
 それから三刻(約一時間半)近く待ったが、森に変化はなかった。遠く、一定の調子でふくろうの、笛のような声が眠気を誘うばかりである。
「喉が渇いたな」
 焚火に戻り、一度沸かしておいた湯を二人で飲んだ。風にさらされ、湯はすっかり冷めている。
 火のそばの丸石に腰をおろし、星空に眼をやる。これから寒くなれば、星はより輝きを増す。そのころ、自分はどこでこの星を見あげているのだろうか。今回の北西へ向けた旅は、ずっと遠くの地を踏むまで続くだろう。漠然とだが、アダムはそう感じていた。
 眼を閉じる。小川のせせらぎだけが、しばし夜を満たす。雨で増水していた流れは、本来の穏やかさを取り戻しているようだ。しばらく、そのままじっとしていた。
 翅音はおと。眼を開くと、無数のが周囲を舞っていた。昨夜の情景と重なる。妖魔ようまが近くまで来ているのだ、とアダムは思った。
 ほどなく、あの耳障りな溝鼠どぶねずみ濁声だみごえが聞こえはじめた。
 メルニと視線がぶつかり、確かめるように同時にうなずいていた。慎重な足取りで、メルニが一人で沼に近づいていく。状況が動きはじめた。ここまでは、あらかじめ決めておいた手筈てはず通りだ。
 メルニの白い背が、ゆっくりと遠ざかる。アダムは腰帯に挿した白杖をいま一度確かめ、泱街の狩人に借りた弓矢を手にした。
 月が出ている。離れたこの位置からでも、木立の向こうの沼の様子をわずかに見ることができた。
 草木が揺れ動き、沼の一帯がざわつきはじめた。岩場のある、沼の奥の暗がりが揺れ動く。もう少し。アダムは手が動きそうになるのをこらえた。彼女に危険がおよぶようなら、それ以上は待てない。だが、まだだ。沼は広く、向こう岸とメルニの立つ場所はかなり離れている。
 じゅるじゅると泥濘でいねいになにか引き摺る音がして、沼のふちあたりで大きな影が揺れ動いた。まだ早い。あと少しだ。
 沼の両側の樹木。狙うのは、その二本の精地檜せいちひのきの樹間、中央だ。そこに設置した標的は闇でまったく見えないが、立つ場所を決め、明るいうちに弓を構えてからだに覚えさせている。調達できた火矢は十矢。多くは外せない。
 白い影が動いた。メルニが草地を分け入り、沼の淵近くまで歩み寄ったのだ。灌木かんぼくの向こうを覗きこむように、身を乗り出している。
 沼の向こう側の淵までは間違いなく、親玉が出てきている。メルニはこちら側の淵に自分の姿をさらすことで、親玉を沼の中央までおびき出そうとしているのだ。そこまでするようには言っていない。危険だ。だが、それだけ確実な方法でもあった。
 子供の泣き声が響く。はっきりと聞こえた。今度はフロスマヌドゥカが、誘いをかけてきているのだ。だが、やはり泣き声はどこか無機質で、アダムには子供そのものの気配が感じられなかった。繰り返し闇にこだまする、感情を削ぎ落としたような子供の泣き声は、それだけでひどく気味の悪いものだった。
 メルニの様子を見た。頭では理解していても、幻惑されないとは言い切れない。相手は単なる獣ではなく、妖魔だ。
 い摺るように、じわじわと大きな影が沼の中央まで出てきた。アダムの立つ場所からはその全貌は確認できないが、まるで動く巨木だ。やはり、見あげるほどの大きさである。離れたところからでも、それはよくわかった。
 これですべてが揃った。
 アダムは黒い沼を見据えたまま、焚火にやじり近くを触れさせ、炎を移した矢を弓につがえた。
 矢先の炎が、アダムの視界を塞ぐように揺らめく。引き絞り、呼吸にしてふたつ。迷いはなかった。鋭利な炎が風を切る。放たれた火矢は、狙い通り樹間の仕掛けに突き立った。すぐに仕掛けが燃えあがり、ひとつめの松明たいまつに火が入る。そこからは油を染みこませた縄を伝い、次々に火が移る。縄は枯れた蔓草つるくさをほぐして緩めにってあるので、火のまわりは速い。沼を囲むようにめぐらせた十二の松明に、瞬く間に火が灯っていった。
 夜闇を選んで動きまわるということは光を嫌うのだ、と見当をつけた。松明の灯りに殺傷能力はないが、わずかに動きを止めることくらいはできるはずだ。
 松明の灯りに包まれた沼の中央に、巨大なフロスマヌドゥカの姿が照らし出されていた。伸び出た太い蔓の先には、すすり泣く子供の姿。灯りのなかで見れば細部が曖昧で、出来損ないの擬似餌ぎじえだ。
 三十の群れは頭部の花を閉じて鳴くのをやめ、沼地のそこここで縮こまって動きを止めている。やはり、光に弱い。
 メルニは、すでに沼から離れていた。囮が必要なのはここまでだ。あとは、商館で待つシュルグのもとへ駆けることになっている。
 駆け去るメルニの白影を確認し、アダムは二本目の火矢を放った。こちらに意識を向けさせる。巣穴に逃げられるのも防がなければならない。三本目を放ち、それを追うように一気に沼に駆け寄る。二本の火矢は、もだえるように躰を揺する妖魔に突き立っていた。
 火明かりを浴びて閉じていた、親玉の花弁がゆっくりと開いていく。開いた花の中央に、うごめく太い芋虫のようなものが突き出ており、その先端では、小さな歯の並んだ口が開いたり閉じたりしている。そのたびに芋虫の口もとで透明な粘液が糸を引き、妖しく光る。
 三十の群れも、徐々に騒ぎはじめた。波打つように溝鼠の声が大きくなる。大群でアダムを迎え討つ、という姿勢だった。小賢しいが、小さなものは非力だ。親玉さえ仕留めれば、あとはそれほど策を必要としない。そのはずだ。
 沼を取り囲む松明の灯りが揺れる。炎を伝える役割を果たした縒り縄は、焼け切れて沼に落ちた。まだ燃えているものもあるが、すぐに消えるだろう。
 アダムは矢筒から抜いた四本目の矢を近くの松明に触れさせ、沼の淵からフロスマヌドゥカに撃ちこんだ。が、鞭のようにしなる蔓が唸り、火矢が叩き落された。見えているのか。先に躰に突き立てた矢も、やはり沼に落とされて火は消えた。
 振りおろされてきた長い蔓を転がってかわし、片膝立ちで起きあがると、アダムは矢の持ち方を変え、二矢を連続して放った。
 矢は松明の火を移し、仕掛けに突き立つ。仕掛けが焼け、地に繋がれた縄が勢いよく切れた。背の高い精地檜に吊りあげておいた板が、がらがらと大きな音をたてて散らばり、沼に落ちる。檜の先端を外側に曲げて引っ張っていたので、それが戻る反動によって、板のいくつかは沼の中央まで飛んだ。仕掛けの二箇所が、うまく動いた。
 同じ仕掛けが、あと二箇所ある。矢筒に残るは四矢。充分な長さの縄を縒ることができれば、松明と一緒にすべての仕掛けに火を渡すこともできたはずだ。それは、思っても仕方のないことだった。個別に作動させるしかない。そのおかげで、ある程度は狙いもつけられるのだ。状況を、最大限に活かす。そのためには、機を逃さないことが重要だ。
 散らばった板は、造船のために泱街に貯蔵されていたものだ。数年をかけて乾かされた板は、沼の表面に貼りつくようにして広がっていた。群れの十数体は、落ちた板の下敷きになったようだ。それは意図していなかったが、手間がはぶけた。
 闇を裂く、けたたましい鳴き声。親玉が躰を揺すっている。馬が首を振りいななく姿に似ていた。
 対峙して見れば、もとは鼠の類であるはずの躰も、かなりの大きさだった。それは巨熊が立ちあがっているほどで、その頭部にはやはり大きな花が開いている。花の中央にある芋虫のような口だけでも、人の頭を丸呑みにするほどの大きさがあり、さすがに圧倒してくるものがあった。アダムの背丈の、倍ほどもあるのだ。
 また続けて、二矢を放った。もうひとつ仕掛けが動き、沼に木板が落ちる。巨体のフロスマヌドゥカにも、いくつかの板がまともにあたった。うめきのようなこもった声をあげながら、躰を動かしている。
 地の底から湧くような低い唸り。泥に汚れた体毛に覆われた、大鼠の下腹が痙攣けいれんするように脈打っていることに気づいた。なにか来る。アダムは踏みこみかけた躰を抑えるため、足の指で地を掴むように力をこめた。
 肥えた鼠の腹がうねる。とっさに躰を捻り、横に跳んでいた。すぐ近くにびちゃびちゃと粘液が落ち、次の瞬間にはそこの土が、じゅっと煙をあげた。フロスマヌドゥカが、花の中央からなにか吐き出したのだ。浴びれば、おそらく火傷やけどを負う。泱街の男衆の火傷痕は、この粘液を浴びたものだったのだろう。
 横に移動しながら、残るひとつの仕掛けに矢を放つ。一矢は、的を外した。続けて放った二矢目は、蔓で叩き落とされた。手持ちの十矢が尽きた。
 えるような声をあげ、また長い蔓が唸る。右。アダムは身構えたが、振られた鞭が払ったのは、沼を囲う松明のひとつだった。落ちた松明は沼に逆さまに突き立ち、先端の火はすぐに消えた。
 灯をすべて消される前に終わらせなければ。アダムは姿勢を低くし、機を読もうとした。
 周囲の群れは沼を泳ぐようにして、アダムににじり寄ってくる。数は多いが遅く、力も弱い。構いはしなかった。
 弓と、空の矢筒を地に放る。沼の淵に立ち、いまの間合いを保ったままでは、蔓と粘液の攻撃に晒され続けることになる。あとは親玉のふところに潜りこむ、それしかない。はじめから攻撃を矢に頼るつもりはなかったが、間合いに飛びこんで抜けることができるのか。賊と斬り合うわけではない。熊とも、狼とも違う。
 もうひとつ、注意すべきは爪である。躰の大きな親玉は、その鼠の躰にある爪も、大きなものだった。街の男たちの負傷も、あの爪によるものが大半だったのだ。肩のあたりを切り裂かれて腕のあがらない者や、背から脇腹にかけてえぐられた者など、傷痕を見ただけでもその鋭さはすぐにわかった。アダムが近づけば、爪による攻撃が飛んでくるだろう。
 開いた花の中央で、芋虫の姿をした口器がこちらを向く。鼠の尾の位置にある太い蔓が左右に大きく振られ、沼に打ちつけられるたび、泥が音をたてて飛び散った。
 睨み合いのような恰好かっこうだった。
 アダムは肚に力をこめ、気を発し続けた。群れは騒ぎ立てているが、気圧されたのか、ある間合いを保ったまま、怯えたようにアダムのそばまでは寄ってこない。
 機を読み続ける。フロスマヌドゥカ。全体としては鈍重だ。警戒心と、それを補う群れ。遠近ともに長けた攻撃手段、なによりその狡猾さで、ここまで肥大化することができたのだろう。
 妖魔を仕留めることに、アダムはわずかばかり逡巡しゅんじゅんしていた。妖魔がこの地に巣食う理由。それが思考の端にちらついている。
 だからといって、やらないわけにはいかない。妖魔は確実に、この地をせさせていく。その先に待つのは、土地の枯渇と死だ。
 アダムは構え、腰帯に挿した白杖に手をかけた。
 蔓。びゅうと風を切り、またひとつ松明が巻き落とされた。残る松明は十。
 陽炎かげろうのようにゆらゆらと、妖魔の全身を覆う植物が波打っている。それほど風があるわけではない。花の先、葉や蔓の先端までが妖魔の躰の一部なのだ。
 再び、鼠の腹が痙攣をはじめた。これも、灯りがなければわからないことだ。
 首を振るように口器が動いた瞬間、アダムは身をかがめて地を蹴った。沼に落とした船板を踏み、跳躍する。
 蒼白い一閃が、フロスマヌドゥカの懐をいだ。白杖。柄頭を掴み、刃を抜き放っていた。
 頭上から振りおろされた爪を寸前でかわし、右の板に跳ぶ。同じ板を踏み続ければ、アダムの体重で沼に沈みこんでしまう。動き続ける必要があった。
 右から背後にまわりこむように板から板へ跳び移る。しかし左奥の仕掛けは、的に矢があたらず地に繋がれた縄はそのままである。おまけに、右側は沼の淵まで渡るだけの板がない。跳んできた板をもう一度戻らなければ、岸は踏めないということだ。
 冷静に足場を測りながら、跳び続けた。風が鳴る。腕ほどもある太い蔓が飛んでくるたび身をかがめ、身を起こすと同時に跳躍する。振りまわされる蔓に、周囲の松明もひとつ、ふたつと打ち落とされていく。火の灯ったものが六本まで減ると、闇が息を吹き返してきたような感じがした。
 二十ほどに減った群れも、残る灯を消そうとしているのか、松明の備えてある木に群がりはじめている。
 フロスマヌドゥカは全身を覆う植物を引き摺り、アダムのほうを向こうとしていた。あの巨体が沼に沈まないのは、下腹のあたりに羊歯しだ植物の葉のようなものが広がっているからなのか。鼠の躰に足はあるが、ほとんど遣っている様子はない。
 周囲を跳びまわりながら踏みこむ機を見極めようとするアダムに、また尾のような蔓が振られる。上体を反らせてかわしたアダムの頬を、突風に似た風が叩き、額の汗が吹き飛んだ。蔓は蝿でも追い払うような大振りで、そこに隙が生じた。すぐさま躰を曲げ、板を蹴る。
 首。跳躍から斬りさげ、妖魔の躰を蹴る。抉るように白杖の柄をまわして、そこから斬りあげる。斬り口から汁が飛び散った。フロスマヌドゥカが頭部の花を揺すり、慟哭どうこくするように吼える。確かな手応えがあった。アダムは左に跳び、板を踏んで離れようとした。
 風音。左の蔓が、こちらに向かってくる。とっさに跳び移る板を変えたが、それが間違いだった。板が斜めに落ちていたらしく、アダムの体重が加わると、滑るように沼に沈みこんだ。体勢を崩し、後ろに倒れこむ。幸い、二枚の板が並んだ上に背を預ける恰好になり、沼に落ちたわけではなかった。だが不安定で、すぐに起きあがることはできない。体重を一点にかければ、板は沈む。
 呼吸が、乱れていた。躰も汗に濡れていた。駆け、跳び続けていたのだ。
 蔓が、繰り返し振りおろされてくる。アダムはそれを板に横たわったまま転がり、右、左とかわす。ずず、とこちらを向いた鼠の下腹が、震えはじめた。粘液を浴びせるつもりか。
 かわせるのか。左右の蔓。鞭のようにしなる尾の蔓。爪。そして粘液。アダムの思考は、めまぐるしく動いた。とにかく立たなければ、まともに粘液を浴びることになる。
 おぼつかない足場で、上体を起こすだけでもひと苦労だった。起こした背を冷たい汗が伝う。間に合わない。
 そう思った瞬間、沼に重い音が響いた。
 石が投げこまれる音。続けてふたつ。ひと呼吸遅れてまたふたつ。音からして、石は拳ほどの大きさのようだ。
 フロスマヌドゥカが沼の左奥を向きはじめた。音に敏感なのか。巨体を引き摺り、岸へ近づいていく。
 石は、沼に投げこまれ続けている。逃げろ。アダムが叫ぶような気持ちでそう思ったとき、音をたて、フロスマヌドゥカの頭上から板が降り注いだ。
 なにが起きたのか、すぐにはわからなかった。板が沼に落ちてくる。的に矢があたらず、そのままになっていた残りの仕掛け。地に繋いだ縄を直接切ることで、曲げていた檜の先端が離れ、板が飛び散ったのだ。
 二枚の板の上に慎重に身を起こし、片膝をつく。ぐらついているが左右の足で一枚ずつ中心を踏めば、どうにか立ちあがれそうだ。
 腐臭が鼻をいた。群れが慌ただしく声をあげている。松明は四つほどに減ったようだが、新たに落下した板に打たれ、群れもまた数を減らしていた。
 親玉。大きな背をこちらに向け、アダムから注意が逸れている。
 いましかない。重心を傾けないように慎重に立ちあがり、すぐに板を蹴った。
 後方から右まわりに駆け抜けざま、尾の位置にある蔓を断ち斬り、巨大な鼠の右脇をくぐる。闇雲に後方に振られた右の蔓を斬り払い、滑りこむように懐に入った。振られた爪を横薙ぎに斬り飛ばして払い除け、跳ぶ。覆い被さるように向かってきた芋虫の口器を、跳びながら斬りあげ、った花を踏んで蹴あがる。駆けあがった妖魔の頭頂で雄叫びをあげ、アダムは全体重を乗せて斬りさげた。
 深く、花を両断していた。左右に別れた花と口器の断面から、粘液が細かく飛びはじめる。
 すぐさま蹴りつけて跳び退ったが、追いすがるように振りまわされた左の蔓がアダムの脇腹を強く打った。宙で打たれてどうすることもできず、落ちて沼に背を叩きつけられる。
 息が詰まり、一瞬、視界が暗くなった。
 眼に映るひとつひとつの情景が、奇妙なほどにゆっくりとしたものに感じられる。泥が、軌跡を残しながら大粒の雨のように降り注いでくる。起きあがろうとするが、泥濘に手をつく場所もない。もがくほどに躰は沼に呑まれていく。あえぐように息をする。吸っても、ほとんどなにも入ってこないようだった。
 蛾。どこから現れたのか、おびただしい数の蛾の大群が、妖魔の巨体に群がりはじめていた。
 妖魔フロスマヌドゥカ。長く、尾を引くような雄叫びをあげ、沈んでいく。妖魔の群れとともに、まるで悪い夢から覚めるように、沼が地中に呑まれていく。
 アダムも、なぜかその流れにあらがえなかった。暗い誘惑の手が、背を引いているのだ。
 いつの間にか松明はすべて消え、あたりは薄く月明かりが照らすだけになっている。
 眼を閉じた。このまま呑まれてもいい、と思った。
 生きていることが、どうしようもなく空虚なもののように思えることがある。いつからなのか。故郷が焼け落ちるのを見た、あの日からなのか。本当にそうか。怯懦きょうだに眼を塞がれ、なにもできないままに、あの日を生きのびてしまったからではないのか。
 空虚さを抱えたまま生き続けることに、この甘美な誘いに抗うほどの意味があるのだろうか。
 また、蛾がアダムの耳をかすめた。
 樹が水を吸いあげる音が、耳元で聞こえる。大樹に耳を押しつけて聞くよりもさらに近く、大樹の内に抱かれて聞くようだった。
 泥沼に沈みこんだ背中が、途中で止まった。沼底に背がついたのだ。ひび割れたおけから抜ける水のように、泥だけが引いていく。眼を閉じていても、それがわかった。
 やがて森は静かになり、何事もない夜の気配が漂いはじめても、アダムは横たわったままじっとしていた。
 いっそ呑まれてしまえばよかったのだ、ともう一度アダムは思った。
 しかし、いつまで眼を閉じていても、闇に呑まれはしなかった。それも取り残されるように、生きる道を与えられたのだ。
 眼を開いた。息をしており、月の浮かぶ空に、雲は静かに流れ続けている。いつもと変わりない、夜の風景である。
 足音が聞こえた。寝そべったアダムに、白い影が駆け寄ってくる。
「どうして、街に帰らなかった?」
 仰向けに倒れこんだアダムは、空を見つめたまま訊いた。答えは返ってこない。
 アダムの眼を覗きこみ、メルニが不意に口を寄せてきた。流れ落ちてきたメルニの黒髪が、アダムの頬を撫でる。短く、控えめな唇。かすかに震えていた。
 そっと背を支えられ、上体を起こす。
 唇の意味を測りかねていたアダムに、メルニはしなやかな猫を思わせる仕草で黒髪を掻きあげ、はにかむように笑ってみせた。
 舞台におりた薄幕のような雲の向こうで、月は確かに輝いている。
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