夜明けの続唱歌

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 地が平らになるように、運ばれた土がならされていく。
 シュルグは、手の甲で額の汗を拭った。すでに、陽は中天に差しかかっている。
 盛り土をして埋めているのは、人喰いの妖魔ようまが現れた沼の跡である。
 奇妙なことに、ひと晩のうちに泥はすっかり干あがり、ひび割れた黒土の沼底があらわになっていた。それも、ここだけである。周辺の沼にはまだ水が残っており、泥の水溜りがあちこちに広がっている。
 干あがった沼の跡は地面がえぐれたようになっており、雨が降れば再び泥水を満たすことになるのは考えるまでもなかった。そこで、次の雨までにせめてここだけでも埋めよう、ということになったのだ。
 朝早くから、一人、二人と街の者たちが集まりはじめ、いつの間にか三十人ほどになった。妖魔による被害は、街全体に影を落とす、忌まわしい出来事だった。みながその現場を、そのままにしておきたくはなかった、ということなのかもしれない。
 ひと通り埋め終えると、次は街はずれから荷車を押した。
「私はいいから、向こうを手伝え」
 若い者が気を遣って代わろうとするが、シュルグは譲らなかった。ほかにもやることはあるが、あえて力のる作業を選んだ。
 荷車が地に食いこみ、足を取った。これくらいのことで、と思う。腰を入れて体勢を立て直す。
 汗が、眼に流れこんできた。立ち止まって拭うことはできるが、その姿を疲れて休んでいるものと見た若い者が、また声をかけてくるかもしれない、と思うとうとましかった。シュルグは汗のしみる右眼を閉じ、足は止めずに荷車を押し続けた。
 汗が吹き出てくる。精地大陸ルービンクォードの秋は、毎年こんな具合だ。明け方に涼風が吹いているかと思えば、躰を動かすうちに汗をかく。特に暑い日など、蒸し釜のようになる。そして夜更けには、また冷えこむのである。
 大陸北の海を渡れば、その先の国ではまた別の季節がめぐっている。シュルグも若いころは先頭に立って商船に乗りこみ、北にある大陸の地を何度も踏んだものだった。
 身振り手振りを交えて商いの取り決めをしたり、馬車を借り、いくらか内陸の村落まで荷を運んだ。船ではとんでもない嵐にい、猛竜の棲み家と呼ばれる島に流れ着いたこともある。
 四十をいくつか超えたあたりから、計画は練るのだがどうにも腰が重くなり、次第に若い者に任せるようになった。
 老いた。それは認めざるを得なかった。五十九である。だが、すべてをそのまま受け入れるつもりはない。だから、若い者と一緒になってからだを動かすのだ。気概では負けていない。それだけは譲りたくなかった。
 父は、魚を売り歩く商人だった。シュルグが幼いころは、朝早くから汗にまみれて駆けまわる父を、誇らしげに見ていたものだ。やがて父を手伝うようになり、港に出向いて漁師から買いつけるところにも立ち合うようになった。
 愕然とした。そこではじめて知ったのは、手にするのはわずかな運び値程度で、ひたすらに魚を配るばかりの父のあきないの実態だったのだ。何度か口論にもなったが、父には儲けようという気がまるでなく、家族が食っていければいい、とだけ考えているようなところがあった。
 それからというもの、シュルグは必死に鼻をかせるようになった。安く仕入れる方法を考え、動きが悪ければ売り方を変え、とにかく利を生むものを嗅ぎ分けようとした。父の仕事をそのまま継ぐのは、どうしても受け入れがたいことだったのだ。
 そんな父が死んだのは、シュルグが十五のときである。
 思えば、あの父がいたからこそ、いまの自分があるのだ。父がやってきた益のない商いを、自分が変えなくてはならないと心に決め、水売りをはじめてからは寝る間も惜しんで働いた。
 商いをする連中から、シュルグと呼ばれるようになったのは確かそのころだ。精地せいちの古い言葉で『地をうもの』を意味するその名は、もともとのシュルグの一族の名にも似ていた。調べたことはないが、意味も似たようなものなのかもしれない。呼ばれて、悪い気はしなかった。無益に駆けまわってばかりいた父とは違い、自分はひとつずつ吟味をしながら這いまわる。そこに誰もが見落としたような利が潜んでいたりするのだ。そのときのシュルグにしてみれば、いかにも自分に相応しい呼び名のような気がして、すぐに愛着が湧いた。
 水売りをおもな商いとして、さらに多方に手を伸ばしはじめたころ、あまりに無理が続いたせいか、血の混じった小便をしたことがあった。
 それからしばしば療養所の世話になるようになり、そこでシュルグの父が、子供のころ病がちで、はじめは世話になった人たちへの恩返しのつもりで魚を配りはじめたのだ、ということを知った。
 知らずに父のやり方に反発した日々が、いまでも昨日のことのように鮮やかに蘇る。懐かしく、青く、苦い。
 過ぎ去ってしまったなにもかもが、すべて若さだったのだ、とシュルグは思った。
 荷車に満載した苗木が、陽を浴びて輝いている。受け取りに来た者に渡し、シュルグもいくつか手に取った。同じような荷車が、盛り土のそばにいくつも並んでいる。手に取った苗木なえぎ瑞々みずみずしく、どれも柔らかな若葉をつけていた。
 人は食わずして、どれほど生きられるものなのか。
 船旅が長引いたときも、飲み水さえあれば何日かは生きられる。だがそれも、状況次第という側面を持っている。気力。やはり最後には、それが左右するのではないか。
 妖魔の一件で行方不明となっていた者が、一人だけ見つかった。おとりを買って出たメルニ・ロマナの、姉である。
 アダム・シデンスが妖魔をほうむったあと、明るくなる前から衛兵が総出で捜索をはじめた。この一帯をくまなく捜し、妖魔が巣穴としていたと見られる、岩場の亀裂の内部で発見したらしい。
 行方がわからなくなってから、八日が経っていた。衣服は乱れ、ひどく衰弱してはいたが、生きていたのである。
 洞穴の奥で、横穴を塞ぐように石が積みあげられていたらしい。隙をいて逃げこみ、みずから出口を塞いだのだろう。妖魔は毎夜続けて腹を満たしていたので、メルニの姉が隠れてもそれほど執着しなかったのかもしれない。おそらくは、新たな獲物を得るほうに意識が向いていたのだ、というのがアダムの見立てだった。
 一人がやっと横になれるような空間に、メルニの姉は横たわっていたという。発見が遅れていれば、そのまま命を落としていてもおかしくはなかった。
 盛り土をした真中あたりに、アダムとメルニの姿があった。
「よう、姉貴のそばにいてやらなくていいのか、メルニちゃん」
「少しだけ話せました。いまは眠っているので、ここを少し手伝ったらまた様子を見に行きます」
 メルニは答えて笑みを見せた。彼女の姉は救出後、すぐに衛兵の詰所に隣接する療養所に運びこまれた。そこには、このところ負傷者の手当のために十数人の者が交代で常駐しており、メルニの姉はもう心配のいらない状態になったのだろう。あとはとにかく休み、なにか食うことだ。
 アダムが、大きめの苗木を植えている。邪魔になるらしく、肩にかかる髪は後ろで緩く束ねてあった。動くたびに、左耳の青い耳飾りが揺れている。出会ったころから、アダムの耳で揺れていたものだ。
「さっき連絡があったぞ、アダム。到着待ちの積荷があるらしくてな、荷役にやくにあと四日で、出航は五日後だそうだ」
 言って、シュルグは笑いかけた。うなずき、アダムも笑みを返してくる。
 北の大陸へ渡る商船への同乗。それがアダムの求めた妖魔退治の報酬だった。用意した銭など、受け取らなかった。代わりに、一番美味い麦酒を開けてくれ、と言っただけである。
 手分けして、沼のあった場所に苗を植えていく。植えたあとは、まだ柔らかいまわりの土を被せる。
 千年、二千年を生きるといわれる大樹の苗。根が張れば、大雨が降ってもここらの土は流れにくくなるはずだ。それまでは繰り返し、手をかける必要があるだろう。
 次の苗木を持って戻ったとき、作業の手を動かしながら喋るメルニが、心なしかアダムに肩を寄せるようにしていることに気づいた。白い頬が朱に色づき、なんとなく表情も声も明るい。姉が見つかったからだとばかり思っていたが、それだけが理由ではなさそうだ、とシュルグは思った。邪魔をしているような気がしながらも、シュルグは苗木を植える場所に腰をおろした。いまさら離れるのも、あまりに不自然である。
「アダムさん、蛇を焼いて食べてましたよね」
「なかなかの味だったよ」
「祖母は、蛇は永遠に生きるものだ、とよく言っていましたよ」
「ほう、それなら私の腹のなかで、まだ生きているってことだな」
 アダムが自分の腹に眼をやって驚いてみせ、すぐに笑った。
 昔の人間ほど、そう信じていたようだ。シュルグも聞いたことがあり、幼いころは信じていたような気もする。
 蛇は古い皮を脱ぎ、新たな姿になる。生まれ変わる。その行為が、永遠の環を繋いでいると考えられていたのだ。
魂魄こんぱくというものを聞いたことは?」
 アダムがメルニにいた。シュルグにも訊いたのかもしれないが、聞き覚えのない言葉だった。メルニがかすかに首を振っている。
「命を支えているもの、だそうだ。死ぬと、魂は黒月晶こくげっしょうの森へす。魄は肉体を支えるもので、魂と別れて地に帰す。私が訪れた多くの場所で、そう伝わっていた。最初に聞いたのは、どこだったかな。もうずいぶん昔のことで、忘れてしまったが」
 黒月晶の森。死者を渡す、月の舟が着く岸がある、といわれる場所だ。誰にとっても、遠く、そして近くにある場所。死とは、そういうものだ。身近にあり、必ず訪れるのに、どこかで自分とは無縁のものとして人は生きている。
 アダムほどではないが、シュルグも商いのためにさまざまな土地に足を運んだ。行く先々で人の死に触れることもあった。不思議なのは、どこへ行っても魂というものに対する考え方がほとんど変わらなかった、ということだ。死ねば、躰から命の塊のようなものが抜ける。言葉は違っても、そんなふうに魂に代わる似通った思想があるのだ。
「蛇も、ですか、アダムさん?」
「馬も羊も、魚なんかもみんなだ。だけど妖魔や、妖魔に喰われた者の魂魄は、どうなるのだろうな。それは、聞いたことがない」
 風が吹く。腐臭はもうしなかった。晴れが続いてほかの水溜りも干あがったら、ここと同じように埋めて、木を植えるのがいいかもしれない、とシュルグは思った。
「それにしてもおまえさん、よく引き受けてくれたな」
「シュルグの旦那。商いの駆け引きで養われた辣腕らつわんを振るわれては、敵いませんよ。はじめから断らせる気など、なかったでしょう」
「そんなつもりはなかったが、結果としてそうだったかもしれん」
「ほら、それだ。責めようもない」
 アダムとメルニが、同時に声をあげて笑った。シュルグも、つられて笑う。渇いた喉にたんが絡み、シュルグは低く咳払いをした。
「なんにせよ、おかげで助かった。これで泱街オーペムガーナの住民も安心して生活できるだろう。もう一度礼を言うぞ、アダム」
 シュルグが言うと、うなずくアダムの表情にあるかなきかの微妙な動きがあった。
 苗を植え終えて立ちあがった。方々では、まだ作業が続けられている。メルニはうずくまって、小さな板になにか彫りつけているようだ。
「考えたことはありますか。彼らがなぜ妖魔となるか」
「いや」
「川のようなものだと思うのです、私は」
「川?」
「民の心のありようというものは、そばを流れる川にうつる。清浄か、汚濁か。そしてそれは、彼らにも同じことがいえるのではないかと」
「その土地の、民の心が妖魔を生むということか?」
 堕落した妖精が、妖魔になる。それは魂に対する考え方のようにあらゆる地域で、古くから伝わっていることだった。
 得体の知れない化物として、みな心のどこかで妖魔を怖れてはいる。しかしなぜ堕落するのか、というところまで踏みこんで考える者がいるだろうか。少なくとも、シュルグは考えたこともなかった。
「たとえ退治できたとしても、また、いつ現れるとも知れない。それが妖魔です」
 言って、アダムがかすかに眼を伏せた。
 いたずらに不安をあおるようなことを口にする男ではない。妖魔がみつく地域にはそれなりの原因、なんらかの理由があり、それを断たなければ、ひとたび妖魔を始末したところでまた次が現れる。民を映す川のように、流れをにごらせたままではそれを繰り返すことになる、とアダムは考えているようだ。
 しかし、ただ日々を生きることに心を砕き、そのために汗を流すばかりの民に、一体なにができるというのか。
「なあ、アダム。これから街の者は、どうしたらいい。確かに、心根の真直ぐな者ばかりだとはいえないが、なにを改め、どう生きればいいと思う?」
 試しに訊くと、アダムが考える表情をした。遠くを見るような、淋しげな眼。しばしの沈黙に、うつむいていたメルニも顔をあげる。
「一概に、みながどう生きるか、とは言えない。それぞれ胸にある正しさも違うはず。その問いに答えられるのなら、各地をめぐる私の旅も、いまごろはもっと意味のあるものになっているだろう、と思います」
 アダムが、自嘲気味にふっと息を吐く。不意に、はじめて会ったころのことを、シュルグは思い出した。
 夜の浜に腰をおろし、酒をみ交わしながら、海に揺れる月を見ていた。あれは春に向かう時季だったか、それとも冬に向かっていたのか。肌寒かったことは、なんとなく覚えている。
 あのときアダムは、戦の絶えない地の民の生き方を変えたい、と言った。
 二人とも少々酒を過ごしていたこともあり、最初はそれが本気だとは思わなかった。だが、アダムにとってそれは酒席の戯言ざれごとでもなければ、壮大な夢物語などでもなかった。話を重ねるうちに、親が、道を違えた我が子をもとの道に戻してやりたいとでもいうように、なにか切実なものを含んでいるのだ、と肌で感じるようになっていった。
 人を変える。相手が一人でも、簡単なことではない。
「それなら、商いのことでもなんでもいい。私が、個人的になにかできることはあるだろうか?」
 年齢的にも、泱街である程度の立場というものがある。シュルグの下で働いている者も少なくない。若い者に、なにか伝えていくことはできるはずだ。
 また、わずかな沈黙。アダムの澄んだ眼が、ゆっくりとシュルグを見つめ返してきた。
精地大陸ルービンクォードの『地を這うものシュルグ』は、水を呼ぶ蛇だけでいい」
 諭すようなアダムのひと言で、シュルグは自分の顔がいくらか強張るのを感じた。
「蛇が竜を真似て、金を蓄える必要はない、と私は思う。もし過ぎた金儲けに手を出しているのであれば、手を引くべきだ、シュルグの旦那。これは友として、一度だけ言っておくよ」
 突然、胸の深いところを衝かれたようだった。
 北辺で密かに進めている、砂金の採掘のことをアダムが知るはずはない。だが、言いあてられたようなものだ。そのうえで、もともとシュルグが生業なりわいとしてきた水売りとして生きればいい、とアダムは言っている。
 次なる事業。街の出来事や取り決めなどを、素早く街の隅々まで報せるための仕組みと、新たな組織。砂金は、そのための元手となる資金だと思い定めてきた。泱街のためにもなることは確かだ。しかしそれは口実に過ぎず、実のところ、自分は私腹を肥やそうとしていたのではないか、とシュルグは思った。
 金で肥やそうというのではない。密かに練りあげた事業を、街が蓄えている資金などはあてにせず、自分の采配さいはいで思うようなかたちにする。商いでは、充分に身を立てた。その自分が、いま一度人生というものの最後に打ち立てる、大仕事。つまりはそれこそが、シュルグの心を満たすのである。
 それは本当に、街のためなのか。自分はただ、街の者たちに老いぼれてはいないと知らしめるために、この血をたぎらせているのではないのか。
 確かに、いささか行き過ぎた採掘をしていることは否定できない。無理押しをして、ごく限られた人数での作業を急がせ、妨げる木々を次々に伐り倒し、縦横に地を抉り、掘り出した不要な石塊いしくれなどを海に放りこんで捨てさせている。思えばそれらの行為は、人を喰らい、沼を広げて土地を痩せさせていたあの妖魔と、どれほど違うというのか。
 シュルグは、自分でも見えていなかった、はらの一番底に隠れていたものを射抜かれて、言葉を失っていた。
 アダムの眼を見る。深く、静かな眼。瞬き。友を見る眼だ、と思った。シュルグは、その眼を真直ぐ見つめ返し、深くうなずいていた。
 これから、変えなければならないことができた。
 物が動き続けることで、そこに利が生まれる。商いというものは、作る者と売る者、そして購《あがな》う者が、それぞれに利を得るべきものなのだ。自分だけが、ひたすらに利を求めて動く。それはもう、やめるべきなのかもしれない。
 シュルグは自分の植えた苗を見ながら、それを確かめるような気分になっていた。
 メルニが、アダムの植えた苗木のそばに板を立てる。『アダムの樹』と彫られた文字が、シュルグのところからも見えた。
 ちらりとそれに眼をくれたアダムは、笑いかけるメルニに、ちょっと肩をすくめてみせていた。
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