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雨潦
一
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また一人、息を引き取った。
見開いた眼に涙を浮かべ、最期になにか言おうとしていた。恨みや後悔、あるいは感謝か。それともまったく別のことだったのか。いまとなっては確かめようもない。聞き取ろうと寄せた耳を打ったのは、死にゆく者の熱い吐息だけだった。
そっと、指先で死者の瞼を閉じる。ほかにできることはなかった。
「いま一度、原理を司る神々と、我が槍に誓う。最後の一人になっても、故国に生きた民のために戦うと」
口惜しさを噛み殺して言い、ルネル・グゼイブは腰をあげた。
岩壁に口を開けた洞穴のなかである。身動ぎに応えて小さな火明かりが明滅し、壁に映る影が、沈む場を掻き乱すようにして激しく揺れた。
「ルネル様」
「大丈夫。ほかのみんなは、少し眠らせてやって」
従者が、一礼してさがった。ルネルも、遺体を残して表へ出る。
夜更けである。静かで、近くには獣の動きまわる気配も感じられない。夜明けまで、まだ八刻(約四時間)ほどはあるだろう。
平らな岩場の端に立ち、ルネルは深い溜息をついた。生温い風が頬を撫で、後ろで束ねあげた髪を揺らしている。
眼下には森が広がっていた。立っているのは岩山の崖のような場所で、夜闇に覆われた黒い森の向こう、空の低い位置に、月が紅く見えた。鋭い刃物で斬りつけた傷口のように細く、なんとなく気味の悪い色だ、とルネルは思った。
手にした槍が、小刻みに震えている。従者の前で平静を装ってみたところで、胸の内まで騙せはしない。ルネルは下唇を噛み、槍の柄頭で一度、強く地を打った。衝撃に遅れて、柄を握る掌が痺れるように痛む。そこから、不甲斐なさが滲み出してくるようだった。痛み。それを感じるのは、生きているということだ。それ自体が、いまは拭えぬ惨痛の色で染まっている。
炳辣国北東部のはずれに、小国があった。
孟国。そこでは代々、王家の血に連なる年長者が『孟王』と呼ばれる王となり、民は農耕と、牛を飼うなどして平穏に暮らしていた。雨季が土地を肥えさせるため作物はよく育ち、牛もまた、乳や労働力など得られるものが数多くあり、さまざまなことに役立てられていた。
ルネルが生まれるずっと前、先々代の孟王のころより、孟国は炳都に属するようになったという。炳都は、炳辣国中央の王都とされる、大きな都である。孟王は、その庇護のもとにある地方領主のあつかいを受けている、という立場にあった。
しかし実際のところ、日々の暮らしのなかで炳都の影響を感じることは、ほとんどなかった。孟国は中央から遠く離れた辺境にあり、そのうえ原理神教の信徒にとっての炳都という場所は、信仰の中心地としての意味合いのほうが強かったのだ。ルネルの知るかぎり、中央に決まったものを納めてさえいれば、口煩くなにかを言ってくる、ということもなかったようだ。
炳都の庇護というものがどの程度のものだったのか、ルネルは知らない。実感としてあるのは、辺境において孟王は紛れもなく王であり、小さくともそこは確かにひとつの国だった、ということだ。
そして王家も臣も民も、みなが原理神教の教えを心に刻みこみ、その教義に忠実に生きていた。そのはずだ。少なくとも、ルネルはそうだった。
ルネルは孟王の娘、つまり孟国の王女であった。今年で二十四になる。それがいまは、夜に包まれた岩山で、汗と土埃にまみれていた。
なぜ、と思う。思うたび、原理の神々に問うような気持ちになる。これが、自分の生まれ持った宿業なのか。物心つくより早く、教えに従うように育てられていた。その教えに背いたことが、一度でもあっただろうか。
疑念を抱えて問い詰めるようになる前に、問いかけることをやめた。原理の神々を疑い、問い詰めるなど、あってはならないことだ。ほとんど反射的に、ルネルの思考はいつも身を引くようにして、そこから離れていた。
「原理の神々よ。どうか宿業を払い、みなが救われますように」
手を合わせて指を組み、口に出して祈る。
槍を抱くような恰好で少しの間そのままじっとしていたが、肌を湿らせるような生温い風はやまなかった。暑季もなかばで、夜が更けてもあまり涼しくはならない。
眼を開き、槍を執った。演舞の前の肩慣らしのように、緩慢な動作で手首を返し、槍を振りまわす。はじめは護身のために棒術の型を学んでいたが、槍に持ち替えて鍛えあげた技には自信があった。いまでは特に意識をせずとも、躰が流れるように型をたどっていく。
型と型を繋ぐ。隙のない構え、突き、薙ぎ払い。足運びで悟られないように身を引き、相手の隙を誘う。脇を締め、すかさずの突き。上段を装い、下段を狙う。身を返し、後方に向けて槍を構える。
槍と同じ長さの棒を用いた稽古では、槍の遣い手である兵長にも負けなかった。雑兵三人を同時に相手にしても、打ちこませないだけの腕は持っているつもりだ。
しかし、それがどれほど意味のあることだというのか。執拗にまとわりつくこの風を追い払おうと槍を構えても、本当には突き破れはしない。それと同じように、どれだけ技を磨いたところで、自分一人の技や自信など、なんの役にも立たないものなのだ、とルネルは思った。そのことを理屈ではなく、身をもって知ったのである。
ふた月前、孟王城が攻められた。
平穏な国でも、有事に備えて兵は抱えていた。しかし厳しい調練など積んでおらず、敵との差はいわゆる大人と子供であった。
敵の糧道を断つために、城外で動いていた者たちとの連携はあっさりと乱され、城を取り囲まれた。敵勢の構えはすぐに攻城戦の様相となり、城内は守りに徹する以外、道がなくなった。
城門は堅く閉ざし、ルネルの父である孟王は火攻めを警戒して、燃えやすいものを城壁から棄てさせた。
長くは保たない。それは、誰の眼にも明らかであった。こちらには策もなく、三倍以上の兵力で絞めあげられたのだ。
寡兵総員で城壁から雨のように矢を射かけ、わずかに拮抗する場面もあるにはあったが、やがて水源を断たれ、やはり攻められてから十日と保たなかった。こちらの矢が尽きると城壁には敵が押し寄せ、閉ざしていた城門が破られ、兵も民も、あっという間に斬り捨てられていった。そこで討たれた者は、もはや数え切れない。
突如として攻めてきたのは、西域の荒地に城を構える隣国、蕘皙国の者たちである。
彼らは孟国とは異なり、炳都にも属さない、荒くれ者の集団だと聞かされていた。現れた敵の多くは白い駱駝に跨り、手には弓と幅広の剣。頭に朱色の布を巻きつけており、陽に灼けた樹皮のような灰褐色の肌と、ぎょろりとした眼の光が暗い、いかにも頑強そうな男たちだった。
ついに王の広間の前庭まで攻めこまれ、決して退かぬと剣を執った叔父に続き、孟王である父が討たれた。この眼で見届けたわけではない。見えたのは、父が敵とぶつかるところまでだった。
故国の滅び。野太い声をあげ、勝利に湧く敵。そのとき、ルネルは王家が抱えてきた隠術師たちの判断により、枯れ井戸の抜け道から強引に連れ出されていた。
すべては、王家の血筋を残すため。それが英断だったといえるのか、ルネルにはわからない。自分が生きのびたところで、城は攻め落とされたのだ。
足場の悪い闇を掻き分けるようにして、抜け道を進んだ。口を開く者はおらず、湿った暗闇に荒い息遣いだけが重なる。腕を引かれ、背を押されて進むルネルの耳には、惨状を伝える叫びや地響きが、次第に遠くなりながらも、絶えず届いていた。
闇のなかで聞いた叫び声は、あれからずっと耳を離れない。いまでも振り返ると、すぐそこに抜け出た黒い穴があり、死んでいった者たちの苦悶の形相が並んでいるような気がしていた。
結局、城内にいた者で、ルネルとともに離脱を果たしたのは十人に満たなかった。
抜け道を出て最初の晩、闇のなかで肩を寄せ合い祈った。みなが信じる原理の神々に。すべてを原理の神々に任せ、与えられた試練をみずからの宿業と受け入れる。そして力を合わせて生き抜くのだと。祈り。それ以外に、できることはなにもなかった。いつまでも躰が慄え続けていて、空腹や渇きすら感じなかった。
それから南北に連なる東方の山伝いに、北へ北へと移動を続けた。中央の炳都に向かい、いまこそ正式に庇護を受けるべきだと誰もが考えたが、王都へ向かう南の道は、すでに敵によって塞がれていたのだ。
隠術師たちが斥候を兼ねて方々に走り、散っていた生き残りの民が、少しずつルネルのもとに集まりはじめた。
城は落ち、孟王は討たれた。それでも故国の王女が生きている。それが民にとって意味のあることなのか、ルネルにはやはりわからなかった。なすすべもなく、ただ生き残った。王女であっても、それは民と変わりない。
虚しさを押し止め、駆けつけた民の手を取り、一人ずつ眼を見て言葉をかけた。感極まり、嗚咽混じりに原理の神々への感謝の言葉を口にする民。それでも、王家の血がなんだというのだ、という思いをルネルは拭いきれなかった。
集まったのは兵だけでなく、民も合わせて五十六人。怪我を負い、小さな集落に身を寄せている者もいるらしく、人を通じて居場所を知ることができた者を含めても、総勢で百名に満たない。あまりにも少ない生き残りだった。
ひと月近く歩き続け、たどり着いた北部の岩山に、みなで身を潜めた。いまはこの岩山が、民にとっての城である。留まりはじめてすでに二十日以上が経つが、傷が癒えずに死ぬ者が続き、四十八人まで数を減らしていた。持病のある者への薬草も足りず、病に精通する者もまたいなかった。
落ちのびて、たいして歳月は流れていない。ふた月である。しかし、いまとなってはあまりに遠い。王女であったことすらも疑わしく思えるほど、遠かった。単に昔のこと、という感覚とは少し違うような気がした。少女のころ、あたりまえに信じていた夢物語が、現実とはほど遠いことを知った。いつ知ったのかもわからないまま、なにをどう信じていたのか、ほとんど思い出せなくなる。そんな感覚に似ていた。
以前は現実であったはずのものが、すり替わるように現実ではなくなった。夢の終わり。夜明けや目覚めが、いつの日も輝く朝陽や希望をもたらすとはかぎらない、ということだ。
王女であったころの誇りのようなものは、失ってはいない。ただ、自分が女であることは、邪魔なものをあつかうように投げて、忘れようとしている。なんの力もない自分のもとへ集まった者たちのために、なにができるのか。いまはそのことに命を燃やしているべきだ、とルネルは考えていた。
いまは国なき流浪の集団。それを惨めだとは思わない。そう思うことは、無念を残して死んでいった者たちへの裏切りである。宿業を払う。そのために生きることが、やはりいまできる、ただひとつのことなのである。
「孟王。どうかお休みください。見張りの数は増やしてあります。獅子や虎、いや毒蛇一匹、ここに来ることはできません」
隠術師団の長が、背に声をかけてきた。闇に向かって槍を振るうルネルの様子を見かねたのだろう。
「孟王と呼ばないよう、言っておいたはずだけど。師長」
「いまや王家の血は、ルネル様ただお一人。長者が孟王となるのが、国の決まりです」
「その国は、もうどこにもないのよ」
言って、師長の声がするほうに眼をやる。闇。師長の姿は見えなかった。くぐもった低声はいつも耳のそばで聞こえるような気がするが、それも隠術のひとつらしく、必要のないときに姿を晒すことを避けているらしかった。
溜息をひとつ残し、大人しく寝床として使っている穴に入った。
この岩山の壁面には浅く抉れたような洞穴が無数にあり、数人ごとに分かれて使っている。穴は自然にできたもののようだが、岩山のそこここには、大昔の戦で掘られた矢避けの塹壕のような跡も見られ、戦を逃れてきた自分たちが身を隠すには、うってつけの場所のようにも感じられた。
洞穴の床に敷いた布に座り、脚を組む。外の深い闇をじっと見据え、ゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。
聖御。原理神教の信徒が行う修練のひとつで、躰と心を鍛えるためのものだ。
一式は静の式。心を鎮めるために行う。いまはこの闇と自身を、ひとつとすることだ。風が吹けば揺れ、雨が降れば頭を垂れる草花のように。
故国で暮らしていた者はみな、敬虔な原理神教の信徒であった。教えに従い、自身が生まれ持った宿業から眼を逸らすことなく、生きる。どれだけ困難な宿業を背負ったとしても、確たる教えが芯として胸にあるからこそ、解き放たれるときを信じて生きることができる。
人は死ぬと、黒月晶の森から月の舟に乗った魂が死者の川を渡り、やがて払いきれなかった宿業を背負って戻ってくる。常々、そう説いていた原理神教の僧侶たちも、わずかしか生き残らなかった。この岩山には、擦り切れた袈裟衣を纏う者が一人、身を置いているだけだ。逝ってしまった者たちは、もう月の舟に乗っただろうか。
孟王城が落ちたあと、各地で残党狩りなどと称した略奪なども相次いで起きているという。
西域の蕘皙国は乾燥地で、生計のほとんどは放牧で支えられているらしい。連中は駱駝に跨って攻めてきたが、羊や牛も西域には数多くいるのだ。そのため、孟国の牛はあまり狙われていないようだった。荒地の男たちが奪うもののほとんどは作物で、あとは女か宝飾品である。牛が奪われるとしたら、それらを運ぶためだろう。
そういった情報は、隠術師たちが勝手に調べて伝えてきていた。ある者は集落に住みつき、仕事に就いて内情を探ったりもしているようだ。
彼らを束ねている師長とは、城から逃れる抜け道ではじめて顔を合わせた。その存在は父から聞かされていたが、それまでルネルの身のまわりに控えていたのは一部の隠術師で、顔を知るのは数人だけだったのだ。
城は落ちたが、ルネルが生きているかぎりはその生き方を変えるつもりはない、と師長は言った。血がなんだ、とルネルは返したが、師長はなにも答えなかった。面体は黒布で覆われており、表情も読めなかった。
ルネルがいまでもしばしば姿を探してしまうのは、一人の隠術師だった。
エフレム・ヴィクノール。幼いころからルネルのそばにいつも控えており、歳の離れた兄のようだった。ルネルは、そこに兄に対するものとはまた違う、憧れのようなものも抱いていた。それに気づいたのは、エフレムがルネルの前から姿を消したあとだった。
心身の鍛錬のためにと学んでいた棒術を、ルネルが望んで槍術へと変えたのも、そのことを心のどこかで感じていたからなのかもしれない。強く、大きな背を追いたい。叶わぬとは思いながらも、なにかを目指して学ぶことは有意義なことだと感じられる日々だった。
エフレム。名を呼べば、いつもすぐにその姿を見せたものだ。いまは、どれだけ呼んでも応えはない。
眼を閉じたまま、動かなかった。静の式のさなかにも関わらず、さまざまな想いが胸に去来する。ときとして胸に刺さるそれらは、無理に抑えこもうとしても収まるものではなかった。
勝ち気だ、男勝りだと言われ、感情の昂りを抑えられないこともしばしばで、原理神教の信徒として自分はまだ未熟なのだ、とルネルは思っていた。湧いてくるものを、ひとつずつ呑みくだしていくしかない。その先で、ようやく自分は静寂な境地へと至るのである。
原理の神々に向き合う気持ちが足りないのか。聖御の修練が不足しているのか。自分になにか至らぬ部分があるからこそ、この宿業に身を委ねるままになっているのではないか。宿業。それがすべてを物語っている。僧侶に確かめても、おそらくは同じ答えが返ってくるだろう。
宿業を払わなければ、死んでもまたそれを背負って生まれてくる。そう、教えられてきた。王女として生まれてきたのは、これまでルネルの魂が、きちんと修練を重ねてきた成果なのだとも。だからこそ、修練が足りずに生まれた者たちのために、できることをする。原理の神々にきちんと向き合えるような場所を与える。それができなければ、自分もまた、宿業を払えぬまま死ぬことになるのだ。
ほとんど眠れないまま、夜が明けた。
夜更けに死んだ民のことを知り、みなが肩を落としている。疲れは、癒えていない。それどころか、死の報せを聞くたびにその気配を濃くしていた。
朝の聖御を終えたあと、民の年長者が岩山を降りて森へ行く、と伝えに来た。動ける者たちと一緒に、兵も数人連れて行く許可を求めている。
「お願いします、ルネル様」
「許可もなにもない。私も一緒に行く」
「それは」
「いまこそ、みなで力を合わせて生き抜くときでしょう」
ルネルは言ったが、従者だけでなく、森へ向かう民からも猛反対を受けた。口々に、自分たちが帰るべき場所にいてほしい、というのだ。その場の誰一人として首を縦には振らず、ルネルの同行は叶わなかった。
「このあたりには毒蛇も多く棲息していると聞きます。西域の者だけでなく、くれぐれも周囲への注意を怠らず、全員が無事に戻ってください」
ルネルが言うと、続けて従者が、孟王の許可を与える、と声高に伝えた。ルネルにそのつもりはなくても、みなにとってはすでに孟王なのである。従者は、ルネルにそれを言外に伝えようとしている、としか思えなかった。
森に向かう全員の背が見えなくなるまで、ルネルはじっと見送った。
食料が不足していた。逃げながら掻き集めたものや、隠術師が森などから持ち帰るものだけでは足りず、飢えはじめている。隠術師が出入りしている集落にも余分な蓄えはなく、買いつける銭もない。
毒蛇の危険はあるが、岩山の麓に広がる森には、口にできるものも多くあるだろう。彼らが無事に戻ることが、そのまま全員の飢えを凌ぐことにもなるはずだ。
四刻(約二時間)ほど経って、夜明け前から斥候に出ていた二人の隠術師が戻ってきた。いくつもの草の束を山のように背負っており、平らな岩の開けた場所におろすと、小さな子供を遠ざけるように言った。
怪我人や、背負われながら逃げてきた数人の老人など、森に行かずに残っていた者たちと一緒に、草の束を分けはじめる。ルネルも、それには加わることができた。
集められているのは、舐めると舌先にかすかに痺れを感じる草だ。子供が知らずに口に入れると、手足が痺れたりすることもある。つまりは毒草である。
隠術師に教わり、もつれこんでいるほかの草や、枯れた部分を取り除き、必要な部分だけを残す。それほど難しい作業ではなく、昼までにはすべて分け終えた。
次に、毒草を平らな石の上に広げて木棒で叩き、それを鍋に入れて煮詰めていく。鍋は、集落に身を置いている隠術師を通じ、古いものをいくつか手に入れていた。
火はひとつだけ、ごく小さく熾してある。昼間にもうもうと煙を立ち昇らせるのは、この場所を教えるようなものだ。
鍋を揺すり、棒で混ぜる。はじめは汁気が多いが、搾りかすを除くために布を使って濾し、再び火にかけ続けていると鍋のなかは粘りのある黒い泥のように変わってくる。集めた草の量からすればわずかなものだが、焦がすこともなくすべて仕上がった。大きな葉を広げ、そこに鍋のなかの泥を落とす。同じものが、いくつもできあがった。
隠術師に伝わるやり方で、この泥を鏃に塗りこんで毒矢とするのだという。
毒草の種類にもよるが、舌先を痺れさせる程度のものでも、こうしてじっくり煮詰めてやれば、大きな豹などでも一矢で動きを封じることができるほどの毒になるらしい。たとえば尻に矢が立てば、後ろ脚から痺れて動けなくなる、といった具合だ。
いつここが見つかり、攻められるかわからない。どんなことでも、準備は必要だった。
汗で肌がべたついていた。逃げる途中で川の水を浴びたきりだ。岩山に湧き水はあるが、貴重だった。大皿のような岩の窪みに流れこむようにしてあるが、自分だけがそこで水浴びをしようなどとは思わない。いつ枯れるとも知れないのだ。
昼は猛烈な暑さで、雨の気配はまったくない。あとひと月ほど経てば雨季で、まとまった雨が降るはずだった。そのときは、みなで一緒に雨を浴びることができるのだろうか。
昨夜の岩場に立つ。眼下に広がる森は、夜とは違って濃い緑を揺らしていた。
食料を求めて森へ行った者たちは、いまどのあたりにいるのだろうか。無意識に手を合わせ、指を組んでいた。
ざわざわと、木樹の揺れる音が聞こえる。どことなく、耳につく音だった。
今日は、昨日のような月は見たくない、とルネルは思った。
見開いた眼に涙を浮かべ、最期になにか言おうとしていた。恨みや後悔、あるいは感謝か。それともまったく別のことだったのか。いまとなっては確かめようもない。聞き取ろうと寄せた耳を打ったのは、死にゆく者の熱い吐息だけだった。
そっと、指先で死者の瞼を閉じる。ほかにできることはなかった。
「いま一度、原理を司る神々と、我が槍に誓う。最後の一人になっても、故国に生きた民のために戦うと」
口惜しさを噛み殺して言い、ルネル・グゼイブは腰をあげた。
岩壁に口を開けた洞穴のなかである。身動ぎに応えて小さな火明かりが明滅し、壁に映る影が、沈む場を掻き乱すようにして激しく揺れた。
「ルネル様」
「大丈夫。ほかのみんなは、少し眠らせてやって」
従者が、一礼してさがった。ルネルも、遺体を残して表へ出る。
夜更けである。静かで、近くには獣の動きまわる気配も感じられない。夜明けまで、まだ八刻(約四時間)ほどはあるだろう。
平らな岩場の端に立ち、ルネルは深い溜息をついた。生温い風が頬を撫で、後ろで束ねあげた髪を揺らしている。
眼下には森が広がっていた。立っているのは岩山の崖のような場所で、夜闇に覆われた黒い森の向こう、空の低い位置に、月が紅く見えた。鋭い刃物で斬りつけた傷口のように細く、なんとなく気味の悪い色だ、とルネルは思った。
手にした槍が、小刻みに震えている。従者の前で平静を装ってみたところで、胸の内まで騙せはしない。ルネルは下唇を噛み、槍の柄頭で一度、強く地を打った。衝撃に遅れて、柄を握る掌が痺れるように痛む。そこから、不甲斐なさが滲み出してくるようだった。痛み。それを感じるのは、生きているということだ。それ自体が、いまは拭えぬ惨痛の色で染まっている。
炳辣国北東部のはずれに、小国があった。
孟国。そこでは代々、王家の血に連なる年長者が『孟王』と呼ばれる王となり、民は農耕と、牛を飼うなどして平穏に暮らしていた。雨季が土地を肥えさせるため作物はよく育ち、牛もまた、乳や労働力など得られるものが数多くあり、さまざまなことに役立てられていた。
ルネルが生まれるずっと前、先々代の孟王のころより、孟国は炳都に属するようになったという。炳都は、炳辣国中央の王都とされる、大きな都である。孟王は、その庇護のもとにある地方領主のあつかいを受けている、という立場にあった。
しかし実際のところ、日々の暮らしのなかで炳都の影響を感じることは、ほとんどなかった。孟国は中央から遠く離れた辺境にあり、そのうえ原理神教の信徒にとっての炳都という場所は、信仰の中心地としての意味合いのほうが強かったのだ。ルネルの知るかぎり、中央に決まったものを納めてさえいれば、口煩くなにかを言ってくる、ということもなかったようだ。
炳都の庇護というものがどの程度のものだったのか、ルネルは知らない。実感としてあるのは、辺境において孟王は紛れもなく王であり、小さくともそこは確かにひとつの国だった、ということだ。
そして王家も臣も民も、みなが原理神教の教えを心に刻みこみ、その教義に忠実に生きていた。そのはずだ。少なくとも、ルネルはそうだった。
ルネルは孟王の娘、つまり孟国の王女であった。今年で二十四になる。それがいまは、夜に包まれた岩山で、汗と土埃にまみれていた。
なぜ、と思う。思うたび、原理の神々に問うような気持ちになる。これが、自分の生まれ持った宿業なのか。物心つくより早く、教えに従うように育てられていた。その教えに背いたことが、一度でもあっただろうか。
疑念を抱えて問い詰めるようになる前に、問いかけることをやめた。原理の神々を疑い、問い詰めるなど、あってはならないことだ。ほとんど反射的に、ルネルの思考はいつも身を引くようにして、そこから離れていた。
「原理の神々よ。どうか宿業を払い、みなが救われますように」
手を合わせて指を組み、口に出して祈る。
槍を抱くような恰好で少しの間そのままじっとしていたが、肌を湿らせるような生温い風はやまなかった。暑季もなかばで、夜が更けてもあまり涼しくはならない。
眼を開き、槍を執った。演舞の前の肩慣らしのように、緩慢な動作で手首を返し、槍を振りまわす。はじめは護身のために棒術の型を学んでいたが、槍に持ち替えて鍛えあげた技には自信があった。いまでは特に意識をせずとも、躰が流れるように型をたどっていく。
型と型を繋ぐ。隙のない構え、突き、薙ぎ払い。足運びで悟られないように身を引き、相手の隙を誘う。脇を締め、すかさずの突き。上段を装い、下段を狙う。身を返し、後方に向けて槍を構える。
槍と同じ長さの棒を用いた稽古では、槍の遣い手である兵長にも負けなかった。雑兵三人を同時に相手にしても、打ちこませないだけの腕は持っているつもりだ。
しかし、それがどれほど意味のあることだというのか。執拗にまとわりつくこの風を追い払おうと槍を構えても、本当には突き破れはしない。それと同じように、どれだけ技を磨いたところで、自分一人の技や自信など、なんの役にも立たないものなのだ、とルネルは思った。そのことを理屈ではなく、身をもって知ったのである。
ふた月前、孟王城が攻められた。
平穏な国でも、有事に備えて兵は抱えていた。しかし厳しい調練など積んでおらず、敵との差はいわゆる大人と子供であった。
敵の糧道を断つために、城外で動いていた者たちとの連携はあっさりと乱され、城を取り囲まれた。敵勢の構えはすぐに攻城戦の様相となり、城内は守りに徹する以外、道がなくなった。
城門は堅く閉ざし、ルネルの父である孟王は火攻めを警戒して、燃えやすいものを城壁から棄てさせた。
長くは保たない。それは、誰の眼にも明らかであった。こちらには策もなく、三倍以上の兵力で絞めあげられたのだ。
寡兵総員で城壁から雨のように矢を射かけ、わずかに拮抗する場面もあるにはあったが、やがて水源を断たれ、やはり攻められてから十日と保たなかった。こちらの矢が尽きると城壁には敵が押し寄せ、閉ざしていた城門が破られ、兵も民も、あっという間に斬り捨てられていった。そこで討たれた者は、もはや数え切れない。
突如として攻めてきたのは、西域の荒地に城を構える隣国、蕘皙国の者たちである。
彼らは孟国とは異なり、炳都にも属さない、荒くれ者の集団だと聞かされていた。現れた敵の多くは白い駱駝に跨り、手には弓と幅広の剣。頭に朱色の布を巻きつけており、陽に灼けた樹皮のような灰褐色の肌と、ぎょろりとした眼の光が暗い、いかにも頑強そうな男たちだった。
ついに王の広間の前庭まで攻めこまれ、決して退かぬと剣を執った叔父に続き、孟王である父が討たれた。この眼で見届けたわけではない。見えたのは、父が敵とぶつかるところまでだった。
故国の滅び。野太い声をあげ、勝利に湧く敵。そのとき、ルネルは王家が抱えてきた隠術師たちの判断により、枯れ井戸の抜け道から強引に連れ出されていた。
すべては、王家の血筋を残すため。それが英断だったといえるのか、ルネルにはわからない。自分が生きのびたところで、城は攻め落とされたのだ。
足場の悪い闇を掻き分けるようにして、抜け道を進んだ。口を開く者はおらず、湿った暗闇に荒い息遣いだけが重なる。腕を引かれ、背を押されて進むルネルの耳には、惨状を伝える叫びや地響きが、次第に遠くなりながらも、絶えず届いていた。
闇のなかで聞いた叫び声は、あれからずっと耳を離れない。いまでも振り返ると、すぐそこに抜け出た黒い穴があり、死んでいった者たちの苦悶の形相が並んでいるような気がしていた。
結局、城内にいた者で、ルネルとともに離脱を果たしたのは十人に満たなかった。
抜け道を出て最初の晩、闇のなかで肩を寄せ合い祈った。みなが信じる原理の神々に。すべてを原理の神々に任せ、与えられた試練をみずからの宿業と受け入れる。そして力を合わせて生き抜くのだと。祈り。それ以外に、できることはなにもなかった。いつまでも躰が慄え続けていて、空腹や渇きすら感じなかった。
それから南北に連なる東方の山伝いに、北へ北へと移動を続けた。中央の炳都に向かい、いまこそ正式に庇護を受けるべきだと誰もが考えたが、王都へ向かう南の道は、すでに敵によって塞がれていたのだ。
隠術師たちが斥候を兼ねて方々に走り、散っていた生き残りの民が、少しずつルネルのもとに集まりはじめた。
城は落ち、孟王は討たれた。それでも故国の王女が生きている。それが民にとって意味のあることなのか、ルネルにはやはりわからなかった。なすすべもなく、ただ生き残った。王女であっても、それは民と変わりない。
虚しさを押し止め、駆けつけた民の手を取り、一人ずつ眼を見て言葉をかけた。感極まり、嗚咽混じりに原理の神々への感謝の言葉を口にする民。それでも、王家の血がなんだというのだ、という思いをルネルは拭いきれなかった。
集まったのは兵だけでなく、民も合わせて五十六人。怪我を負い、小さな集落に身を寄せている者もいるらしく、人を通じて居場所を知ることができた者を含めても、総勢で百名に満たない。あまりにも少ない生き残りだった。
ひと月近く歩き続け、たどり着いた北部の岩山に、みなで身を潜めた。いまはこの岩山が、民にとっての城である。留まりはじめてすでに二十日以上が経つが、傷が癒えずに死ぬ者が続き、四十八人まで数を減らしていた。持病のある者への薬草も足りず、病に精通する者もまたいなかった。
落ちのびて、たいして歳月は流れていない。ふた月である。しかし、いまとなってはあまりに遠い。王女であったことすらも疑わしく思えるほど、遠かった。単に昔のこと、という感覚とは少し違うような気がした。少女のころ、あたりまえに信じていた夢物語が、現実とはほど遠いことを知った。いつ知ったのかもわからないまま、なにをどう信じていたのか、ほとんど思い出せなくなる。そんな感覚に似ていた。
以前は現実であったはずのものが、すり替わるように現実ではなくなった。夢の終わり。夜明けや目覚めが、いつの日も輝く朝陽や希望をもたらすとはかぎらない、ということだ。
王女であったころの誇りのようなものは、失ってはいない。ただ、自分が女であることは、邪魔なものをあつかうように投げて、忘れようとしている。なんの力もない自分のもとへ集まった者たちのために、なにができるのか。いまはそのことに命を燃やしているべきだ、とルネルは考えていた。
いまは国なき流浪の集団。それを惨めだとは思わない。そう思うことは、無念を残して死んでいった者たちへの裏切りである。宿業を払う。そのために生きることが、やはりいまできる、ただひとつのことなのである。
「孟王。どうかお休みください。見張りの数は増やしてあります。獅子や虎、いや毒蛇一匹、ここに来ることはできません」
隠術師団の長が、背に声をかけてきた。闇に向かって槍を振るうルネルの様子を見かねたのだろう。
「孟王と呼ばないよう、言っておいたはずだけど。師長」
「いまや王家の血は、ルネル様ただお一人。長者が孟王となるのが、国の決まりです」
「その国は、もうどこにもないのよ」
言って、師長の声がするほうに眼をやる。闇。師長の姿は見えなかった。くぐもった低声はいつも耳のそばで聞こえるような気がするが、それも隠術のひとつらしく、必要のないときに姿を晒すことを避けているらしかった。
溜息をひとつ残し、大人しく寝床として使っている穴に入った。
この岩山の壁面には浅く抉れたような洞穴が無数にあり、数人ごとに分かれて使っている。穴は自然にできたもののようだが、岩山のそこここには、大昔の戦で掘られた矢避けの塹壕のような跡も見られ、戦を逃れてきた自分たちが身を隠すには、うってつけの場所のようにも感じられた。
洞穴の床に敷いた布に座り、脚を組む。外の深い闇をじっと見据え、ゆっくりと息を吐きながら眼を閉じた。
聖御。原理神教の信徒が行う修練のひとつで、躰と心を鍛えるためのものだ。
一式は静の式。心を鎮めるために行う。いまはこの闇と自身を、ひとつとすることだ。風が吹けば揺れ、雨が降れば頭を垂れる草花のように。
故国で暮らしていた者はみな、敬虔な原理神教の信徒であった。教えに従い、自身が生まれ持った宿業から眼を逸らすことなく、生きる。どれだけ困難な宿業を背負ったとしても、確たる教えが芯として胸にあるからこそ、解き放たれるときを信じて生きることができる。
人は死ぬと、黒月晶の森から月の舟に乗った魂が死者の川を渡り、やがて払いきれなかった宿業を背負って戻ってくる。常々、そう説いていた原理神教の僧侶たちも、わずかしか生き残らなかった。この岩山には、擦り切れた袈裟衣を纏う者が一人、身を置いているだけだ。逝ってしまった者たちは、もう月の舟に乗っただろうか。
孟王城が落ちたあと、各地で残党狩りなどと称した略奪なども相次いで起きているという。
西域の蕘皙国は乾燥地で、生計のほとんどは放牧で支えられているらしい。連中は駱駝に跨って攻めてきたが、羊や牛も西域には数多くいるのだ。そのため、孟国の牛はあまり狙われていないようだった。荒地の男たちが奪うもののほとんどは作物で、あとは女か宝飾品である。牛が奪われるとしたら、それらを運ぶためだろう。
そういった情報は、隠術師たちが勝手に調べて伝えてきていた。ある者は集落に住みつき、仕事に就いて内情を探ったりもしているようだ。
彼らを束ねている師長とは、城から逃れる抜け道ではじめて顔を合わせた。その存在は父から聞かされていたが、それまでルネルの身のまわりに控えていたのは一部の隠術師で、顔を知るのは数人だけだったのだ。
城は落ちたが、ルネルが生きているかぎりはその生き方を変えるつもりはない、と師長は言った。血がなんだ、とルネルは返したが、師長はなにも答えなかった。面体は黒布で覆われており、表情も読めなかった。
ルネルがいまでもしばしば姿を探してしまうのは、一人の隠術師だった。
エフレム・ヴィクノール。幼いころからルネルのそばにいつも控えており、歳の離れた兄のようだった。ルネルは、そこに兄に対するものとはまた違う、憧れのようなものも抱いていた。それに気づいたのは、エフレムがルネルの前から姿を消したあとだった。
心身の鍛錬のためにと学んでいた棒術を、ルネルが望んで槍術へと変えたのも、そのことを心のどこかで感じていたからなのかもしれない。強く、大きな背を追いたい。叶わぬとは思いながらも、なにかを目指して学ぶことは有意義なことだと感じられる日々だった。
エフレム。名を呼べば、いつもすぐにその姿を見せたものだ。いまは、どれだけ呼んでも応えはない。
眼を閉じたまま、動かなかった。静の式のさなかにも関わらず、さまざまな想いが胸に去来する。ときとして胸に刺さるそれらは、無理に抑えこもうとしても収まるものではなかった。
勝ち気だ、男勝りだと言われ、感情の昂りを抑えられないこともしばしばで、原理神教の信徒として自分はまだ未熟なのだ、とルネルは思っていた。湧いてくるものを、ひとつずつ呑みくだしていくしかない。その先で、ようやく自分は静寂な境地へと至るのである。
原理の神々に向き合う気持ちが足りないのか。聖御の修練が不足しているのか。自分になにか至らぬ部分があるからこそ、この宿業に身を委ねるままになっているのではないか。宿業。それがすべてを物語っている。僧侶に確かめても、おそらくは同じ答えが返ってくるだろう。
宿業を払わなければ、死んでもまたそれを背負って生まれてくる。そう、教えられてきた。王女として生まれてきたのは、これまでルネルの魂が、きちんと修練を重ねてきた成果なのだとも。だからこそ、修練が足りずに生まれた者たちのために、できることをする。原理の神々にきちんと向き合えるような場所を与える。それができなければ、自分もまた、宿業を払えぬまま死ぬことになるのだ。
ほとんど眠れないまま、夜が明けた。
夜更けに死んだ民のことを知り、みなが肩を落としている。疲れは、癒えていない。それどころか、死の報せを聞くたびにその気配を濃くしていた。
朝の聖御を終えたあと、民の年長者が岩山を降りて森へ行く、と伝えに来た。動ける者たちと一緒に、兵も数人連れて行く許可を求めている。
「お願いします、ルネル様」
「許可もなにもない。私も一緒に行く」
「それは」
「いまこそ、みなで力を合わせて生き抜くときでしょう」
ルネルは言ったが、従者だけでなく、森へ向かう民からも猛反対を受けた。口々に、自分たちが帰るべき場所にいてほしい、というのだ。その場の誰一人として首を縦には振らず、ルネルの同行は叶わなかった。
「このあたりには毒蛇も多く棲息していると聞きます。西域の者だけでなく、くれぐれも周囲への注意を怠らず、全員が無事に戻ってください」
ルネルが言うと、続けて従者が、孟王の許可を与える、と声高に伝えた。ルネルにそのつもりはなくても、みなにとってはすでに孟王なのである。従者は、ルネルにそれを言外に伝えようとしている、としか思えなかった。
森に向かう全員の背が見えなくなるまで、ルネルはじっと見送った。
食料が不足していた。逃げながら掻き集めたものや、隠術師が森などから持ち帰るものだけでは足りず、飢えはじめている。隠術師が出入りしている集落にも余分な蓄えはなく、買いつける銭もない。
毒蛇の危険はあるが、岩山の麓に広がる森には、口にできるものも多くあるだろう。彼らが無事に戻ることが、そのまま全員の飢えを凌ぐことにもなるはずだ。
四刻(約二時間)ほど経って、夜明け前から斥候に出ていた二人の隠術師が戻ってきた。いくつもの草の束を山のように背負っており、平らな岩の開けた場所におろすと、小さな子供を遠ざけるように言った。
怪我人や、背負われながら逃げてきた数人の老人など、森に行かずに残っていた者たちと一緒に、草の束を分けはじめる。ルネルも、それには加わることができた。
集められているのは、舐めると舌先にかすかに痺れを感じる草だ。子供が知らずに口に入れると、手足が痺れたりすることもある。つまりは毒草である。
隠術師に教わり、もつれこんでいるほかの草や、枯れた部分を取り除き、必要な部分だけを残す。それほど難しい作業ではなく、昼までにはすべて分け終えた。
次に、毒草を平らな石の上に広げて木棒で叩き、それを鍋に入れて煮詰めていく。鍋は、集落に身を置いている隠術師を通じ、古いものをいくつか手に入れていた。
火はひとつだけ、ごく小さく熾してある。昼間にもうもうと煙を立ち昇らせるのは、この場所を教えるようなものだ。
鍋を揺すり、棒で混ぜる。はじめは汁気が多いが、搾りかすを除くために布を使って濾し、再び火にかけ続けていると鍋のなかは粘りのある黒い泥のように変わってくる。集めた草の量からすればわずかなものだが、焦がすこともなくすべて仕上がった。大きな葉を広げ、そこに鍋のなかの泥を落とす。同じものが、いくつもできあがった。
隠術師に伝わるやり方で、この泥を鏃に塗りこんで毒矢とするのだという。
毒草の種類にもよるが、舌先を痺れさせる程度のものでも、こうしてじっくり煮詰めてやれば、大きな豹などでも一矢で動きを封じることができるほどの毒になるらしい。たとえば尻に矢が立てば、後ろ脚から痺れて動けなくなる、といった具合だ。
いつここが見つかり、攻められるかわからない。どんなことでも、準備は必要だった。
汗で肌がべたついていた。逃げる途中で川の水を浴びたきりだ。岩山に湧き水はあるが、貴重だった。大皿のような岩の窪みに流れこむようにしてあるが、自分だけがそこで水浴びをしようなどとは思わない。いつ枯れるとも知れないのだ。
昼は猛烈な暑さで、雨の気配はまったくない。あとひと月ほど経てば雨季で、まとまった雨が降るはずだった。そのときは、みなで一緒に雨を浴びることができるのだろうか。
昨夜の岩場に立つ。眼下に広がる森は、夜とは違って濃い緑を揺らしていた。
食料を求めて森へ行った者たちは、いまどのあたりにいるのだろうか。無意識に手を合わせ、指を組んでいた。
ざわざわと、木樹の揺れる音が聞こえる。どことなく、耳につく音だった。
今日は、昨日のような月は見たくない、とルネルは思った。
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