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雨潦
二
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風が出ている。南西からの風で、雲の流れも速い。
陽射しは雲間から照りつけているものの、夏を飛び越え、どこか秋の気配にも似た爽やかさがあった。
アダムは作業の手を休め、小屋の軒下にある煤けた木箱に腰をおろした。牧で使う道具を仕舞うための箱らしい。すっかり陽に灼けて傷んでおり、アダムが身を預けると、呻き声をあげるように軋んだ音を響かせた。
桶に汲みあげておいた小川の水を掬い、喉を鳴らして飲む。汗ばんだ躰に、抜ける風が心地いい。
ひと息つき、それから濡らした布で顔を拭った。ほんのわずかな間に、汗はほとんど引いている。木陰は涼しく感じられるほどで、連日の蒸し暑さも忘れてしまいそうな過ごしやすさである。
アダムが、炳辣国のこの小さな集落に立ち寄って、すでに十日ばかりが過ぎようとしている。
名もない寒村で寂れた印象は拭えないが、過ごしてみると必ずしも活気がないとはいいきれないところがある。広場で人の流れを眺めていると、子供の数は少なくないし、皿などの焼き物を作る窯や、牛飼いの牧もいくつかある。畑では野菜が育っているし、小川では小魚も穫れるようだ。
数か月前にあったという、炳北地域での戦がどの程度影響したのかはわからないが、アダムの見るかぎり、この村は僻地にあってこれといった被害は受けていないように感じられた。むしろ中央の都などに根をおろす者のほうが、戦の煽りを受け、混乱に乗じて利権を求めたり、湧いて出たような銭に取り憑かれたりして奔走し、疲弊しているところがあるのかもしれない。
そういった気配は、道行く人々の眼や、街自体が放つ、ある種のにおいのようなもので、なんとなく感じ取ることができる。たとえば、政事や宗教がらみの覇権をめぐる暗闘が盛んな街などでは、やはりどこかに鼻を衝くような腐臭が漂っているのだ。そして、アダムがそのにおいを旅先で感じるのは、決して珍しいことではなかった。
ひと際、強い風が駆け抜ける。頭上に伸び出た枝葉が、ざわざわと大きな音をたてた。
背伸びをしながら、壁に立てかけた白杖に眼をやる。
あらゆる土地を歩き、越境を重ね、これまでずっと旅を続けてきた。この白杖だけを手に、アダムは故郷の地を離れたのだ。もともと望んで出た旅ではなく、留まる場所もまたなかった。ある程度は気ままに流れ歩いているとはいえ、気楽な旅ばかりというわけにはいかない。どこに行っても戦火の燻るような、乱世である。
故郷の地で暮らしていたのは、もうどれくらい前のことなのか。
胸の奥底に深く刻みこまれ、忘れようもないことがある。指先の仕草まで蘇るような、鮮やかな記憶。繰り返し見る夢。炎に包まれる故郷の地。
それとは裏腹に、記憶をたどっても霧のかかったように思い出せないこともある。焼け落ちる街から拾いあげられるようにして、なぜ自分だけが助かったのか。この手を引いたのは、誰だったのか。どれだけ考えても、浮かんでくるものはない。いずれにしても過ぎ去った遠い昔のことで、思い出したところでどうすることもできない。それだけは確かだった。
アダムは、軒下の籠に入っている林檎をひとつ掴んでかぶりついた。掌に隠れてしまう小ぶりな林檎から、小気味よい音が鳴る。仕事を請けたこの牧の老爺から、腹が減ったら食っていいと言われていたものだ。
緑皮に赤い斑模様が巻いたような、このあたりではよく見る林檎だった。時季としてはいささか早いようだが、ほどよく熟れている。炳辣国の林檎は雨季を迎えるころに出まわりはじめるので、あとひと月もすれば本格的に実りはじめるだろう。
アダムは、波打つように風に揺れる青々とした草地を眺めながら、林檎をふたつ平らげた。酸味が強いが瑞々しく、朝から動きまわっている躰にはちょうどいいような気がした。牧の端では牛たちも草を食んでいる。
籠を胸に抱えた若い村民が、アダムのほうをちょっと気にした様子で通り過ぎていく。炳都から派遣されている衛兵の姿もあった。余所者に対する警戒の眼はどこにでもある。それと同様に、好奇心という眼もあった。
アダムはなるべくその土地の言葉を覚え、進んで話すようにしていた。はじめは身振り手振りで伝えるしかなかったことが、言葉を真似ることで少しずつ伝えられるようになってくる。名のわからないものは、地面に絵を描いて訊く。ものの呼び名がわかれば、伝えられることは確実に増えるのだ。アダムはただその変化を愉しんでいたのだが、結果的にはそれが住民の警戒を徐々に解いていくようだった。
この村に立ち寄ったのははじめてだが、交易の盛んな炳都にはしばらく逗留したこともあり、ここでは言葉にそれほど不自由しなかった。一度覚えた言葉は、しばらく喋っていると少しずつ思い出すことができる。田舎訛りが聞き取れないことがたまにあるくらいだ。
左耳にさげた青い羽の耳飾りが、風に揺れ続けている。作業の邪魔になるので、肩にかかる長さの髪は後ろで軽く束ねていた。
双児の月。炳辣国は雨季を前に、このところ蒸し暑い日が続いていた。
やがて、いま吹いている南西の風が大雨を連れてくる。そうすると気温もさがり、ずっと過ごしやすくなる。牧の老爺はそう言っていた。そして、雨季がこの地の土壌を肥えさせるのだ。その予兆ともいえるのか、今日は明け方から不思議に思えるほど涼やかだった。
暑季の陽射しはアダムにとって、別離の記憶とともにあった。故郷を思ってみても、戻らないものは数多くある。それでも夏のまぶしさに眼を細めると、その強い光のなかに、儚く、懐かしいものが揺れているような気がするのだった。
軋む木箱の上で手脚を伸ばし、作業に戻ることにした。手箕(竹を編んだ平坦な籠状の農具)や板を使い、牧の隅に穴を掘っているのだ。こちらに来ないよう、牛は一時的に柵を設けて区切ったところに放されている。
アダムにこの作業を頼んだ牧の老爺は、できれば人の背丈ほどの深さくらい穴を掘ってほしい、と言った。深ければより長く使えるので助かるのだという。
ある深さまでは石もそれほど埋まってはいなかった。途中からは拳ほどの石もごろごろと出はじめ、伸びた木の根を切りながら掘り進む必要があったものの、すでにかなり深い穴になっている。あまり長身ではないアダムが穴の底に立てば、肩の高さまでは隠れる。陽が落ちるまで続ければ、充分な深さになるだろう。
休憩を挟みながら九刻(約四時間半)ほど掘り続け、穴から這い出ると斜陽を受けたアダムの影は長く伸びていた。
翅鰄鳥の群れが茜の空を横切っていく。水辺の岩場にある巣に帰るのだろう。魚に翼の生えたような鳥で、夕陽に煌めく姿はどこか艶かしく、天を泳ぐように飛ぶさまは、通常の鳥が飛翔する姿とはまた違って見えた。
牧の老爺に声をかけ、報酬を受け取ることにした。
どれどれとアダムの掘った穴を覗き見て、老爺が声をあげた。あたりが薄暗くなってきて底のほうは見えないが、穴は大人の男二人が連なっても手が届かないほどの深さまで達していた。水が出たらそこでやめようと考え、夢中で穴の底から石や土を放り出し、最後は近くの大きな樹に結んでおいた縄を使ってよじ登った。結局のところ水は出なかったが、ほとんど井戸のような深さになっている。
雨季にもそこそこは耐えられるよう、穴の壁面は板で押し固めてある。あとは牛が落ちこまないように、囲いを設けて雨除けの屋根でも備えつけてやれば、申し分のない仕上がりになるだろう。その作業は頼む宛があるらしく、アダムの仕事はここまでだった。
穴は牛の糞便を始末するためのもので、落ち葉などと一緒にして、順に埋め重ねるという。そうするとやがて土も肥えるので、作物を育てている者に求められると、なにかと交換する、というかたちで分けてやるのだそうだ。
深さこそないが、アダムが掘ったものと同じような穴がいくつか並んでいる。肥えた土が運び出されると、入れ替わりに痩せた土が運ばれてくるようだ。
牛は、糞の使い道もひとつではなかった。肥料だけでなく、乾かせば燃料にもなる。蓄えておけば薪がなくても火を熾すことができるため、荒地での野営などでも重宝するのだ。
一見すると貧しいこの村でも、村人がそれぞれに工夫をし、常に物を作って動かしているおかげで、質素ながらもみなが飢えることなく暮らしていられるのかもしれなかった。
顔の皺を深くして笑い、老爺が嬉しそうに礼を言う。用途を考えればいくらか深く掘りすぎたのかもしれないが、腰が曲がった老爺からすれば、充分すぎる助けとなったようだ。
老爺が報酬の追加を言いだしたが、アダムは笑って断った。もともとの報酬より貰いたくてやったわけではないのだ。
報酬は銭ではない。僻地の村にあるのは、宝飾品や珍しい石、薬草などの植物、あるいは獣の毛皮などである。老爺から受け取った布の小袋には、水晶の粒が詰まっていた。また別の地に持ちこめば、その価値も変わってくるだろう。
すでに暗くなりはじめている。アダムは束ねた髪を解き、そばの小川で爪の間に詰まった土を丁寧に流した。それから濡らした布で躰を拭うと、白杖を手に酒場に向かった。
通された席に着き、卓に届いた麦酒を呷る。
市の並ぶ通りの路地の奥、外観ではそれとわからないような、狭い酒場である。幅はないが奥行きがあるため、二十人くらいは一度に座れるだろう。入口のそばに棚台があり、その奥は厨房になっている。壁には、炳都でよく眼にするような、綺麗な装飾が施された布が飾られていた。
炳辣国で広く信仰されている原理神教では、禁酒が厳しく定められており、あまり公に店を構えるべきではない、という風潮がある。僻地であっても僧侶や信徒、巡礼者も少なくない。訊けば少しくらいはあつかっているのかもしれないが、市でも酒が並んでいるところは見かけなかった。いまのところ信仰が強く根づいていない南端の地域はともかく、いくらか中央に近いここらは酒自体が手に入りにくいようだ。
原理神教の信徒ではない者が集まるこの手の店は、隠れ酒場と呼ばれている。陽が暮れてそれほど経たないが、すでに揺れる火灯りのなかで七、八人が飲み食いしていた。
店の娘が、芋と豆を煮た料理と、魚を焼いたものをアダムの卓に置いた。
「ありがとう」
アダムが炳辣国の言葉で声をかけると、娘はにこりと笑って戻っていった。
芋の料理には磨り潰した辛味のある実が散らしてあり、においが湯気とともに立ち昇っている。
木の匙で掬い、息を吹きかけながら口に入れた。ほくほくとした芋と豆に、よく味が染みこんでいる。じっくりと煮詰めて汁気を飛ばしてあるようだ。口のなかで崩れた芋の中心はかなり熱く、アダムはたまらずそれを麦酒で流しこんだ。
飲みくだしたあともぴりぴりとした辛味が残っている。濃いめの味つけとともに、麦酒によく合っていた。ただし、芋はもう少し冷めてから口に入れたほうがよさそうだ。ひとまず匙の先で、大きめの芋の塊を割っておくことにする。
魚は近くの小川で獲ったもののようだ。腹を除き、壺窯でふっくらと焼いたもので、こちらもまた違ったにおいの辛味が利いていた。添えられた青菜も新鮮なものだ。出されたものに、いい加減なところはどこにもない。
普段は野営ばかりなので、手のこんだものを出しそうな店があると、たまには寄ってみることにしていた。煮こみ料理も壺窯焼きも、野営ではなかなか口にできるものではない。
それに炳辣国の料理は、特に香辛料の選び方が絶妙だとアダムは思っていた。ひとつの料理に使うのはせいぜい二、三種の香辛料だというが、それが簡単には真似できないのである。
店の娘が常連客らしい二人組に訊かれ、盗まれた首飾りの話をはじめていた。
祖母の形見で、夜はいつも身に着けて仕事をしていたが、朝にははずしており、掃除を終えて食材を仕入れに出た昼間に盗まれた。許せない。炳都から来ている衛兵に訴えたが、隠れ酒場で起きたことだといって取り合ってもらえなかった。そんな内容だった。よくある話だ。明るく徹る声だったので、アダムは聞き耳を立てるでもなく、酒と料理を口に運びながらなんとなく話を聞いていた。
改めて見ると娘はそうそう出会わないような美人だった。鼻梁にかすかな翳があるが、酒場の乱れた雰囲気に呑まれない華やかさのようなものがある。二十をいくつか越えたくらいか。おそらく、この娘が目当ての熱心な客もいることだろう。
アダムが料理を食べ終えたころ、不意に悲鳴と入り混じって怒鳴り声が響いた。一番奥の卓に座っていた男が立ちあがり、詰め寄った店の娘を睨みつけている。強気な姿勢で腰に手をあて、こちらに背を向けている娘の表情はわからない。
棚台の向こうの厨房に立つ店主を見た。店主の男もアダムの眼を見つめ返し、強張った表情のまま小さくうなずいている。
アダムは酒坏を干し、白杖を持って席を立った。
陽射しは雲間から照りつけているものの、夏を飛び越え、どこか秋の気配にも似た爽やかさがあった。
アダムは作業の手を休め、小屋の軒下にある煤けた木箱に腰をおろした。牧で使う道具を仕舞うための箱らしい。すっかり陽に灼けて傷んでおり、アダムが身を預けると、呻き声をあげるように軋んだ音を響かせた。
桶に汲みあげておいた小川の水を掬い、喉を鳴らして飲む。汗ばんだ躰に、抜ける風が心地いい。
ひと息つき、それから濡らした布で顔を拭った。ほんのわずかな間に、汗はほとんど引いている。木陰は涼しく感じられるほどで、連日の蒸し暑さも忘れてしまいそうな過ごしやすさである。
アダムが、炳辣国のこの小さな集落に立ち寄って、すでに十日ばかりが過ぎようとしている。
名もない寒村で寂れた印象は拭えないが、過ごしてみると必ずしも活気がないとはいいきれないところがある。広場で人の流れを眺めていると、子供の数は少なくないし、皿などの焼き物を作る窯や、牛飼いの牧もいくつかある。畑では野菜が育っているし、小川では小魚も穫れるようだ。
数か月前にあったという、炳北地域での戦がどの程度影響したのかはわからないが、アダムの見るかぎり、この村は僻地にあってこれといった被害は受けていないように感じられた。むしろ中央の都などに根をおろす者のほうが、戦の煽りを受け、混乱に乗じて利権を求めたり、湧いて出たような銭に取り憑かれたりして奔走し、疲弊しているところがあるのかもしれない。
そういった気配は、道行く人々の眼や、街自体が放つ、ある種のにおいのようなもので、なんとなく感じ取ることができる。たとえば、政事や宗教がらみの覇権をめぐる暗闘が盛んな街などでは、やはりどこかに鼻を衝くような腐臭が漂っているのだ。そして、アダムがそのにおいを旅先で感じるのは、決して珍しいことではなかった。
ひと際、強い風が駆け抜ける。頭上に伸び出た枝葉が、ざわざわと大きな音をたてた。
背伸びをしながら、壁に立てかけた白杖に眼をやる。
あらゆる土地を歩き、越境を重ね、これまでずっと旅を続けてきた。この白杖だけを手に、アダムは故郷の地を離れたのだ。もともと望んで出た旅ではなく、留まる場所もまたなかった。ある程度は気ままに流れ歩いているとはいえ、気楽な旅ばかりというわけにはいかない。どこに行っても戦火の燻るような、乱世である。
故郷の地で暮らしていたのは、もうどれくらい前のことなのか。
胸の奥底に深く刻みこまれ、忘れようもないことがある。指先の仕草まで蘇るような、鮮やかな記憶。繰り返し見る夢。炎に包まれる故郷の地。
それとは裏腹に、記憶をたどっても霧のかかったように思い出せないこともある。焼け落ちる街から拾いあげられるようにして、なぜ自分だけが助かったのか。この手を引いたのは、誰だったのか。どれだけ考えても、浮かんでくるものはない。いずれにしても過ぎ去った遠い昔のことで、思い出したところでどうすることもできない。それだけは確かだった。
アダムは、軒下の籠に入っている林檎をひとつ掴んでかぶりついた。掌に隠れてしまう小ぶりな林檎から、小気味よい音が鳴る。仕事を請けたこの牧の老爺から、腹が減ったら食っていいと言われていたものだ。
緑皮に赤い斑模様が巻いたような、このあたりではよく見る林檎だった。時季としてはいささか早いようだが、ほどよく熟れている。炳辣国の林檎は雨季を迎えるころに出まわりはじめるので、あとひと月もすれば本格的に実りはじめるだろう。
アダムは、波打つように風に揺れる青々とした草地を眺めながら、林檎をふたつ平らげた。酸味が強いが瑞々しく、朝から動きまわっている躰にはちょうどいいような気がした。牧の端では牛たちも草を食んでいる。
籠を胸に抱えた若い村民が、アダムのほうをちょっと気にした様子で通り過ぎていく。炳都から派遣されている衛兵の姿もあった。余所者に対する警戒の眼はどこにでもある。それと同様に、好奇心という眼もあった。
アダムはなるべくその土地の言葉を覚え、進んで話すようにしていた。はじめは身振り手振りで伝えるしかなかったことが、言葉を真似ることで少しずつ伝えられるようになってくる。名のわからないものは、地面に絵を描いて訊く。ものの呼び名がわかれば、伝えられることは確実に増えるのだ。アダムはただその変化を愉しんでいたのだが、結果的にはそれが住民の警戒を徐々に解いていくようだった。
この村に立ち寄ったのははじめてだが、交易の盛んな炳都にはしばらく逗留したこともあり、ここでは言葉にそれほど不自由しなかった。一度覚えた言葉は、しばらく喋っていると少しずつ思い出すことができる。田舎訛りが聞き取れないことがたまにあるくらいだ。
左耳にさげた青い羽の耳飾りが、風に揺れ続けている。作業の邪魔になるので、肩にかかる長さの髪は後ろで軽く束ねていた。
双児の月。炳辣国は雨季を前に、このところ蒸し暑い日が続いていた。
やがて、いま吹いている南西の風が大雨を連れてくる。そうすると気温もさがり、ずっと過ごしやすくなる。牧の老爺はそう言っていた。そして、雨季がこの地の土壌を肥えさせるのだ。その予兆ともいえるのか、今日は明け方から不思議に思えるほど涼やかだった。
暑季の陽射しはアダムにとって、別離の記憶とともにあった。故郷を思ってみても、戻らないものは数多くある。それでも夏のまぶしさに眼を細めると、その強い光のなかに、儚く、懐かしいものが揺れているような気がするのだった。
軋む木箱の上で手脚を伸ばし、作業に戻ることにした。手箕(竹を編んだ平坦な籠状の農具)や板を使い、牧の隅に穴を掘っているのだ。こちらに来ないよう、牛は一時的に柵を設けて区切ったところに放されている。
アダムにこの作業を頼んだ牧の老爺は、できれば人の背丈ほどの深さくらい穴を掘ってほしい、と言った。深ければより長く使えるので助かるのだという。
ある深さまでは石もそれほど埋まってはいなかった。途中からは拳ほどの石もごろごろと出はじめ、伸びた木の根を切りながら掘り進む必要があったものの、すでにかなり深い穴になっている。あまり長身ではないアダムが穴の底に立てば、肩の高さまでは隠れる。陽が落ちるまで続ければ、充分な深さになるだろう。
休憩を挟みながら九刻(約四時間半)ほど掘り続け、穴から這い出ると斜陽を受けたアダムの影は長く伸びていた。
翅鰄鳥の群れが茜の空を横切っていく。水辺の岩場にある巣に帰るのだろう。魚に翼の生えたような鳥で、夕陽に煌めく姿はどこか艶かしく、天を泳ぐように飛ぶさまは、通常の鳥が飛翔する姿とはまた違って見えた。
牧の老爺に声をかけ、報酬を受け取ることにした。
どれどれとアダムの掘った穴を覗き見て、老爺が声をあげた。あたりが薄暗くなってきて底のほうは見えないが、穴は大人の男二人が連なっても手が届かないほどの深さまで達していた。水が出たらそこでやめようと考え、夢中で穴の底から石や土を放り出し、最後は近くの大きな樹に結んでおいた縄を使ってよじ登った。結局のところ水は出なかったが、ほとんど井戸のような深さになっている。
雨季にもそこそこは耐えられるよう、穴の壁面は板で押し固めてある。あとは牛が落ちこまないように、囲いを設けて雨除けの屋根でも備えつけてやれば、申し分のない仕上がりになるだろう。その作業は頼む宛があるらしく、アダムの仕事はここまでだった。
穴は牛の糞便を始末するためのもので、落ち葉などと一緒にして、順に埋め重ねるという。そうするとやがて土も肥えるので、作物を育てている者に求められると、なにかと交換する、というかたちで分けてやるのだそうだ。
深さこそないが、アダムが掘ったものと同じような穴がいくつか並んでいる。肥えた土が運び出されると、入れ替わりに痩せた土が運ばれてくるようだ。
牛は、糞の使い道もひとつではなかった。肥料だけでなく、乾かせば燃料にもなる。蓄えておけば薪がなくても火を熾すことができるため、荒地での野営などでも重宝するのだ。
一見すると貧しいこの村でも、村人がそれぞれに工夫をし、常に物を作って動かしているおかげで、質素ながらもみなが飢えることなく暮らしていられるのかもしれなかった。
顔の皺を深くして笑い、老爺が嬉しそうに礼を言う。用途を考えればいくらか深く掘りすぎたのかもしれないが、腰が曲がった老爺からすれば、充分すぎる助けとなったようだ。
老爺が報酬の追加を言いだしたが、アダムは笑って断った。もともとの報酬より貰いたくてやったわけではないのだ。
報酬は銭ではない。僻地の村にあるのは、宝飾品や珍しい石、薬草などの植物、あるいは獣の毛皮などである。老爺から受け取った布の小袋には、水晶の粒が詰まっていた。また別の地に持ちこめば、その価値も変わってくるだろう。
すでに暗くなりはじめている。アダムは束ねた髪を解き、そばの小川で爪の間に詰まった土を丁寧に流した。それから濡らした布で躰を拭うと、白杖を手に酒場に向かった。
通された席に着き、卓に届いた麦酒を呷る。
市の並ぶ通りの路地の奥、外観ではそれとわからないような、狭い酒場である。幅はないが奥行きがあるため、二十人くらいは一度に座れるだろう。入口のそばに棚台があり、その奥は厨房になっている。壁には、炳都でよく眼にするような、綺麗な装飾が施された布が飾られていた。
炳辣国で広く信仰されている原理神教では、禁酒が厳しく定められており、あまり公に店を構えるべきではない、という風潮がある。僻地であっても僧侶や信徒、巡礼者も少なくない。訊けば少しくらいはあつかっているのかもしれないが、市でも酒が並んでいるところは見かけなかった。いまのところ信仰が強く根づいていない南端の地域はともかく、いくらか中央に近いここらは酒自体が手に入りにくいようだ。
原理神教の信徒ではない者が集まるこの手の店は、隠れ酒場と呼ばれている。陽が暮れてそれほど経たないが、すでに揺れる火灯りのなかで七、八人が飲み食いしていた。
店の娘が、芋と豆を煮た料理と、魚を焼いたものをアダムの卓に置いた。
「ありがとう」
アダムが炳辣国の言葉で声をかけると、娘はにこりと笑って戻っていった。
芋の料理には磨り潰した辛味のある実が散らしてあり、においが湯気とともに立ち昇っている。
木の匙で掬い、息を吹きかけながら口に入れた。ほくほくとした芋と豆に、よく味が染みこんでいる。じっくりと煮詰めて汁気を飛ばしてあるようだ。口のなかで崩れた芋の中心はかなり熱く、アダムはたまらずそれを麦酒で流しこんだ。
飲みくだしたあともぴりぴりとした辛味が残っている。濃いめの味つけとともに、麦酒によく合っていた。ただし、芋はもう少し冷めてから口に入れたほうがよさそうだ。ひとまず匙の先で、大きめの芋の塊を割っておくことにする。
魚は近くの小川で獲ったもののようだ。腹を除き、壺窯でふっくらと焼いたもので、こちらもまた違ったにおいの辛味が利いていた。添えられた青菜も新鮮なものだ。出されたものに、いい加減なところはどこにもない。
普段は野営ばかりなので、手のこんだものを出しそうな店があると、たまには寄ってみることにしていた。煮こみ料理も壺窯焼きも、野営ではなかなか口にできるものではない。
それに炳辣国の料理は、特に香辛料の選び方が絶妙だとアダムは思っていた。ひとつの料理に使うのはせいぜい二、三種の香辛料だというが、それが簡単には真似できないのである。
店の娘が常連客らしい二人組に訊かれ、盗まれた首飾りの話をはじめていた。
祖母の形見で、夜はいつも身に着けて仕事をしていたが、朝にははずしており、掃除を終えて食材を仕入れに出た昼間に盗まれた。許せない。炳都から来ている衛兵に訴えたが、隠れ酒場で起きたことだといって取り合ってもらえなかった。そんな内容だった。よくある話だ。明るく徹る声だったので、アダムは聞き耳を立てるでもなく、酒と料理を口に運びながらなんとなく話を聞いていた。
改めて見ると娘はそうそう出会わないような美人だった。鼻梁にかすかな翳があるが、酒場の乱れた雰囲気に呑まれない華やかさのようなものがある。二十をいくつか越えたくらいか。おそらく、この娘が目当ての熱心な客もいることだろう。
アダムが料理を食べ終えたころ、不意に悲鳴と入り混じって怒鳴り声が響いた。一番奥の卓に座っていた男が立ちあがり、詰め寄った店の娘を睨みつけている。強気な姿勢で腰に手をあて、こちらに背を向けている娘の表情はわからない。
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