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雨潦
三
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農夫らしい衣服を身に着けた男だった。
四十をいくつか過ぎたといったところで、体格はいい。陽に灼けた褐色の肌。横幅の広い大きな鼻と、口まわりや顎を覆う縮れた黒髭が印象的だ。
直接、店の者やほかの酔客に暴力を振るったことは一度もないが、この男が物を投げたり声を荒げて酒場で暴れるのはこのところ頻繁で、繰り返すうちに衛兵も本気で相手をしようとはしなくなったという。店主も衛兵に対してあまり強くは要求できないのだろう。原理神教が布く禁酒のもとで、黙認されている隠れ酒場である。そしてこの村にいる衛兵は、みな炳都から赴任してきている。それはつまり原理神教の信徒でもあるということなのだった。
ともかく、アダムが店主から前もって頼まれていたのは、この酔っ払いを鎮め、今後店に出入りしないように追い払うことである。
行く先々でこういった依頼をいくつか受け、路銀を得ては流れ歩く。それがアダムの旅の基本だった。銭は必要な分だけがあればいい。余計に持つと腐らせてしまう。腐るのは銭ではない。心だ。アダムは、そう考えていた。
近づくと、いきなり木の器が飛んできた。わずかに横に動いてかわす。器は壁にあたり、音をたてて床に落ちた。
「てめえは関係ねえ、余所者は引っこんでろ」
「静かにしてもらえないか。迷惑している」
アダムが炳辣国の言葉で返すと、男がほんの少し怯む気配を見せた。言葉が通じると思っていなかったのか。視線。男が、ちらと店の出入口に眼をやった。ほかの客は勘定を済ませ、次々と逃げ帰るように店を出て行っているようだ。
男が続けて大声で怒鳴る。拳で卓を叩き、娘の態度に文句をつけている。明らかに理不尽な言いがかりだった。
割って入ろうと踏み出すと、男が手に執った木の棒をアダムに突きつけた。
「おい、聞こえなかったのかよ。それ以上近づいたら容赦しねえぞ」
唾を飛ばしながら、わめくように声をあげる男。構えなどなく隙だらけだった。引きつった表情。視線の定まらない眼の底にある、あるかなきかの怯えの色。
棒を払い、杖で打ち倒すのは容易いだろう。しかし、アダムは身を引いた。踵を返し、すぐに駆ける。
「なんだあ、この腰抜けが」
「ちょっと嘘でしょ、逃げるのっ?」
店を出るアダムの背に、酔っ払い男と酒場娘、双方の批難の声が飛ぶ。構わなかった。
闇に包まれた路地。市の並ぶ通りまで一気に駆け出る。左右を見る。左の道に、酔客に紛れるように背を丸めて先を急ぐ人影が見えた。
悟られないように、距離を開けて追った。月明かりを頼りにしばらく行く。やがて行き交う村民の姿が途絶え、遮るものがまばらな木々だけになった。どうにか見て取れる距離。気づかれてはいないはずだ。人影は一度も足を止めることなく、村はずれの牧のそばを通り抜け、その先の雑木林に入っていく。
水の流れる音が耳に届く。小川のそばの、岩の転がったあたりに人影は消えた。小川へ降りたようだ。アダムは岩に背をつけて、慎重に近づいた。
人影が、小川に面した岩の隙間から木箱を引き出している。押し殺したような低い笑い声。人影の懐から、なにか光るものが取り出された。酒瓶だ。次々に出てくる。アダムの予感通りだった。
あの酔っ払いが暴れる隙に、ほかの客と一緒に逃げ帰るふりをして、酒瓶を盗み去っていたのだ。幾度も繰り返していたに違いない。木箱のなかにも、無数の酒瓶が月明かりを照り返し、鈍く光っているのが見えた。
酒場の店主は、酒を盗まれていることは言わなかった。それをアダムに伏せておく理由はないはずだ。やり方が巧妙で、気づいていなかったとも考えられる。
気配。振り返ると、別の人影が近づいていた。
「鼠が嗅ぎつけやがったか」
暗がりで表情は見えないが、笑みを含んだ声は、酔っ払いを演じていた男のものではない。ほかにも仲間がいたということだ。
「余所者がいなくなったって誰も探さねえよなあ」
言い終える前に、男が腰に佩いた刃物を抜いた。月光に白く舞ったのは、肘から指先ほどの長さの鉈のような剣だ。間を置かずに斬撃がきた。身を翻し、アダムは杖の柄で振りおろされてきた鉈を撥ねあげた。
声を聞きつけて、小川に降りていた男もあがってきた。逆手で両手に鉈を持っている。こちらのほうが技に長け、身のこなしも軽いだろう。器用に酒を盗む役も負っていたのだ。
足場を測る。五歩。たいした遣い手だとは思えないが、二人が相手だ。鉈は三本。別々なのか、連携をするのか。向こうが先に踏みこんでこなければ、不用意に攻めるのは危険だった。
「逃げても無駄だ」
両手に鉈を持った男が言った。笑っているようだ。闇のなかに、暗く光る眼と歯だけが白く浮かびあがっている。
杖を握り直す。呼吸を読み、アダムは地を蹴った。
後ろに跳んでいた。それから木立の間を縫うように村に向かって駆けた。
攻撃を受けようと身構えたために、一瞬出遅れた二人が追ってくる。抑える様子もない殺気は本物だろう。口封じ。こんな小さな村の人間が盗賊の真似事をしていることが明るみに出るとなれば、村を出ていくしか道はないのだ。
樹間に村はずれの牧が見えた。枝をかわし、張り出した根に足をかけないよう跳んだ。柵も跳び越える。
「待て、この野郎っ」
構えもなく、両手に鉈を持った男が斬りこんでくる。アダムは躰を開いてそれをかわした。すれ違いざま、杖を出して足を引っかけてやると、男は勢いよく前方に転び、アダムの視界から消えた。もう一人。なりふり構わず斬りかかってくる。杖の頭で手の甲を打つと、男が鉈を落とした。そのままの勢いで突っこんできた男の腹に、身をかがめて肘を打ちこむ。膝を折った男の背後にまわり、背を軽く押すと、男は膝を抱くような恰好で倒れこみ、闇のなかに消えるようにアダムの視界から消えた。それだけだった。攻撃に連携というものはなく、たいした腕でもなかった。二人の男の呻き声だけが、いつまでも地の底から響いてくるように続いている。
割れた雲の隙間から、夜空に綺麗な三日月が出ていた。小川の両側に転がる岩は月光を照り返し、白っぽく見えている。
「ようよう、おめえら。今日は何本盗れたよ」
酔っ払いを演じた男が、なにも知らず意気揚々と戻ってきた。
アダムは二人の男を倒したあと再び酒隠しに戻り、酒の詰まった木箱に腰掛けて待っていたのだ。
「大量さ」
「だからよ、何本だよ」
アダムの適当な返答に苛つきながら、男はかなり近くまで歩み寄り、ようやく仲間ではないことに気づいたようだ。あっ、と小さく男の声が漏れた。
「おめえは、酒場にいた腰抜け野郎だな。俺たちの酒になにを、待てよ。おい、あいつらはどうした?」
アダムは答えなかった。俺たちの酒、とはよく言えたものだ。
木箱は引き出されたままで、岩の隙間の奥にはもうひとつ、錠のついた箱が押しこまれている。アダムは男の眼を見つめたまま、杖の先でその錠つき箱を指した。
「あの箱の鍵は?」
「なんだと」
今度は男の鼻先に杖の先端を突きつけた。
「鍵を持っているかと訊いてる。盗賊のお仲間と引き換えだ」
事態を察したらしく、男はひとつ舌打ちをしてから鍵を取り出した。一度、隙をうかがうような素振りを見せたが、諦めたようだ。酒場では派手に暴れて見せていたが、斬りかかってきた二人よりも、本当は臆病で慎重な男なのかもしれない。
箱からは、いくつかの高そうな酒と宝飾品が出てきた。どれも盗んだものに違いない。
「これで全部だ、満足かよ。ったく、なんでわかっちまったんだ」
「眼だよ」
「なに?」
「あんたの眼だ。これからやり合おうかという姿勢のときに、眼を泳がせ、ちらちらと店の出入口を確認していたろう。なにかある、と思ったのさ」
「そんな」
「臆病さが、滲み出してもいた。本気で立ち合おうとしている男の眼じゃない。仲間がいると感じたのは、ただの勘さ。だけど、はずれてなかったろ」
「くそっ。仲間はどこだ、この野郎」
アダムは男に笑みを投げかけ、黙って歩きだした。酒臭い息を吐いて荒ぶる男はぶつぶつと文句を言いながらも、アダムのあとをついてくる。
牧の近くまで歩くと、こもった叫び声が響いてきた。
「助けてくれっ、妖魔が、妖魔が出るんだ。脚を喰われちまうよ」
牧は闇のなかに揺れるように、ぼんやりと浮かびあがって見えている。騒ぎを聞きつけた村の者が数人、手灯りを持って牧のそばに集まってきていた。
周囲はざわついていたが、アダムは構わず柵を越え、牧に入った。軒下の人影に軽く片手をあげてみせる。この牧の老爺だ。
地の底から、泣き叫ぶ声が聞こえる。ずっと後ろをついてきた男が、アダムを押しのけるようにして前に出た。
男が恐る恐る、地に口を開けた穴を覗きこむ。アダムは男の尻にそっと足裏を添えて押してやった。
叫び声とともに、大きな音をたてて男の姿が穴に消えた。
「居心地は悪くないだろう、三人とも。ここは牛の糞便を埋める穴になるそうだ。せっかくだから土をかけてもらおうか」
アダムが明るい口調で穴のなかに声をかけると、三人の盗賊から口々に汚い言葉が返ってきた。簡単に這いあがれる深さではない。アダムが一日がかりで掘った穴だった。追われるようにしてここへ駆けてきたのはとっさの思いつきだったが、思わぬかたちで役立てることができた。
「連中、大騒ぎしておるが、本当に妖魔が出るのかね?」
牧の老爺が歩み寄ってきて心配そうに言った。アダムは思わず、笑って答えた。
「穴の底を走りまわっているとしたら土竜ですよ。妖魔じゃなくて」
村民が詰所に走って衛兵を呼び、男たちを引き渡した。
三人の盗賊は、協力すれば穴から出て逃げられたかもしれないが、誰が先に出るかで揉めていたようだ。仲間だなんだといっても、結局はその程度の関係だったということだ。
アダムは酒場の店主から呼ばれ、報酬を貰った。酒場では客と銭のやり取りがあるので、受け取った袋の中身は銭だった。
盗まれていた酒は大変な量だったという。少量ずつ持ち去られていたために、首を傾げながらもまさか盗まれているとは考えなかったらしい。飲みかけの酒瓶を持ち帰る客もおり、落として割れたものなども含めて、総数を正確に把握できていなかったことも問題だった、と店主は話した。
「酔っ払いを鎮めて追い出してほしいとは言いましたが、それだけではなく裏で起きていたことまで暴いて頂いて」
「たまたま読みが当たっただけですよ。そうだ、これを渡さないと」
「これは」
アダムが懐から棚台に出したものに眼をやって、店主が声をあげた。
「間違いないですか」
「ええ。これは私の、死んだ母のものです」
店主の娘が盗まれたと話していた、祖母の形見の首飾りだった。盗賊の、錠のついた箱から出てきたものだ。
衛兵に証拠品として押収されると、しばらく、もしくはずっと手もとに戻ってこないこともある。中央に提出されると、検証などをするうちにどこにあるかわからなくなった、などというのだ。呆れたことに、珍しいもの、高価なものであるほどその傾向にある。それを避けるために、アダムが密かに持ち帰ったのだった。
「待ってください、いま娘を起こしてきます。きっと天井に頭をぶつけるほど、跳びあがって喜びますよ」
「いや、わざわざ起こすことはありません。娘さんには、明日の朝にでも渡してください」
「そんな。娘はあなたが、あの酔っ払いから逃げ出したのだと誤解したままなんですよ、アダムさん」
「店を駆け出たのは事実です。それも彼女を、酔って暴れる男の前に残して。それは責められて然るべきでしょう」
「しかしそれは」
「明朝にはこの村を発ちます。よろしくお伝えください」
アダムが笑ってみせると、店主は引きとめることを諦め、何度も頭をさげて礼の言葉を重ねた。
「そうだ、北の集落に立ち寄ることがあれば、雑貨商の旦那を訪ねてみてください。私は今日、仕入れ先でたまたま会ったのですが、特別に大事な仕事だとかで、腕の立つ、信頼できる人を探している、と言っていました。アダムさんなら、きっとぴったりだ」
話しながら、店主は薄っすらと涙まで浮かべている。真直ぐな、いい眼だった。これからも娘と二人、真当な商売を続けていくだろう。
別れ際、店主はどうしてもと高価な酒を一本押して寄越した。押しに折れて酒を受け取り、アダムは店をあとにした。
路地を縫って、市の並ぶ通りに出る。昼間の熱気を帯びたような賑わいが嘘のように、通りは静まり返っていた。躰を包む夜気だけは、夜更けにも関わらず湿り気を帯びたままだ。
アダムは生温さに抱かれてしばらく歩きながら、北の集落に寄って話だけでも聞いてみるか、という気になっている自分に気づいた。もともと、北へ伸びる街道を行くつもりでいたのだ。
空には、三日月が静かにたたずんでいる。かすかに照らし出された夜道は、仄白く浮かんでいるようにも見えた。
四十をいくつか過ぎたといったところで、体格はいい。陽に灼けた褐色の肌。横幅の広い大きな鼻と、口まわりや顎を覆う縮れた黒髭が印象的だ。
直接、店の者やほかの酔客に暴力を振るったことは一度もないが、この男が物を投げたり声を荒げて酒場で暴れるのはこのところ頻繁で、繰り返すうちに衛兵も本気で相手をしようとはしなくなったという。店主も衛兵に対してあまり強くは要求できないのだろう。原理神教が布く禁酒のもとで、黙認されている隠れ酒場である。そしてこの村にいる衛兵は、みな炳都から赴任してきている。それはつまり原理神教の信徒でもあるということなのだった。
ともかく、アダムが店主から前もって頼まれていたのは、この酔っ払いを鎮め、今後店に出入りしないように追い払うことである。
行く先々でこういった依頼をいくつか受け、路銀を得ては流れ歩く。それがアダムの旅の基本だった。銭は必要な分だけがあればいい。余計に持つと腐らせてしまう。腐るのは銭ではない。心だ。アダムは、そう考えていた。
近づくと、いきなり木の器が飛んできた。わずかに横に動いてかわす。器は壁にあたり、音をたてて床に落ちた。
「てめえは関係ねえ、余所者は引っこんでろ」
「静かにしてもらえないか。迷惑している」
アダムが炳辣国の言葉で返すと、男がほんの少し怯む気配を見せた。言葉が通じると思っていなかったのか。視線。男が、ちらと店の出入口に眼をやった。ほかの客は勘定を済ませ、次々と逃げ帰るように店を出て行っているようだ。
男が続けて大声で怒鳴る。拳で卓を叩き、娘の態度に文句をつけている。明らかに理不尽な言いがかりだった。
割って入ろうと踏み出すと、男が手に執った木の棒をアダムに突きつけた。
「おい、聞こえなかったのかよ。それ以上近づいたら容赦しねえぞ」
唾を飛ばしながら、わめくように声をあげる男。構えなどなく隙だらけだった。引きつった表情。視線の定まらない眼の底にある、あるかなきかの怯えの色。
棒を払い、杖で打ち倒すのは容易いだろう。しかし、アダムは身を引いた。踵を返し、すぐに駆ける。
「なんだあ、この腰抜けが」
「ちょっと嘘でしょ、逃げるのっ?」
店を出るアダムの背に、酔っ払い男と酒場娘、双方の批難の声が飛ぶ。構わなかった。
闇に包まれた路地。市の並ぶ通りまで一気に駆け出る。左右を見る。左の道に、酔客に紛れるように背を丸めて先を急ぐ人影が見えた。
悟られないように、距離を開けて追った。月明かりを頼りにしばらく行く。やがて行き交う村民の姿が途絶え、遮るものがまばらな木々だけになった。どうにか見て取れる距離。気づかれてはいないはずだ。人影は一度も足を止めることなく、村はずれの牧のそばを通り抜け、その先の雑木林に入っていく。
水の流れる音が耳に届く。小川のそばの、岩の転がったあたりに人影は消えた。小川へ降りたようだ。アダムは岩に背をつけて、慎重に近づいた。
人影が、小川に面した岩の隙間から木箱を引き出している。押し殺したような低い笑い声。人影の懐から、なにか光るものが取り出された。酒瓶だ。次々に出てくる。アダムの予感通りだった。
あの酔っ払いが暴れる隙に、ほかの客と一緒に逃げ帰るふりをして、酒瓶を盗み去っていたのだ。幾度も繰り返していたに違いない。木箱のなかにも、無数の酒瓶が月明かりを照り返し、鈍く光っているのが見えた。
酒場の店主は、酒を盗まれていることは言わなかった。それをアダムに伏せておく理由はないはずだ。やり方が巧妙で、気づいていなかったとも考えられる。
気配。振り返ると、別の人影が近づいていた。
「鼠が嗅ぎつけやがったか」
暗がりで表情は見えないが、笑みを含んだ声は、酔っ払いを演じていた男のものではない。ほかにも仲間がいたということだ。
「余所者がいなくなったって誰も探さねえよなあ」
言い終える前に、男が腰に佩いた刃物を抜いた。月光に白く舞ったのは、肘から指先ほどの長さの鉈のような剣だ。間を置かずに斬撃がきた。身を翻し、アダムは杖の柄で振りおろされてきた鉈を撥ねあげた。
声を聞きつけて、小川に降りていた男もあがってきた。逆手で両手に鉈を持っている。こちらのほうが技に長け、身のこなしも軽いだろう。器用に酒を盗む役も負っていたのだ。
足場を測る。五歩。たいした遣い手だとは思えないが、二人が相手だ。鉈は三本。別々なのか、連携をするのか。向こうが先に踏みこんでこなければ、不用意に攻めるのは危険だった。
「逃げても無駄だ」
両手に鉈を持った男が言った。笑っているようだ。闇のなかに、暗く光る眼と歯だけが白く浮かびあがっている。
杖を握り直す。呼吸を読み、アダムは地を蹴った。
後ろに跳んでいた。それから木立の間を縫うように村に向かって駆けた。
攻撃を受けようと身構えたために、一瞬出遅れた二人が追ってくる。抑える様子もない殺気は本物だろう。口封じ。こんな小さな村の人間が盗賊の真似事をしていることが明るみに出るとなれば、村を出ていくしか道はないのだ。
樹間に村はずれの牧が見えた。枝をかわし、張り出した根に足をかけないよう跳んだ。柵も跳び越える。
「待て、この野郎っ」
構えもなく、両手に鉈を持った男が斬りこんでくる。アダムは躰を開いてそれをかわした。すれ違いざま、杖を出して足を引っかけてやると、男は勢いよく前方に転び、アダムの視界から消えた。もう一人。なりふり構わず斬りかかってくる。杖の頭で手の甲を打つと、男が鉈を落とした。そのままの勢いで突っこんできた男の腹に、身をかがめて肘を打ちこむ。膝を折った男の背後にまわり、背を軽く押すと、男は膝を抱くような恰好で倒れこみ、闇のなかに消えるようにアダムの視界から消えた。それだけだった。攻撃に連携というものはなく、たいした腕でもなかった。二人の男の呻き声だけが、いつまでも地の底から響いてくるように続いている。
割れた雲の隙間から、夜空に綺麗な三日月が出ていた。小川の両側に転がる岩は月光を照り返し、白っぽく見えている。
「ようよう、おめえら。今日は何本盗れたよ」
酔っ払いを演じた男が、なにも知らず意気揚々と戻ってきた。
アダムは二人の男を倒したあと再び酒隠しに戻り、酒の詰まった木箱に腰掛けて待っていたのだ。
「大量さ」
「だからよ、何本だよ」
アダムの適当な返答に苛つきながら、男はかなり近くまで歩み寄り、ようやく仲間ではないことに気づいたようだ。あっ、と小さく男の声が漏れた。
「おめえは、酒場にいた腰抜け野郎だな。俺たちの酒になにを、待てよ。おい、あいつらはどうした?」
アダムは答えなかった。俺たちの酒、とはよく言えたものだ。
木箱は引き出されたままで、岩の隙間の奥にはもうひとつ、錠のついた箱が押しこまれている。アダムは男の眼を見つめたまま、杖の先でその錠つき箱を指した。
「あの箱の鍵は?」
「なんだと」
今度は男の鼻先に杖の先端を突きつけた。
「鍵を持っているかと訊いてる。盗賊のお仲間と引き換えだ」
事態を察したらしく、男はひとつ舌打ちをしてから鍵を取り出した。一度、隙をうかがうような素振りを見せたが、諦めたようだ。酒場では派手に暴れて見せていたが、斬りかかってきた二人よりも、本当は臆病で慎重な男なのかもしれない。
箱からは、いくつかの高そうな酒と宝飾品が出てきた。どれも盗んだものに違いない。
「これで全部だ、満足かよ。ったく、なんでわかっちまったんだ」
「眼だよ」
「なに?」
「あんたの眼だ。これからやり合おうかという姿勢のときに、眼を泳がせ、ちらちらと店の出入口を確認していたろう。なにかある、と思ったのさ」
「そんな」
「臆病さが、滲み出してもいた。本気で立ち合おうとしている男の眼じゃない。仲間がいると感じたのは、ただの勘さ。だけど、はずれてなかったろ」
「くそっ。仲間はどこだ、この野郎」
アダムは男に笑みを投げかけ、黙って歩きだした。酒臭い息を吐いて荒ぶる男はぶつぶつと文句を言いながらも、アダムのあとをついてくる。
牧の近くまで歩くと、こもった叫び声が響いてきた。
「助けてくれっ、妖魔が、妖魔が出るんだ。脚を喰われちまうよ」
牧は闇のなかに揺れるように、ぼんやりと浮かびあがって見えている。騒ぎを聞きつけた村の者が数人、手灯りを持って牧のそばに集まってきていた。
周囲はざわついていたが、アダムは構わず柵を越え、牧に入った。軒下の人影に軽く片手をあげてみせる。この牧の老爺だ。
地の底から、泣き叫ぶ声が聞こえる。ずっと後ろをついてきた男が、アダムを押しのけるようにして前に出た。
男が恐る恐る、地に口を開けた穴を覗きこむ。アダムは男の尻にそっと足裏を添えて押してやった。
叫び声とともに、大きな音をたてて男の姿が穴に消えた。
「居心地は悪くないだろう、三人とも。ここは牛の糞便を埋める穴になるそうだ。せっかくだから土をかけてもらおうか」
アダムが明るい口調で穴のなかに声をかけると、三人の盗賊から口々に汚い言葉が返ってきた。簡単に這いあがれる深さではない。アダムが一日がかりで掘った穴だった。追われるようにしてここへ駆けてきたのはとっさの思いつきだったが、思わぬかたちで役立てることができた。
「連中、大騒ぎしておるが、本当に妖魔が出るのかね?」
牧の老爺が歩み寄ってきて心配そうに言った。アダムは思わず、笑って答えた。
「穴の底を走りまわっているとしたら土竜ですよ。妖魔じゃなくて」
村民が詰所に走って衛兵を呼び、男たちを引き渡した。
三人の盗賊は、協力すれば穴から出て逃げられたかもしれないが、誰が先に出るかで揉めていたようだ。仲間だなんだといっても、結局はその程度の関係だったということだ。
アダムは酒場の店主から呼ばれ、報酬を貰った。酒場では客と銭のやり取りがあるので、受け取った袋の中身は銭だった。
盗まれていた酒は大変な量だったという。少量ずつ持ち去られていたために、首を傾げながらもまさか盗まれているとは考えなかったらしい。飲みかけの酒瓶を持ち帰る客もおり、落として割れたものなども含めて、総数を正確に把握できていなかったことも問題だった、と店主は話した。
「酔っ払いを鎮めて追い出してほしいとは言いましたが、それだけではなく裏で起きていたことまで暴いて頂いて」
「たまたま読みが当たっただけですよ。そうだ、これを渡さないと」
「これは」
アダムが懐から棚台に出したものに眼をやって、店主が声をあげた。
「間違いないですか」
「ええ。これは私の、死んだ母のものです」
店主の娘が盗まれたと話していた、祖母の形見の首飾りだった。盗賊の、錠のついた箱から出てきたものだ。
衛兵に証拠品として押収されると、しばらく、もしくはずっと手もとに戻ってこないこともある。中央に提出されると、検証などをするうちにどこにあるかわからなくなった、などというのだ。呆れたことに、珍しいもの、高価なものであるほどその傾向にある。それを避けるために、アダムが密かに持ち帰ったのだった。
「待ってください、いま娘を起こしてきます。きっと天井に頭をぶつけるほど、跳びあがって喜びますよ」
「いや、わざわざ起こすことはありません。娘さんには、明日の朝にでも渡してください」
「そんな。娘はあなたが、あの酔っ払いから逃げ出したのだと誤解したままなんですよ、アダムさん」
「店を駆け出たのは事実です。それも彼女を、酔って暴れる男の前に残して。それは責められて然るべきでしょう」
「しかしそれは」
「明朝にはこの村を発ちます。よろしくお伝えください」
アダムが笑ってみせると、店主は引きとめることを諦め、何度も頭をさげて礼の言葉を重ねた。
「そうだ、北の集落に立ち寄ることがあれば、雑貨商の旦那を訪ねてみてください。私は今日、仕入れ先でたまたま会ったのですが、特別に大事な仕事だとかで、腕の立つ、信頼できる人を探している、と言っていました。アダムさんなら、きっとぴったりだ」
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別れ際、店主はどうしてもと高価な酒を一本押して寄越した。押しに折れて酒を受け取り、アダムは店をあとにした。
路地を縫って、市の並ぶ通りに出る。昼間の熱気を帯びたような賑わいが嘘のように、通りは静まり返っていた。躰を包む夜気だけは、夜更けにも関わらず湿り気を帯びたままだ。
アダムは生温さに抱かれてしばらく歩きながら、北の集落に寄って話だけでも聞いてみるか、という気になっている自分に気づいた。もともと、北へ伸びる街道を行くつもりでいたのだ。
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