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往来
二
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濡れた竹林が朝陽に輝いて見えた。
久しぶりの晴れ間である。とはいえ、空全体が晴れ渡るということはなく、またすぐにでも雨を落としはじめそうな厚い雲が流れていた。
アダムは炳北の山中を、わずかな目印を頼りに歩いていた。風は生温いが、ぶつかり合って鳴り響く竹の音が小気味よく、擦れたアダムの気持ちを、どことなくなだめているようにも感じられた。
斜面をくだる。足を踏み出すたびに、背中に鈍い痛みが走る。隠術師に捕まったときに棒で打たれた箇所は、しばらく腫れが引かなかった。アダムを喋らせるため、ひと打ちごとの力はある程度加減されてはいたが、ずいぶんと執拗に打たれたのだ。
歩きはじめは気分が悪くなったが、一度腹のなかのものを吐き出すと、そのまま休まずに進んだ。耐えられないほどの痛みではなかった。絶えず躰を動かし続けたことで、治りも早かったような気がする。いまは腫れも治まり、痛みは遠いものになっていた。旅続きで怪我をすることはよくあったが、我ながら頑丈な躰だ、とアダムはどこか呆れるような気分だった。
それでもやはり、道もないような山歩きは躰にこたえた。
所属不明の隠術師に接触し、孟国襲撃についての情報を得ようとした。そのために、わざと捕らえられるように動きまわったのだ。縛られたまま歩き、言葉を選んで探りを入れてみたが、これといった話を聞き出すことはできなかった。さすがは隠術師、というべきなのか。尻尾を掴ませないような言葉で、上手く受け流されたという恰好だった。
最初の棒打ちだけの拷問には耐えられた。連中には、路銀稼ぎが目的の旅人だと思われていたようなので、あれくらいの拷問でも口を割ると考えたのだろう。アダムがあのまま口を閉ざし続ければ、次第により苛烈な仕打ちへと変わっていったはずだ。
なにかひとつ、手掛かりになるものを得られないか。アダムがそう考えていたとき、隠術師に生け捕りにされていた虎が檻を破った。アダムは躊躇わず、その隙を衝いて逃げ出すことを決めた。なるべく多くの情報が欲しかったのは確かだが、絶えず二人の見張りが戸口に立っていたので、機会さえあれば早めに逃げ出すべきだ、とはじめから考えていたのだ。その判断は誤ってはいなかったはずだ。後ろ手に縛られて虎と立ち合うなど、考えたくもないことだった。
竹林を歩き続けた。途中の岩場で湧き水を飲んだあと、近くの小川で小魚を獲って腹を満たした。腹が減っていたので焼きもせず、手掴みで捕らえるとそのままかぶりついた。石を並べて流れを堰き止め、小魚が数匹入ってきたところに石を叩きつける、という荒っぽいやり方である。趣はないが、ときにはこんな食い方も悪くない、とアダムは思った。
魚を平らげると流れで手と口まわりを洗い、岩場に腰掛けてひと休みした。この岩場が、最後の目印になる。ルネルの待つ小屋は、あと一刻(約三十分)ほど北に進んだところにある。念のため遠まわりをしたが、追手の気配はない。
アダムは小屋にたどり着く前に、もう一度わかっていることを簡単に整理することにした。手もとにある情報だけで、ルネルを納得させられるのか。そのことについてはあまり深く考えないようにした。決めるのはルネル自身である。アダムはただ、事実だけを伝えることに徹するしかない。
ルネルと会う前に、森でアダムを襲った隠術師。そして、アダムを捕らえてルネルの居場所を吐かせようとした隠術師。改めて思い返してみても、やはり少人数での連携に優れた、同じ一派のように思えた。追跡の方法や追われながら聞いた連中の指笛の音色も、よく似たものだったのだ。
あえて捕らえられたことによって、そこから得られたものは決して多くはなかったが、見えてくるものは確かにあった。
連中はまず、ルネルの使者を名乗ったアダムを捕らえ、ルネルの居場所を聞き出そうとした。単純なことだが、ルネルの居場所すら掴めていない、ということがはっきりとした。いまのところ、身を隠すことには成功しているということになる。
連中は、ルネルを探している。見つければ、迷わず殺すだろう。その理由まではわからないが、蕘皙国による孟国の襲撃に、あの隠術師たちも関わっている。それは、ほぼ間違いのないことだろう。
アダムは懐から、拳ほどの大きさの布袋を出した。虎が暴れた騒ぎに乗じて小屋から持ち出した、隠術師たちの薬草袋である。平らな石に広げ、もう一度、中身を確かめる。
所属や、身元を示すようなものはない。ほとんどが薬草か、煮詰めて作った軟膏だった。小石のような黒い丸薬もあるが、なんのための薬なのか、ということまではわからなかった。
アダムが注目したのは、笹の葉に包まれた白い軟膏である。それは炳都の薬専術に精通する者が、独自の製法で作るものと酷似していた。炳都以外では、見たことのない軟膏だ。切創や火傷に効く植物、蓊草のにおいも強い。
薬を広げた石の表面に、ぽつぽつと色がつきはじめた。雨が落ちてきているのだ。アダムは薬を袋に戻し、足早に小屋に向かった。
ルネルは、小屋の奥にいた。警戒して槍を手に構えてはいたが、表情には疲れが色濃く滲み出ている。アダムが声を掛けると、うなだれるように槍先をさげた。
「腹は減っていないか?」
アダムがぶらさげた小魚を持ちあげて見せると、ルネルは力なく首を振って答えた。
火床の端に投げこまれて黒くなっている、兎や魚の骨らしきものが見えた。食い繋ぐことはできていたようだ。山の麓の老婆がいろいろと届けていたらしく、竹籠には山菜も盛られていた。壁際の隅には、アダムの荷袋と白杖がそのままの状態で置かれている。
雨音は強くなっている。昼を過ぎたあたりだが、小屋のなかは薄暗かった。アダムは燠だけになっている火床に薪を足し、両足を投げ出して座りこんだ。
「無事でよかった」
「お互いにね」
ルネルがかすかに笑う。明らかに憔悴している、といった笑顔だった。気の強そうな眼差しもどこか翳りを帯びて、声にもあまり力がない。無理もないことだった。
「なにか変わったことは?」
「なにも。この小屋は、静かなものだった。婆やが何度も足を運んでくれて、話し相手や、食べるものにも困らなかった。無関係なあなたが動きまわっているのに、私にはなにもできないことが、たまらなく苦痛だったけど」
「耐えるしかないさ。この小屋でじっと待つ。それが条件だったはずだ」
「それであなたのほうは、なにかわかった?」
「最初に断っておくが、結論は出ていない」
「襲撃の理由を調べきれなかった、ということ?」
「手掛かりらしきものはいくつか得られた。そこから推測できることもある。ただ、これまで以上に踏みこんで調べるには、決めなければならないことがある。だから一度、ここへ戻ってきた」
「聞かせて」
アダムはうなずき、ひとつひとつ丁寧に話していった。
孟王城周辺の豪族たちは、ルネルの父である孟王を慕っていた。試みに、アダムが豪族に限定してルネルの使者を名乗っても、どこかが不穏な動きを見せたということはなかった。それは、豪族たちのなかに孟王を裏切るような者はいなかった、ということの証だと捉えてもいいだろう。
豪族の動きを確かめたあと、アダムがルネルの使者であることを適当に触れまわると、今度はほどなくして隠術師に追われはじめた。アダムが、あえて密かに逃げ出す素振りを見せ、夜のうちに集落を抜け出すと、隠術師たちは森まで追いかけてきてアダムを拘束した。
はじめてルネルと出会う前に、森でアダムを襲った隠術師。それから炳西でアダムを拘束した隠術師はおそらく同じ一派で、炳辣国の広い範囲を動いている。
そして隠術師たちは、いまもルネルを探していた。孟王城を襲撃したのは、西域の蕘皙国であることは間違いない。そのことは豪族たちも確認していたし、実際に西域の白駱駝部隊も入ってきている。
動きを見るかぎり、あの隠術師の一派は西域とどこかで通じている可能性が高かった。西域が孟王城を落としたのは、ルネルが継ぐ孟王、それからグゼイブ王家そのものを狙ったものだとも考えることができる。
そうなると、孟王城の宝物庫から消えた地図のことも、ありそうなこととして思い浮かんできた。地図を盗み出した者がいるとすれば、あの隠術師の一派であると考えるのが妥当なのかもしれない。
細かなことまでルネルに話す。そうすることで、同時にアダム自身が手もとの情報を確かめることにもなっていた。
「これは薬草ね。この黒い粒は、毒草を煮詰めて練ったものだと思う。孟国の隠術師も似たものを持っていた」
床に広げた薬草袋の中身を眺め、ルネルが呟いた。
「こっちの白い軟膏はどうだ?」
「これは多分、傷薬よね。こういう軟膏は炳都でいろいろと作られているみたいだけど、炳北にはない。孟国にもね。森や山に薬草は生えているけど、同じような軟膏を作れる術師がいないのよ。余所にあっても大抵はもっと黒ずんでいるか、草色ね」
「やはりそうか」
「どういうこと?」
答えず、アダムはしばし黙して考えをめぐらせた。ルネルが、アダムの顔を覗きこむように見あげてくる。
「孟王城から、炳都まではどれくらいかかる、ルネル」
「歩けば、ふた月はかかる。このあたりが辺境といわれるのも、うなずけるでしょ?」
「ずっと引っかかっていたことがある」
アダムの言葉に、ルネルが訝しげな表情で首を傾げた。
「炳都は孟王城が攻められても、西域の蕘皙国に対してなんら動きを見せていない。それはなぜだ」
「炳北の地方領主。もともとその程度にしか見られていなかったのよ、孟王は」
ルネルはそう言って肩を竦めて見せたが、孟王を信頼していた豪族たちは、炳都の動きが遅いことに対して、強い憤りと苛立ちを口にしていた。彼らの話を聞きながらアダムが感じたのは、遅いのではなく、炳都には動く気がないのではないか、ということだった。
「良馬の少ない炳辣国とはいえ、炳都にはそれなりの馬を揃えているはずだろう。たとえ常歩の行軍でも、ひと月ほどでたどり着く。決着のついた戦にはすぐさま駆けつけられなくとも、四か月が経過して事後処理もないのは、不自然だとは思わないか」
「もう落ちてしまった城を、どうにかしようとするものなのかしら」
「炳都からすれば、自領に侵入されて城ひとつを落とされたうえに、そこに居座られているわけだぞ。壁に穴を開けて棲み着いた鼠を、大きな屋敷だからという理由で放っておく当主が、果たしているだろうか」
ルネルが、少し考える表情をした。
火床に焚べた薪は燃え尽き、いつの間にか燠だけになっている。濡れていたアダムの套衣も、床の上ですっかり乾いていた。
不意に、ルネルの表情が歪んだ。
「まさか、そんなこと」
「確かにまだ、私の推測でしかない。だが、いまある情報を整理すると、炳都の関与を考えずにはいられない」
「原理神教の中心地なのよ、炳都というところは。寺院と多くの僧侶がいて、民のみんなが敬虔な信徒なの」
「それでも、炳都の上層部が隠術師を抱えていることは、暗黙のうちに知られている。ひと口に信仰といっても、すべてが清廉潔白というわけにはいかないものさ。その隠術師も信徒であるという話だが、ときに手を汚すような任務を課せられる連中を使っていることに違いはない。それは、孟国も同じようなものだったはずだ」
「だけど、隠術師を使う国は、炳都や孟国以外にだってあるもの。よりによって、炳都であるはずがない」
「君も見た通り、私を拘束した隠術師が携行していた軟膏は炳都のものだ。それに連中の喋る言葉に、炳南や炳北の地方訛りはまったくなかった」
「原理の神々が、許されるはずはない。あり得ないことを言うあなただって、きっと神々の怒りを買うわ」
「そうかもしれない。だがもし事実だとすると、隠術師がわざわざ生け捕りにしていた、あの炳東虎にも説明がつくんだ」
「どんな?」
「君は知らないかもしれないが、炳都では古くから、美しい柄の虎を檻に入れて見世物にしたり、あるいは罪人の処刑のひとつとして虎と闘わせ、それを王侯などが見物して愉しむ、といった具合に利用されてるんだ」
炳都の関与。限られた情報を読み解いていくと、どうしてもそれが浮き出てくる。
ルネルは、思い詰めた顔でうつむいていた。火床の燠に、じっと眼をやっている。
「決めるのは君だ、ルネル」
ここで切りあげて、北へと越境をするという選択もある。幸い、いまのところ姿を隠すことには成功しているのだ。深入りをすれば、知りたくもないことを知ることになるかもしれない。そうなれば、いま以上に傷つくのは結局のところ、ルネルなのだった。
「彼は、エフレムについては?」
「いまはまだ、なにも。彼が流刑先の離島で大人しくしていれば、見つけることは難しくないとは思うが」
「思い出したの」
「なにをだ?」
「私に、母の形見が宝物庫にあると告げたのは、父が重く用いていた文官だった。その男が、エフレムを呼び止めて話しているところを見たの。私が、いつ宝物庫の鍵を持ち出そうかと、考えていたときだった」
「なんの話をしていたか覚えてるか」
「前に流産した馬のことだったと思う。エフレムはその雌馬を見るために、厩をよく覗いていたのよ」
「城が攻められたとき、その文官は?」
「それが、姿を見なかった。いつでも父の近くに控えていたのに。父がなにか命じていたのかもしれないけど、一度も見ていない」
喋りながら、ルネルがわなわなと身を震わせ、何度も首を振った。膝の上で握られた拳に、力がこめられている。
内応の可能性が出てきた。それも、孟王の側近ともいえる男だったようだ。ルネルに宝物庫を開けさせ、隠術師を招き入れたのか。あるいはその男自身が、地図を持ち出したのか。
ルネルが、眼の端からこぼれかけた涙を、指先で払った。
「誰も信じない。信じられるのは結局、原理神教の神だけよ」
「だろうな。自分自身を含め、なにも信じられない者がすがるものさ、大抵の宗教というのは。こういう状況では、頼らざるを得ない。それも仕方のないことだとは思う」
「なによ。だったら、どんな状況に陥っても、あなたは信じないって言うの?」
「私は、神を信じていない」
アダムは、宗教というものを心の底では信じていなかった。故郷にはなかったものだ。だから焼け落ちた、と信仰する者には言われるのかもしれない。それは盲信する者のある種の詭弁だ。すべては、物事が起きたあとの解釈のひとつでしかない、とアダムは思っていた。
信じようと信じまいと、人は生きて死ぬしかない。宗教というものは、民が苦しまずに生きるための、物事の考え方を教える、その学問のようなものであればいい。どんな宗教でも、興りはじめはそうだったはずなのだ。
ルネルの返事を聞くまでもなかった。アダムは一度大きく息をつき、套衣を羽織ってすぐに腰をあげた。
「待って。私にも、できることがあるはず。なにかさせて」
「ここで待つんだ。動きまわれば、すぐに連中が嗅ぎつける」
「これ以上、じっとしているなんて耐えられない。これはきっと、原理の神々が私に与えた試練なのよ。私は、自分の宿業を払わなければならない。向き合わなければならないの」
「神のために死のうとは思うな、ルネル。信仰というやつはいつだって、生きる者のためにあるものだ」
涙に潤んだルネルの眼が、アダムの眼の奥を見つめてくる。
弱々しく憔悴しきった細い肩を、抱きとめてやりたかった。だが、それは自分の役目ではない。アダムはそう自分に言い聞かせ、ルネルの視線を振り切るように背を向けた。
白杖だけを手に執り、小屋を出る。
最後に夕陽を見たのはいつだったのか。雨の竹林は、濡れた闇に包まれはじめていた。
久しぶりの晴れ間である。とはいえ、空全体が晴れ渡るということはなく、またすぐにでも雨を落としはじめそうな厚い雲が流れていた。
アダムは炳北の山中を、わずかな目印を頼りに歩いていた。風は生温いが、ぶつかり合って鳴り響く竹の音が小気味よく、擦れたアダムの気持ちを、どことなくなだめているようにも感じられた。
斜面をくだる。足を踏み出すたびに、背中に鈍い痛みが走る。隠術師に捕まったときに棒で打たれた箇所は、しばらく腫れが引かなかった。アダムを喋らせるため、ひと打ちごとの力はある程度加減されてはいたが、ずいぶんと執拗に打たれたのだ。
歩きはじめは気分が悪くなったが、一度腹のなかのものを吐き出すと、そのまま休まずに進んだ。耐えられないほどの痛みではなかった。絶えず躰を動かし続けたことで、治りも早かったような気がする。いまは腫れも治まり、痛みは遠いものになっていた。旅続きで怪我をすることはよくあったが、我ながら頑丈な躰だ、とアダムはどこか呆れるような気分だった。
それでもやはり、道もないような山歩きは躰にこたえた。
所属不明の隠術師に接触し、孟国襲撃についての情報を得ようとした。そのために、わざと捕らえられるように動きまわったのだ。縛られたまま歩き、言葉を選んで探りを入れてみたが、これといった話を聞き出すことはできなかった。さすがは隠術師、というべきなのか。尻尾を掴ませないような言葉で、上手く受け流されたという恰好だった。
最初の棒打ちだけの拷問には耐えられた。連中には、路銀稼ぎが目的の旅人だと思われていたようなので、あれくらいの拷問でも口を割ると考えたのだろう。アダムがあのまま口を閉ざし続ければ、次第により苛烈な仕打ちへと変わっていったはずだ。
なにかひとつ、手掛かりになるものを得られないか。アダムがそう考えていたとき、隠術師に生け捕りにされていた虎が檻を破った。アダムは躊躇わず、その隙を衝いて逃げ出すことを決めた。なるべく多くの情報が欲しかったのは確かだが、絶えず二人の見張りが戸口に立っていたので、機会さえあれば早めに逃げ出すべきだ、とはじめから考えていたのだ。その判断は誤ってはいなかったはずだ。後ろ手に縛られて虎と立ち合うなど、考えたくもないことだった。
竹林を歩き続けた。途中の岩場で湧き水を飲んだあと、近くの小川で小魚を獲って腹を満たした。腹が減っていたので焼きもせず、手掴みで捕らえるとそのままかぶりついた。石を並べて流れを堰き止め、小魚が数匹入ってきたところに石を叩きつける、という荒っぽいやり方である。趣はないが、ときにはこんな食い方も悪くない、とアダムは思った。
魚を平らげると流れで手と口まわりを洗い、岩場に腰掛けてひと休みした。この岩場が、最後の目印になる。ルネルの待つ小屋は、あと一刻(約三十分)ほど北に進んだところにある。念のため遠まわりをしたが、追手の気配はない。
アダムは小屋にたどり着く前に、もう一度わかっていることを簡単に整理することにした。手もとにある情報だけで、ルネルを納得させられるのか。そのことについてはあまり深く考えないようにした。決めるのはルネル自身である。アダムはただ、事実だけを伝えることに徹するしかない。
ルネルと会う前に、森でアダムを襲った隠術師。そして、アダムを捕らえてルネルの居場所を吐かせようとした隠術師。改めて思い返してみても、やはり少人数での連携に優れた、同じ一派のように思えた。追跡の方法や追われながら聞いた連中の指笛の音色も、よく似たものだったのだ。
あえて捕らえられたことによって、そこから得られたものは決して多くはなかったが、見えてくるものは確かにあった。
連中はまず、ルネルの使者を名乗ったアダムを捕らえ、ルネルの居場所を聞き出そうとした。単純なことだが、ルネルの居場所すら掴めていない、ということがはっきりとした。いまのところ、身を隠すことには成功しているということになる。
連中は、ルネルを探している。見つければ、迷わず殺すだろう。その理由まではわからないが、蕘皙国による孟国の襲撃に、あの隠術師たちも関わっている。それは、ほぼ間違いのないことだろう。
アダムは懐から、拳ほどの大きさの布袋を出した。虎が暴れた騒ぎに乗じて小屋から持ち出した、隠術師たちの薬草袋である。平らな石に広げ、もう一度、中身を確かめる。
所属や、身元を示すようなものはない。ほとんどが薬草か、煮詰めて作った軟膏だった。小石のような黒い丸薬もあるが、なんのための薬なのか、ということまではわからなかった。
アダムが注目したのは、笹の葉に包まれた白い軟膏である。それは炳都の薬専術に精通する者が、独自の製法で作るものと酷似していた。炳都以外では、見たことのない軟膏だ。切創や火傷に効く植物、蓊草のにおいも強い。
薬を広げた石の表面に、ぽつぽつと色がつきはじめた。雨が落ちてきているのだ。アダムは薬を袋に戻し、足早に小屋に向かった。
ルネルは、小屋の奥にいた。警戒して槍を手に構えてはいたが、表情には疲れが色濃く滲み出ている。アダムが声を掛けると、うなだれるように槍先をさげた。
「腹は減っていないか?」
アダムがぶらさげた小魚を持ちあげて見せると、ルネルは力なく首を振って答えた。
火床の端に投げこまれて黒くなっている、兎や魚の骨らしきものが見えた。食い繋ぐことはできていたようだ。山の麓の老婆がいろいろと届けていたらしく、竹籠には山菜も盛られていた。壁際の隅には、アダムの荷袋と白杖がそのままの状態で置かれている。
雨音は強くなっている。昼を過ぎたあたりだが、小屋のなかは薄暗かった。アダムは燠だけになっている火床に薪を足し、両足を投げ出して座りこんだ。
「無事でよかった」
「お互いにね」
ルネルがかすかに笑う。明らかに憔悴している、といった笑顔だった。気の強そうな眼差しもどこか翳りを帯びて、声にもあまり力がない。無理もないことだった。
「なにか変わったことは?」
「なにも。この小屋は、静かなものだった。婆やが何度も足を運んでくれて、話し相手や、食べるものにも困らなかった。無関係なあなたが動きまわっているのに、私にはなにもできないことが、たまらなく苦痛だったけど」
「耐えるしかないさ。この小屋でじっと待つ。それが条件だったはずだ」
「それであなたのほうは、なにかわかった?」
「最初に断っておくが、結論は出ていない」
「襲撃の理由を調べきれなかった、ということ?」
「手掛かりらしきものはいくつか得られた。そこから推測できることもある。ただ、これまで以上に踏みこんで調べるには、決めなければならないことがある。だから一度、ここへ戻ってきた」
「聞かせて」
アダムはうなずき、ひとつひとつ丁寧に話していった。
孟王城周辺の豪族たちは、ルネルの父である孟王を慕っていた。試みに、アダムが豪族に限定してルネルの使者を名乗っても、どこかが不穏な動きを見せたということはなかった。それは、豪族たちのなかに孟王を裏切るような者はいなかった、ということの証だと捉えてもいいだろう。
豪族の動きを確かめたあと、アダムがルネルの使者であることを適当に触れまわると、今度はほどなくして隠術師に追われはじめた。アダムが、あえて密かに逃げ出す素振りを見せ、夜のうちに集落を抜け出すと、隠術師たちは森まで追いかけてきてアダムを拘束した。
はじめてルネルと出会う前に、森でアダムを襲った隠術師。それから炳西でアダムを拘束した隠術師はおそらく同じ一派で、炳辣国の広い範囲を動いている。
そして隠術師たちは、いまもルネルを探していた。孟王城を襲撃したのは、西域の蕘皙国であることは間違いない。そのことは豪族たちも確認していたし、実際に西域の白駱駝部隊も入ってきている。
動きを見るかぎり、あの隠術師の一派は西域とどこかで通じている可能性が高かった。西域が孟王城を落としたのは、ルネルが継ぐ孟王、それからグゼイブ王家そのものを狙ったものだとも考えることができる。
そうなると、孟王城の宝物庫から消えた地図のことも、ありそうなこととして思い浮かんできた。地図を盗み出した者がいるとすれば、あの隠術師の一派であると考えるのが妥当なのかもしれない。
細かなことまでルネルに話す。そうすることで、同時にアダム自身が手もとの情報を確かめることにもなっていた。
「これは薬草ね。この黒い粒は、毒草を煮詰めて練ったものだと思う。孟国の隠術師も似たものを持っていた」
床に広げた薬草袋の中身を眺め、ルネルが呟いた。
「こっちの白い軟膏はどうだ?」
「これは多分、傷薬よね。こういう軟膏は炳都でいろいろと作られているみたいだけど、炳北にはない。孟国にもね。森や山に薬草は生えているけど、同じような軟膏を作れる術師がいないのよ。余所にあっても大抵はもっと黒ずんでいるか、草色ね」
「やはりそうか」
「どういうこと?」
答えず、アダムはしばし黙して考えをめぐらせた。ルネルが、アダムの顔を覗きこむように見あげてくる。
「孟王城から、炳都まではどれくらいかかる、ルネル」
「歩けば、ふた月はかかる。このあたりが辺境といわれるのも、うなずけるでしょ?」
「ずっと引っかかっていたことがある」
アダムの言葉に、ルネルが訝しげな表情で首を傾げた。
「炳都は孟王城が攻められても、西域の蕘皙国に対してなんら動きを見せていない。それはなぜだ」
「炳北の地方領主。もともとその程度にしか見られていなかったのよ、孟王は」
ルネルはそう言って肩を竦めて見せたが、孟王を信頼していた豪族たちは、炳都の動きが遅いことに対して、強い憤りと苛立ちを口にしていた。彼らの話を聞きながらアダムが感じたのは、遅いのではなく、炳都には動く気がないのではないか、ということだった。
「良馬の少ない炳辣国とはいえ、炳都にはそれなりの馬を揃えているはずだろう。たとえ常歩の行軍でも、ひと月ほどでたどり着く。決着のついた戦にはすぐさま駆けつけられなくとも、四か月が経過して事後処理もないのは、不自然だとは思わないか」
「もう落ちてしまった城を、どうにかしようとするものなのかしら」
「炳都からすれば、自領に侵入されて城ひとつを落とされたうえに、そこに居座られているわけだぞ。壁に穴を開けて棲み着いた鼠を、大きな屋敷だからという理由で放っておく当主が、果たしているだろうか」
ルネルが、少し考える表情をした。
火床に焚べた薪は燃え尽き、いつの間にか燠だけになっている。濡れていたアダムの套衣も、床の上ですっかり乾いていた。
不意に、ルネルの表情が歪んだ。
「まさか、そんなこと」
「確かにまだ、私の推測でしかない。だが、いまある情報を整理すると、炳都の関与を考えずにはいられない」
「原理神教の中心地なのよ、炳都というところは。寺院と多くの僧侶がいて、民のみんなが敬虔な信徒なの」
「それでも、炳都の上層部が隠術師を抱えていることは、暗黙のうちに知られている。ひと口に信仰といっても、すべてが清廉潔白というわけにはいかないものさ。その隠術師も信徒であるという話だが、ときに手を汚すような任務を課せられる連中を使っていることに違いはない。それは、孟国も同じようなものだったはずだ」
「だけど、隠術師を使う国は、炳都や孟国以外にだってあるもの。よりによって、炳都であるはずがない」
「君も見た通り、私を拘束した隠術師が携行していた軟膏は炳都のものだ。それに連中の喋る言葉に、炳南や炳北の地方訛りはまったくなかった」
「原理の神々が、許されるはずはない。あり得ないことを言うあなただって、きっと神々の怒りを買うわ」
「そうかもしれない。だがもし事実だとすると、隠術師がわざわざ生け捕りにしていた、あの炳東虎にも説明がつくんだ」
「どんな?」
「君は知らないかもしれないが、炳都では古くから、美しい柄の虎を檻に入れて見世物にしたり、あるいは罪人の処刑のひとつとして虎と闘わせ、それを王侯などが見物して愉しむ、といった具合に利用されてるんだ」
炳都の関与。限られた情報を読み解いていくと、どうしてもそれが浮き出てくる。
ルネルは、思い詰めた顔でうつむいていた。火床の燠に、じっと眼をやっている。
「決めるのは君だ、ルネル」
ここで切りあげて、北へと越境をするという選択もある。幸い、いまのところ姿を隠すことには成功しているのだ。深入りをすれば、知りたくもないことを知ることになるかもしれない。そうなれば、いま以上に傷つくのは結局のところ、ルネルなのだった。
「彼は、エフレムについては?」
「いまはまだ、なにも。彼が流刑先の離島で大人しくしていれば、見つけることは難しくないとは思うが」
「思い出したの」
「なにをだ?」
「私に、母の形見が宝物庫にあると告げたのは、父が重く用いていた文官だった。その男が、エフレムを呼び止めて話しているところを見たの。私が、いつ宝物庫の鍵を持ち出そうかと、考えていたときだった」
「なんの話をしていたか覚えてるか」
「前に流産した馬のことだったと思う。エフレムはその雌馬を見るために、厩をよく覗いていたのよ」
「城が攻められたとき、その文官は?」
「それが、姿を見なかった。いつでも父の近くに控えていたのに。父がなにか命じていたのかもしれないけど、一度も見ていない」
喋りながら、ルネルがわなわなと身を震わせ、何度も首を振った。膝の上で握られた拳に、力がこめられている。
内応の可能性が出てきた。それも、孟王の側近ともいえる男だったようだ。ルネルに宝物庫を開けさせ、隠術師を招き入れたのか。あるいはその男自身が、地図を持ち出したのか。
ルネルが、眼の端からこぼれかけた涙を、指先で払った。
「誰も信じない。信じられるのは結局、原理神教の神だけよ」
「だろうな。自分自身を含め、なにも信じられない者がすがるものさ、大抵の宗教というのは。こういう状況では、頼らざるを得ない。それも仕方のないことだとは思う」
「なによ。だったら、どんな状況に陥っても、あなたは信じないって言うの?」
「私は、神を信じていない」
アダムは、宗教というものを心の底では信じていなかった。故郷にはなかったものだ。だから焼け落ちた、と信仰する者には言われるのかもしれない。それは盲信する者のある種の詭弁だ。すべては、物事が起きたあとの解釈のひとつでしかない、とアダムは思っていた。
信じようと信じまいと、人は生きて死ぬしかない。宗教というものは、民が苦しまずに生きるための、物事の考え方を教える、その学問のようなものであればいい。どんな宗教でも、興りはじめはそうだったはずなのだ。
ルネルの返事を聞くまでもなかった。アダムは一度大きく息をつき、套衣を羽織ってすぐに腰をあげた。
「待って。私にも、できることがあるはず。なにかさせて」
「ここで待つんだ。動きまわれば、すぐに連中が嗅ぎつける」
「これ以上、じっとしているなんて耐えられない。これはきっと、原理の神々が私に与えた試練なのよ。私は、自分の宿業を払わなければならない。向き合わなければならないの」
「神のために死のうとは思うな、ルネル。信仰というやつはいつだって、生きる者のためにあるものだ」
涙に潤んだルネルの眼が、アダムの眼の奥を見つめてくる。
弱々しく憔悴しきった細い肩を、抱きとめてやりたかった。だが、それは自分の役目ではない。アダムはそう自分に言い聞かせ、ルネルの視線を振り切るように背を向けた。
白杖だけを手に執り、小屋を出る。
最後に夕陽を見たのはいつだったのか。雨の竹林は、濡れた闇に包まれはじめていた。
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「うそっ! お腹が出て来てる!?」
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