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祈誓
一
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軽率だった。
待ち続けることに倦んでいて、冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。
息があがり、ルネルの鼓動は胸が破れそうなほど激しくなっていた。
黒尽くめの連中に追われている。五、六人の隠術師。いや、実際にはもっといるのかもしれない。
右足で地を踏むたび、脚を伝って腰の近くまで、痛みが走った。雑木林を駆けて、足首を痛めた。地に張り出していた樹の根に足を取られ、おかしな方向に捻ったのだ。
どこまで、追ってくるのか。土を蹴る音、草を分ける音。自分の立てる物音以外は聞こえない。振り返っても、隠術師の姿は捉えられない。そのくせ、肌をひりひりと刺してくるような気配だけが、ルネルの背を覆っていた。
痛みをこらえて走る。そうやって、どうにか駆けられたのもここまでだった。
急に、地面がなくなったような気がした。
声をあげる間もなく、背で急斜面を滑り落ちていた。雨に濡れた土が泥濘み、掴まるところもない。それでも、両手を広げて地を掴もうとする。だが、泥濘はルネルの指の間をずるずると抜け、躰を支えて止まることはできなかった。そのまま、背を預ける恰好で滑り落ちていく。
落ちる先に、地から突き出た岩が見えた。ルネルは思わずきつく眼を瞑ったが、叫びたくなるような恐怖はより強くなった。眼を開け。眼を逸らすな。ルネルは、自分にそれだけを言い聞かせた。
岩が、すぐそこまで迫っている。避けられない。
気づいたとき、ルネルは両手と両膝を岩に触れさせた状態で、静止していた。どうなったのか、ほとんど記憶になかった。おそらく足裏から岩にぶつかる瞬間、膝を曲げて衝撃を殺し、そのまま前のほうへと倒れたのだろう。
痛みは感じない。ただ、頭の芯が痺れたようになっていて、しばらく同じ姿勢のまま動けなかった。
背後に気を取られるあまり、前方への注意を怠っていた。気をつけていれば、そこに斜面があることはわかったはずだった。
いま見つかれば、間違いなく殺されるだろう。本当に馬鹿だ。ルネルは、心のなかで自分を罵った。
自分の感情を抑えきれず、軽率に歩きまわった。少し目立てばエフレムが見つけてくれるなどと、楽観的に捉えてもいた。自分のために、どれだけの命が奪われたのか。そのことを、どこかで一瞬でも忘れてはいなかったか。
もっと早くに、死んでおくべきだったのだ。おめおめと生き延びた。多くの犠牲、おびただしい数の屍を踏み越えて、今日まで生きてしまった。
もう、いい。このまま死ねばいい。泥にまみれて死ぬ。多くの者に守られながら、なにもできなかった自分に相応しい、最低な最期だ。ルネルは泥濘みに横たわり、小雨の落ちてくる空を見あげて、そんなことを思った。
ほとんど霧のような小雨が、ぴちぴちと頬にあたる。右頬には泥が貼りついていて、雨は感じなかった。拭う気力も失せていた。吐く息が熱く感じられるようになってきた。躰が冷えているのだろう。やがて、すべてが冷えて終わる。
駆けて向かおうとしていた先には、竹林が見えていた。山小屋まで、もう少しだったのだ、とルネルは思った。
結局、死んだ者たちには、なにひとつとして、してやれていない。
生きたのか。自分はこれで、生きたと言えるのか。頬が震えている。眼尻から、熱いものが耳のほうへと伝い、流れ落ちた。こんな涙を、流す資格があるのか。
先ほどまでなかった痛みを、掌や背、足などに感じはじめた。痛みを感じるということは、まだ生きているということだ。
勝手に終わらせることなどできない。ルネルは呟いたが、唇が動いただけで声にはならなかった。
ルネルはやっとの思いで躰を起こした。
呼吸を整えながら、両耳にさげた真鍮の耳飾りを取り外す。どちらも泥にまみれている。
岩を這うようにして動きはじめた。こんなところで、寝ていていいわけがない。この命は、数え切れない命の犠牲のうえに、いまある。すでに自分のものであって、自分のものではないのだ。
左膝が痛む。滑り落ちたとき、岩のどこかでぶつけたらしい。酷くはないが、血も出ていた。
いくらか平らな岩の上で、なんとか立ちあがった。濡れた苔で、滑りやすくなっている。注意して、そろそろと岩場を抜ける。
また、泥濘みになった。
どうしても足跡は残る。ルネルは途中まで泥濘みを歩いて樹の根にたどり着くと、その行き先に向かって持っていた耳飾りを放り投げた。追う者が見れば、樹の根を足場にして、林のほうへ入って行ったように見えるはずだ。次に、泥濘みに残してきた自分の足跡に足を合わせながら、後ろ向きに元の場所へと戻った。岩場から、足跡の残らない別の道をとるのだ。
隠術師は、どこまで追ってくるのか。思ったが、ルネルには次第にどうでもよくなっていった。
行けるところまで、行く。歩けるところまでは、逃げてみせる。槍はどこかに落として失くしてしまった。だが、闘う心まで落としたとは思いたくない。
失くすわけにはいかない、とルネルはもう一度強く思った。
痛み。下唇を噛む。頬から、泥の乾いた部分だけが剥がれ落ちていくのがわかった。
アダムは焦っていた。
麓の小屋に住んでいた老婆は、殺されていた。炳都の隠術師の手によるものだろう。
小屋のなかには足跡以外、激しく争った形跡はなかった。長年、孟王に仕えた隠術師だったというあの老婆を、実に手際よく始末している。それはつまり、よほどの手練が出てきていると考えたほうがよさそうだ。
雨に流されたらしく、老婆の小屋の出入口周辺に足跡は残ってはいなかったが、小屋の裏手へと続く、新しい足跡がいくつもあった。
アダムは右手の親指と小指を広げ、手首を返しながら足跡の幅を素早く測った。
少なくとも、八人。ひとまわり小さな足跡がルネルのものであると考えれば、おそらく七人の隠術師がルネルを追っている。ルネル以外の歩幅は一定。追う側の歩調が乱れていないということは、ルネルを追い詰めているということに、確信を持っていたからなのか。
広がっていた足跡は次第に一点に集中して折重なりながら、下草を踏み固めて山へと分け入っている。土に残る足跡は、縁がはっきりとしていた。折れた灌木の枝も、断面が乾かず汁が滲んで湿っている。
雨が流してしまうものは多い。だが、断続的な雨が、逆に教えてくれるものもあった。残っている痕跡は、どれも新しいものだ。
嫌な予感があった。
アダムは山の中腹で迂回し、これまで通った南からではなく、西から岩場を登った。小さな崖のようになっている岩場さえ登れば、距離はずっと短くて済む。それから、竹藪を通ってルネルの隠れていた山小屋へとたどり着いた。
アダムは注意深く、山小屋の周囲を見てまわった。
ルネルの姿はなかった。争った形跡もない。小屋のなかに踏み荒らした様子もなく、ルネルの槍も見あたらなかった。アダムは深く呼吸をし、まずは気持ちを落ち着かせようとした。
汗が、吹き出してくる。麓からほとんどひと息に、ここまで登ってきたのだ。小屋のなかをぐるりと見まわし、肩で息をしながらアダムは考え続けた。
ルネルは出歩き、まだここに戻っていない。この山小屋の南から山の麓までの間に、ルネルがいる。そしてそれを追う、隠術師がいる。アダムは手もとにある情報から、そう見当をつけた。
アダムは小屋を飛び出し、南の道をくだった。しばらく竹藪が続く。風にしなって打ち合う無数の竹の音が、いまは疎ましかった。気配を消してしまうのだ。
ルネルは、槍を持ち出していた。山をおりたことで、老婆の死は否応なく知っただろう。ルネルの性格を考えれば、唯一のよりどころとなっていた老婆が殺されたことで、それ以上じっとしていられるはずはなかった。アダムがはじめて山小屋を訪ねたとき、ルネルは槍を構え、臆することなくアダムに向かってきたのだ。
ルネルの槍先には、正対したアダムが思わずたじろぐような気魄がこめられていた。アダムがそれを軽くあしらってみせたのは、みずからの腕を過信し、はじめから敵意を剥き出しにするような気持ちは、一度どこかで挫かれていたほうがいいという、とっさの判断だった。武器を向けるばかりが優位を生むわけではない。状況によっては対話することも、逃げることも、手段としてあるのだ。
確かにあの槍は、相当に遣える。ルネルが王女でなければ、孟王城の兵を束ねるような存在にさえ、なっていたのかもしれない。だが、いまルネルが対しているのは隠術師、それもおそらく複数である。槍一本でルネルが勝つ見こみは、正直なところなかった。
連中と立ち合うには、ルネルの槍はどこか真直ぐすぎた。どれだけ技倆があっても、ルネルには実戦の経験もほとんどない。
間に合え。無事でいろ。自分に言い聞かせるようにしながら、アダムは冷静さを失わないように駆けた。竹の小枝が、次々にアダムの頬を叩く。眼だけは突かないように、注意していた。
泥濘みを避け、岩から岩へ跳ぶ。幸い、雨は降っていない。しかしそれが、ルネルにとっても幸いしているのかは、わからなかった。夜闇のように、雨が覆い隠すものもあるのだ。物音。気配。アダムは駆けながら、わずかでも感覚を刺してくるものがないか、意識を集中させていた。
赤紫色の花を、眼の端に捉えた気がした。炳辣国で見る蘭の一種だと思ったが、アダムはすぐに思い直した。開花の時季ではない。
斜面を、横に駆けた。花。やはり違った。
「ルネル」
アダムは近づきながら、斜面に伏せた恰好のルネルに、小さく呼びかけた。返答はない。泥まみれで、膝からは出血しているようだ。白い肩に触れるが、はっとするほど冷たかった。アダムは、ルネルの首筋に指先をあて、耳を口もとに近づけた。血は通い、かすかに息はしている。
アダムが蘭と見間違えたのは、ルネルの髪を束ねている、赤紫色の装飾布だった。ルネルの束ねあげた髪から爪先にいたるまでの全身が、泥濘んだ泥と乾いた土で幾重にも覆われたようになっている。
ここまで必死で駆けてきたのだろう。骨が折れている様子はないが、膝以外もルネルの躰は擦り傷だらけだった。
不意に、悔しさのような感情がこみあげてきた。なぜ、ルネルがこんな目に遭わなければならないのか。王家の血が、国が、信仰が、どれほどのものだというのか。
気を失ったままのルネルを抱き起こし、背負った。ルネルには酷だが、ここで手当している余裕はない。
追手の気配は麓から吹きあげる風のように、疑いようもなく背後に迫っている。
待ち続けることに倦んでいて、冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。
息があがり、ルネルの鼓動は胸が破れそうなほど激しくなっていた。
黒尽くめの連中に追われている。五、六人の隠術師。いや、実際にはもっといるのかもしれない。
右足で地を踏むたび、脚を伝って腰の近くまで、痛みが走った。雑木林を駆けて、足首を痛めた。地に張り出していた樹の根に足を取られ、おかしな方向に捻ったのだ。
どこまで、追ってくるのか。土を蹴る音、草を分ける音。自分の立てる物音以外は聞こえない。振り返っても、隠術師の姿は捉えられない。そのくせ、肌をひりひりと刺してくるような気配だけが、ルネルの背を覆っていた。
痛みをこらえて走る。そうやって、どうにか駆けられたのもここまでだった。
急に、地面がなくなったような気がした。
声をあげる間もなく、背で急斜面を滑り落ちていた。雨に濡れた土が泥濘み、掴まるところもない。それでも、両手を広げて地を掴もうとする。だが、泥濘はルネルの指の間をずるずると抜け、躰を支えて止まることはできなかった。そのまま、背を預ける恰好で滑り落ちていく。
落ちる先に、地から突き出た岩が見えた。ルネルは思わずきつく眼を瞑ったが、叫びたくなるような恐怖はより強くなった。眼を開け。眼を逸らすな。ルネルは、自分にそれだけを言い聞かせた。
岩が、すぐそこまで迫っている。避けられない。
気づいたとき、ルネルは両手と両膝を岩に触れさせた状態で、静止していた。どうなったのか、ほとんど記憶になかった。おそらく足裏から岩にぶつかる瞬間、膝を曲げて衝撃を殺し、そのまま前のほうへと倒れたのだろう。
痛みは感じない。ただ、頭の芯が痺れたようになっていて、しばらく同じ姿勢のまま動けなかった。
背後に気を取られるあまり、前方への注意を怠っていた。気をつけていれば、そこに斜面があることはわかったはずだった。
いま見つかれば、間違いなく殺されるだろう。本当に馬鹿だ。ルネルは、心のなかで自分を罵った。
自分の感情を抑えきれず、軽率に歩きまわった。少し目立てばエフレムが見つけてくれるなどと、楽観的に捉えてもいた。自分のために、どれだけの命が奪われたのか。そのことを、どこかで一瞬でも忘れてはいなかったか。
もっと早くに、死んでおくべきだったのだ。おめおめと生き延びた。多くの犠牲、おびただしい数の屍を踏み越えて、今日まで生きてしまった。
もう、いい。このまま死ねばいい。泥にまみれて死ぬ。多くの者に守られながら、なにもできなかった自分に相応しい、最低な最期だ。ルネルは泥濘みに横たわり、小雨の落ちてくる空を見あげて、そんなことを思った。
ほとんど霧のような小雨が、ぴちぴちと頬にあたる。右頬には泥が貼りついていて、雨は感じなかった。拭う気力も失せていた。吐く息が熱く感じられるようになってきた。躰が冷えているのだろう。やがて、すべてが冷えて終わる。
駆けて向かおうとしていた先には、竹林が見えていた。山小屋まで、もう少しだったのだ、とルネルは思った。
結局、死んだ者たちには、なにひとつとして、してやれていない。
生きたのか。自分はこれで、生きたと言えるのか。頬が震えている。眼尻から、熱いものが耳のほうへと伝い、流れ落ちた。こんな涙を、流す資格があるのか。
先ほどまでなかった痛みを、掌や背、足などに感じはじめた。痛みを感じるということは、まだ生きているということだ。
勝手に終わらせることなどできない。ルネルは呟いたが、唇が動いただけで声にはならなかった。
ルネルはやっとの思いで躰を起こした。
呼吸を整えながら、両耳にさげた真鍮の耳飾りを取り外す。どちらも泥にまみれている。
岩を這うようにして動きはじめた。こんなところで、寝ていていいわけがない。この命は、数え切れない命の犠牲のうえに、いまある。すでに自分のものであって、自分のものではないのだ。
左膝が痛む。滑り落ちたとき、岩のどこかでぶつけたらしい。酷くはないが、血も出ていた。
いくらか平らな岩の上で、なんとか立ちあがった。濡れた苔で、滑りやすくなっている。注意して、そろそろと岩場を抜ける。
また、泥濘みになった。
どうしても足跡は残る。ルネルは途中まで泥濘みを歩いて樹の根にたどり着くと、その行き先に向かって持っていた耳飾りを放り投げた。追う者が見れば、樹の根を足場にして、林のほうへ入って行ったように見えるはずだ。次に、泥濘みに残してきた自分の足跡に足を合わせながら、後ろ向きに元の場所へと戻った。岩場から、足跡の残らない別の道をとるのだ。
隠術師は、どこまで追ってくるのか。思ったが、ルネルには次第にどうでもよくなっていった。
行けるところまで、行く。歩けるところまでは、逃げてみせる。槍はどこかに落として失くしてしまった。だが、闘う心まで落としたとは思いたくない。
失くすわけにはいかない、とルネルはもう一度強く思った。
痛み。下唇を噛む。頬から、泥の乾いた部分だけが剥がれ落ちていくのがわかった。
アダムは焦っていた。
麓の小屋に住んでいた老婆は、殺されていた。炳都の隠術師の手によるものだろう。
小屋のなかには足跡以外、激しく争った形跡はなかった。長年、孟王に仕えた隠術師だったというあの老婆を、実に手際よく始末している。それはつまり、よほどの手練が出てきていると考えたほうがよさそうだ。
雨に流されたらしく、老婆の小屋の出入口周辺に足跡は残ってはいなかったが、小屋の裏手へと続く、新しい足跡がいくつもあった。
アダムは右手の親指と小指を広げ、手首を返しながら足跡の幅を素早く測った。
少なくとも、八人。ひとまわり小さな足跡がルネルのものであると考えれば、おそらく七人の隠術師がルネルを追っている。ルネル以外の歩幅は一定。追う側の歩調が乱れていないということは、ルネルを追い詰めているということに、確信を持っていたからなのか。
広がっていた足跡は次第に一点に集中して折重なりながら、下草を踏み固めて山へと分け入っている。土に残る足跡は、縁がはっきりとしていた。折れた灌木の枝も、断面が乾かず汁が滲んで湿っている。
雨が流してしまうものは多い。だが、断続的な雨が、逆に教えてくれるものもあった。残っている痕跡は、どれも新しいものだ。
嫌な予感があった。
アダムは山の中腹で迂回し、これまで通った南からではなく、西から岩場を登った。小さな崖のようになっている岩場さえ登れば、距離はずっと短くて済む。それから、竹藪を通ってルネルの隠れていた山小屋へとたどり着いた。
アダムは注意深く、山小屋の周囲を見てまわった。
ルネルの姿はなかった。争った形跡もない。小屋のなかに踏み荒らした様子もなく、ルネルの槍も見あたらなかった。アダムは深く呼吸をし、まずは気持ちを落ち着かせようとした。
汗が、吹き出してくる。麓からほとんどひと息に、ここまで登ってきたのだ。小屋のなかをぐるりと見まわし、肩で息をしながらアダムは考え続けた。
ルネルは出歩き、まだここに戻っていない。この山小屋の南から山の麓までの間に、ルネルがいる。そしてそれを追う、隠術師がいる。アダムは手もとにある情報から、そう見当をつけた。
アダムは小屋を飛び出し、南の道をくだった。しばらく竹藪が続く。風にしなって打ち合う無数の竹の音が、いまは疎ましかった。気配を消してしまうのだ。
ルネルは、槍を持ち出していた。山をおりたことで、老婆の死は否応なく知っただろう。ルネルの性格を考えれば、唯一のよりどころとなっていた老婆が殺されたことで、それ以上じっとしていられるはずはなかった。アダムがはじめて山小屋を訪ねたとき、ルネルは槍を構え、臆することなくアダムに向かってきたのだ。
ルネルの槍先には、正対したアダムが思わずたじろぐような気魄がこめられていた。アダムがそれを軽くあしらってみせたのは、みずからの腕を過信し、はじめから敵意を剥き出しにするような気持ちは、一度どこかで挫かれていたほうがいいという、とっさの判断だった。武器を向けるばかりが優位を生むわけではない。状況によっては対話することも、逃げることも、手段としてあるのだ。
確かにあの槍は、相当に遣える。ルネルが王女でなければ、孟王城の兵を束ねるような存在にさえ、なっていたのかもしれない。だが、いまルネルが対しているのは隠術師、それもおそらく複数である。槍一本でルネルが勝つ見こみは、正直なところなかった。
連中と立ち合うには、ルネルの槍はどこか真直ぐすぎた。どれだけ技倆があっても、ルネルには実戦の経験もほとんどない。
間に合え。無事でいろ。自分に言い聞かせるようにしながら、アダムは冷静さを失わないように駆けた。竹の小枝が、次々にアダムの頬を叩く。眼だけは突かないように、注意していた。
泥濘みを避け、岩から岩へ跳ぶ。幸い、雨は降っていない。しかしそれが、ルネルにとっても幸いしているのかは、わからなかった。夜闇のように、雨が覆い隠すものもあるのだ。物音。気配。アダムは駆けながら、わずかでも感覚を刺してくるものがないか、意識を集中させていた。
赤紫色の花を、眼の端に捉えた気がした。炳辣国で見る蘭の一種だと思ったが、アダムはすぐに思い直した。開花の時季ではない。
斜面を、横に駆けた。花。やはり違った。
「ルネル」
アダムは近づきながら、斜面に伏せた恰好のルネルに、小さく呼びかけた。返答はない。泥まみれで、膝からは出血しているようだ。白い肩に触れるが、はっとするほど冷たかった。アダムは、ルネルの首筋に指先をあて、耳を口もとに近づけた。血は通い、かすかに息はしている。
アダムが蘭と見間違えたのは、ルネルの髪を束ねている、赤紫色の装飾布だった。ルネルの束ねあげた髪から爪先にいたるまでの全身が、泥濘んだ泥と乾いた土で幾重にも覆われたようになっている。
ここまで必死で駆けてきたのだろう。骨が折れている様子はないが、膝以外もルネルの躰は擦り傷だらけだった。
不意に、悔しさのような感情がこみあげてきた。なぜ、ルネルがこんな目に遭わなければならないのか。王家の血が、国が、信仰が、どれほどのものだというのか。
気を失ったままのルネルを抱き起こし、背負った。ルネルには酷だが、ここで手当している余裕はない。
追手の気配は麓から吹きあげる風のように、疑いようもなく背後に迫っている。
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