夜明けの続唱歌

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祈誓

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 血は止まっていた。
 濡らした布で泥を簡単に拭い、傷の具合を確かめた。
 れなどは引いていないが、ルネルの出血は左膝だけで、それ以外は擦り傷ばかりのようだ。
 アダムは、前に手掛かりとして手に入れた隠術師いんじゅつしの薬草袋のことを思い出し、蓊草オルニーネの白い軟膏なんこうを取り出すと、ルネルの腕や脚、背中の傷に塗りこんでいった。首筋や腹部などにはルネルが自分で塗っているが、アダムの掌がからだに触れることについて、ルネルは特に気にした様子は見せなかった。
 孟王もうおう城の跡地で起きたことを、アダムは順に話した。
 そうしているうちに、次第に意識がはっきりし、動転していた気持ちもいくらか落ち着いてきたようだった。ルネルは自分に軟膏を塗り終えた両手で、アダムの頬に触れてきた。
「あなたも、血が出てるのよ。知ってた?」
 小枝に打たれた頬が、幾筋か切れていたようだ。ルネルは掌に残った軟膏を、アダムの頬を包むようにしてそっと塗った。
 山中で見つけたルネルは倒れていたが、頭などは打たなかったらしい。憔悴しょうすいしきっていたが、言葉はしっかりしていた。
 ただ、ルネルは熱を出していた。
 肩を貸さなければ、一人では満足に歩けそうもない。追手のことは気になるが、この山小屋でしばらくの間だけでも、休ませるしかなかった。
 アダムはルネルを背負って山を登りながら、あえて痕跡を残すような歩き方をした。枝を折り、進んだ方向を示す。獣道に、足跡を残す。それらは陽動である。実際に進む方向には、逆に痕跡を残さないように注意した。
 いつまでもだませるとは思わないが、少しくらいの時は稼げる。追手の隠術師たちは、竹藪たけやぶに包まれるようにして建っているこの山小屋の、正確な位置までは掴んでいないはずだ。
 アダムが持っていた干肉を、二人で分け合った。かまどに吊るしていぶされた羊肉で、豪族たちを訪ね歩いたときに、集落であがなっていたものだ。はじめは硬いが、噛みほぐすうちに柔らかくなる。それでもすぐには飲み下さず、じっくりと噛み続けていると、肉の旨味がじわりとにじみ出てくるのだった。
 間もなく、陽が沈んだ。
 闇のなかで、この場所を見つけることはほとんど不可能だろう。ひと晩は、ルネルを寝かせてやることができそうだ、とアダムは思った。
「ねえ。最後に会ったとき、ばあやから聞いたんだけど」
 山小屋のなかは、暗闇に包まれている。追手があるので、火をおこすことはできなかった。闇のなかにささやくようなルネルの声は沈んでいるが、不思議と耳に心地よかった。
 ルネルは床に横たわらせ、アダムは白杖を抱いた恰好で、壁板に背を預け、ルネルのすぐそばに腰をおろしている。
炳都ペラブーハンの文官数名と、大寺院の僧侶が一人殺されたって。孟国もうこく兵の短剣と毒矢でね。それとあなたの眼の前で殺された、そのプルノという霊術師。私は、全部エフレムがやったんだ、と思うの」
「そうなのかもしれない。月明かりのなかで、しかもあの距離だ。凄まじい腕前だった」
「私、やっぱり城に戻らないと」
「ルネル。残念だがそれは無理だ。もうあそこには戻れない」
「みんなをとむらわなきゃ。エフレムも、まったく無関係のあなただってここまでしてくれたのに、私は」
「戻る理由はないんだ」
「信じたくはない。でも厨房に並んだ壺に、死んだみんながとらわれてるんでしょ?」
 アダムはひとつ、大きく息をついた。眼を閉じ首を振ったが、暗闇のなかのことで、ルネルには見えなかっただろう。
「君に言うかどうか迷ったが、彼らの遺体は、私が焼いた。火を放って」
 壺には霊術師プルノの調合した薬液が満たされており、アダムが厨房の火床から薪に移して放った火は、壺から壺へと一気に燃え移って、明るい緑色の炎をあげた。液体には銅も含まれていたらしい。緑色は銅の焔色えんしょく反応というもので見られる炎だった。
 それからアダムは、騒ぎを背に聞きながら、すぐに城を離れた。
 厨房からの炎が燃え広がり、孟王城はほとんど焼け落ちただろう。見張りの兵だけで消し止められるような火勢ではなかった。
「君の思う、原理神教げんりしんきょうらしい弔い方ではなかっただろうが、そうする以外なかった。すまない」
 アダムが言ったあと、互いに黙っていた。眠りは訪れてこない。
「ありがとう」
 しばらくして、ルネルが震えた声で言った。泣いているのか。それから、また沈黙が続いた。
 外で、竹藪が揺れる音が聞こえる。風は出ているようだが、雨音は聞こえなかった。獅子ししの月の中旬で、炳辣国ペラブカナハの雨季の終わりにはまだ早いが、その兆候は出てきたということなのかもしれない。
「まだ、起きてる?」
「ああ。どうした」
「なにか話して」
 躰は疲れ切っていても、眠れないのだろう。無理もなかった。酒でも飲めれば、束の間でも気が紛れるのかもしれないが、禁酒を誓う原理神教では、それも無理なことだった。
「あの、君がしていた真鍮しんちゅうの耳飾りはどうしたんだ?」
「連中をくために、手放したの。ここに向かわない方向に放り投げて」
「陽動に使ったのか。孟王の娘の象徴みたいなものかと思っていた」
「確かにそうだった。でも、もう必要なくなったのよ。なにもかも。本当になにもかも、なくなった。それでも、生きなきゃならないのよね」
「そうだな。命があるうちは」
「あなたは、嫌になることはないの?」
「なにが」
「生きることがよ。なにもかも投げ出して消えてしまいたい、って思うことはない?」
「私も君と似たようなものさ、ルネル」
 人の世の哀しさ。焼け落ちた故郷からずっと、それを見続けてきた。その過程でもまた、多くのものを失った。もうたくさんだ、と思いながらも、それらが否応いやおうなくアダムの背に乗っている。
 それでも、みずから命を絶つようなことはしなかった。それはアダムにとって、背負うものの重さに耐え切れず、ただ楽になるために逃げ出す、ということでしかなかった。そしてそれが自分にゆるされる行為だとは、アダムにはどうしても思えなかったのだ。
 旅では、行く先々で危険な場面をいくつもくぐり抜けてきた。あえて死に踏みこむようなことをやることもあったが、それでも死にはしなかった。だからいまも生きている。言ってみれば、それだけのことだった。
「少しでも、眠ったほうがいい」
「そうする」
 しばらくすると、寝息が聞こえてきた。
 ルネルが眠ったあと、アダムも壁に背を預けて座ったままの恰好で、少し眠ることにした。
 気配に、アダムは眼を開いた。外はかすかに白みはじめている。夜明け近くになっているようだ。
 ルネルも、上体を起こしていた。不安げな表情で、アダムを見つめている。
「歩けそうか?」
「なんとかね。熱も下がったみたいだし、膝の腫れも昨日より引いてる」
「行くとするか」
「どこへ?」
「もともとけていた仕事をする。山小屋の荷物を、越境して移送するという仕事だ」
「その荷物っていうのは、私のことよね」
「ほかになにがある?」
「べつに。何度聞いても、ひどい依頼内容だと思って」
「文句は、私に依頼した雑貨商のじいさんに言ってくれ。私も、手脚があって口を利く荷物だとは聞いていないと、文句を言ってやりたいような気分だ」
 アダムがそう言って笑って見せると、ルネルも硬い笑みで答えた。かすかにふるえているようだ。顔色は、昨日よりずっといい。少しだけでもなにか食べ、眠ったのがよかったのだろう。
「ここから北の、簪呂国カザクロフトには、私の知人しりびとがいる。目指すのはそこだ。心配いらない、迎え入れてくれる」
 それだけ言ってルネルの肩を軽く叩き、アダムは腰をあげた。
 山小屋を出た。竹林を包むようにして、濃い朝霧が出ている。空は雲に覆われているが、東の空が明るくなりはじめていた。
 追手の隠術師たちも、動きはじめているはずだ。アダムの残した陽動の痕跡を潰しながら、確実に距離を詰めてくるだろう。細い針で肌を突くような感覚がある。気配だけで、いつまでも姿が見えないのが、逆に不気味だった。気づかないうちに周囲を固められ、袋の口を絞るように退路を断たれる。それだけは避けなければならない。
 山小屋の裏手で、手頃な長さの竹棒を拾い、ルネルに渡した。
「膝をかばいながら山道を歩くんだ。杖になるものはあったほうがいい」
「そうね。少し短いけど、槍の代わりにもなる」
「杖として使ってくれ」
「これでも私、槍術の前に、棒術や杖術を学んでたのよ、護身のために」
「闘わず、まず逃げることを考えるんだ、ルネル。追手を打ち倒すこと自体に、あまり意味はない。それよりも、君が生きて簪呂国にたどり着くことが大事だ」
「わかったけど」
「まだなにかあるのか?」
「その、君が生きて、っていう言い方が引っかかるわ」
「悪かった、言い直そう。一緒に、生きて向こうにたどり着く。これでいいか?」
 アダムが言うと、ルネルが満足そうに大きくうなずいた。
 音を立てないように、そろりと竹藪へ足を踏み入れた。
 すぐに、肌が濡れる。朝霧に包まれているのだ。髪や衣服もしっとりとしてきた。霧は深く、先がほとんど見通せない。追手から姿を隠すことができるという利点はあるが、急ぎに急ぐということができないという点では、アダムたちも同じだった。
 濡れた青竹が瑞々みずみずしく、においを放っている。それがどこまでも続いているように見えた。
 こういう濡れた森では、薪を探すのに苦労する。竹は丈夫で道具や建材などさまざまなことに利用できるが、乾いた竹の表面を削って繊維にすれば、火口にも使える。アダムは、歩きながら周囲のものを利用する方法を練る。それはほとんど習性のようなものだった。
 炳辣国などのある東珱大陸オルテウムでは、竹が豊富な地域が少なくない。アダムはり出した竹に、肉や集落で手に入れた米などを詰めて、焚火たきびのなかに放りこんでおくようなこともよくやった。そうすると、しっかりと肉汁を吸った米が炊けるのだ。青竹の風味に包まれて、なんともいえないうまさがある。アダムの、好きな料理のひとつだった。
「北へ渡るには、大河を渡らなければならないんじゃない?」
「吊橋がある」
「グリーフ岬角こうかくの吊橋は、確かここよりずっと西のほうよ」
「これから目指すのはそれよりも古い橋だ。この山を北へ、それから丘をふたつ越えたあたりにある。谷幅が狭いところにな」
 いまもその橋が使える、という確証はなかった。アダムも簪呂国の知人に教わって知っているというだけで、一般的に往来に使われているのは、ルネルの言うグリーフ岬角の大吊橋のほうである。ただ、大吊橋を目指すには遠すぎた。怪我をしたルネルの足では、駆けることもままならないだろう。賭けてみるしかない、とアダムは思った。
 霧の晴れる前に山小屋の建つ山を降り、そのまま丘をひとつ越えた。樹相じゅそうが竹藪から、雑木林へと変化している。
 ルネルは早くから息を弾ませていたが、弱音は吐かなかった。芯が強い。細く見えるが、槍術で躰も心も鍛えられていたのだろう。眼の光も強く、気高いひょうのようだった。
 異変は、ふたつめの丘の中腹に差し掛かったあたりで感じた。
 岩場からの湧水を飲むために足を止めていたが、耳をかすめるような音が聞こえたのだ。こえか。そう思って顔をあげたアダムに、ルネルは黙ってうなずき、目線で後方を示した。聲ではない。ルネルも聞いた、隠術師の指笛の音。
 二人で屈んだまま、顔を寄せた。ルネルの大きな眼が、アダムをじっと見つめる。
「この岩場は、下からは死角になってる。つらいだろうが、しばらく姿勢を低くして行くんだ。そのあとは灌木かんぼくや下生えに身を隠して進む。姿をさらさないように、慎重に。くだりになったら、とにかく急ぐんだ」
「あなたは、どうするつもりなの?」
「谷に行きあたったら、吊橋を探すんだ。待ち伏せはないと思うが、警戒はおこたらないように」
「あなたも一緒よね」
「先に行くんだ、ルネル」
「嫌よ」
「追いつかれる。連中は手練てだれ揃いだろう。君を庇いながらは闘えない」
「私だって闘える」
「それでも万全じゃない。行くんだ。頼む」
「平気よ。半分は、私が受け持つ。それでいきましょう」
「現実的じゃない代案など、寝言と同じだ。きつい言い方だろうが、わかってくれ」
「このうえ、あなたにまでなにかあったら」
「私は大丈夫だ」
「そんなの、わからないじゃない。どうすればいいの」
「原理神教の神々に祈るといいさ」
「あなた、神様を信じていないと前に言わなかった?」
「ああ、言った」
「それなのに、今度は神様がいるようなことを言うの?」
「私が信じていないと言ったのは、信用していない、という意味さ。存在を信じていない、とは言っていない」
「でも自分は信じていないのに、こんなときに私には祈れだなんて」
「無責任だと思うか。それでも私は、信用していない。なにかするときに、頼ろうとは思わないんだ。だが君は違う。祈りや信仰は、それを信じている者のためにあるものだ。だから祈って、ここは先に行ってくれ。必ず追いかける」
 神は、民を救いはしない。たとえ見ているとしても、傍観ぼうかんしているだけだ。アダムはそう思っていた。それをことさら人に強いるつもりはない。信じるものは、それぞれが胸の内に持っていればいいのだ。他人に強要されて祈るのは、信仰とは呼べない。心の伴わない祈りに、なんの意味があるというのか。
 しかし、信じるものがひとつあれば、人は生きられる。それもまた事実だった。だからアダムは、信仰そのものを否定しようとは思わなかった。神でも、山海や動物でも、歌や書物や絵画などの藝術げいじゅつでもいい。肝要なのは、それが生きるうえでの芯となり得ることだ。
 寛容かんようさを持たず、これこそが正しい、と正義を掲げる者同士が、いつも戦火を大きくする。蒼星そうせいでこれまでに起きた大きな戦の多くが、そういうものだった。
 ルネルはうつむき、唇を噛んでいる。
「そうだルネル、君が髪を束ねている布を貸してくれないか」
「どうするの?」
 言いながら、ルネルは慣れた手つきでするりと髪を解いた。流れ落ちた髪が肩にかかり、それを軽く手で払う。王女らしい、優雅な仕草だった。
 ルネルから赤紫の装飾布を受け取り、アダムはそれを使って自分の髪を後ろで束ねた。
 指笛。鳥のき声を真似ているが、よく聴けば違う。
「さあ、もう行くんだ、ルネル。気をつけてな」
「ねえ」
 まだなにか言おうとするルネルを手で制し、アダムはルネルの眼を見つめた。
「借り物はあとで必ず返す。無事でいてくれ」
 アダムが言うと、ルネルは眉の根を寄せて何度もうなずき、低い姿勢のままアダムに背を向けた。
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