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祈誓
二
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血は止まっていた。
濡らした布で泥を簡単に拭い、傷の具合を確かめた。
腫れなどは引いていないが、ルネルの出血は左膝だけで、それ以外は擦り傷ばかりのようだ。
アダムは、前に手掛かりとして手に入れた隠術師の薬草袋のことを思い出し、蓊草の白い軟膏を取り出すと、ルネルの腕や脚、背中の傷に塗りこんでいった。首筋や腹部などにはルネルが自分で塗っているが、アダムの掌が躰に触れることについて、ルネルは特に気にした様子は見せなかった。
孟王城の跡地で起きたことを、アダムは順に話した。
そうしているうちに、次第に意識がはっきりし、動転していた気持ちもいくらか落ち着いてきたようだった。ルネルは自分に軟膏を塗り終えた両手で、アダムの頬に触れてきた。
「あなたも、血が出てるのよ。知ってた?」
小枝に打たれた頬が、幾筋か切れていたようだ。ルネルは掌に残った軟膏を、アダムの頬を包むようにしてそっと塗った。
山中で見つけたルネルは倒れていたが、頭などは打たなかったらしい。憔悴しきっていたが、言葉はしっかりしていた。
ただ、ルネルは熱を出していた。
肩を貸さなければ、一人では満足に歩けそうもない。追手のことは気になるが、この山小屋でしばらくの間だけでも、休ませるしかなかった。
アダムはルネルを背負って山を登りながら、あえて痕跡を残すような歩き方をした。枝を折り、進んだ方向を示す。獣道に、足跡を残す。それらは陽動である。実際に進む方向には、逆に痕跡を残さないように注意した。
いつまでも騙せるとは思わないが、少しくらいの時は稼げる。追手の隠術師たちは、竹藪に包まれるようにして建っているこの山小屋の、正確な位置までは掴んでいないはずだ。
アダムが持っていた干肉を、二人で分け合った。かまどに吊るして燻された羊肉で、豪族たちを訪ね歩いたときに、集落で購っていたものだ。はじめは硬いが、噛みほぐすうちに柔らかくなる。それでもすぐには飲み下さず、じっくりと噛み続けていると、肉の旨味がじわりと滲み出てくるのだった。
間もなく、陽が沈んだ。
闇のなかで、この場所を見つけることはほとんど不可能だろう。ひと晩は、ルネルを寝かせてやることができそうだ、とアダムは思った。
「ねえ。最後に会ったとき、婆やから聞いたんだけど」
山小屋のなかは、暗闇に包まれている。追手があるので、火を熾すことはできなかった。闇のなかに囁くようなルネルの声は沈んでいるが、不思議と耳に心地よかった。
ルネルは床に横たわらせ、アダムは白杖を抱いた恰好で、壁板に背を預け、ルネルのすぐそばに腰をおろしている。
「炳都の文官数名と、大寺院の僧侶が一人殺されたって。孟国兵の短剣と毒矢でね。それとあなたの眼の前で射殺された、そのプルノという霊術師。私は、全部エフレムがやったんだ、と思うの」
「そうなのかもしれない。月明かりのなかで、しかもあの距離だ。凄まじい腕前だった」
「私、やっぱり城に戻らないと」
「ルネル。残念だがそれは無理だ。もうあそこには戻れない」
「みんなを弔わなきゃ。エフレムも、まったく無関係のあなただってここまでしてくれたのに、私は」
「戻る理由はないんだ」
「信じたくはない。でも厨房に並んだ壺に、死んだみんなが囚われてるんでしょ?」
アダムはひとつ、大きく息をついた。眼を閉じ首を振ったが、暗闇のなかのことで、ルネルには見えなかっただろう。
「君に言うかどうか迷ったが、彼らの遺体は、私が焼いた。火を放って」
壺には霊術師プルノの調合した薬液が満たされており、アダムが厨房の火床から薪に移して放った火は、壺から壺へと一気に燃え移って、明るい緑色の炎をあげた。液体には銅も含まれていたらしい。緑色は銅の焔色反応というもので見られる炎だった。
それからアダムは、騒ぎを背に聞きながら、すぐに城を離れた。
厨房からの炎が燃え広がり、孟王城はほとんど焼け落ちただろう。見張りの兵だけで消し止められるような火勢ではなかった。
「君の思う、原理神教らしい弔い方ではなかっただろうが、そうする以外なかった。すまない」
アダムが言ったあと、互いに黙っていた。眠りは訪れてこない。
「ありがとう」
しばらくして、ルネルが震えた声で言った。泣いているのか。それから、また沈黙が続いた。
外で、竹藪が揺れる音が聞こえる。風は出ているようだが、雨音は聞こえなかった。獅子の月の中旬で、炳辣国の雨季の終わりにはまだ早いが、その兆候は出てきたということなのかもしれない。
「まだ、起きてる?」
「ああ。どうした」
「なにか話して」
躰は疲れ切っていても、眠れないのだろう。無理もなかった。酒でも飲めれば、束の間でも気が紛れるのかもしれないが、禁酒を誓う原理神教では、それも無理なことだった。
「あの、君がしていた真鍮の耳飾りはどうしたんだ?」
「連中を撒くために、手放したの。ここに向かわない方向に放り投げて」
「陽動に使ったのか。孟王の娘の象徴みたいなものかと思っていた」
「確かにそうだった。でも、もう必要なくなったのよ。なにもかも。本当になにもかも、なくなった。それでも、生きなきゃならないのよね」
「そうだな。命があるうちは」
「あなたは、嫌になることはないの?」
「なにが」
「生きることがよ。なにもかも投げ出して消えてしまいたい、って思うことはない?」
「私も君と似たようなものさ、ルネル」
人の世の哀しさ。焼け落ちた故郷からずっと、それを見続けてきた。その過程でもまた、多くのものを失った。もうたくさんだ、と思いながらも、それらが否応なくアダムの背に乗っている。
それでも、みずから命を絶つようなことはしなかった。それはアダムにとって、背負うものの重さに耐え切れず、ただ楽になるために逃げ出す、ということでしかなかった。そしてそれが自分に赦される行為だとは、アダムにはどうしても思えなかったのだ。
旅では、行く先々で危険な場面をいくつもくぐり抜けてきた。あえて死に踏みこむようなことをやることもあったが、それでも死にはしなかった。だからいまも生きている。言ってみれば、それだけのことだった。
「少しでも、眠ったほうがいい」
「そうする」
しばらくすると、寝息が聞こえてきた。
ルネルが眠ったあと、アダムも壁に背を預けて座ったままの恰好で、少し眠ることにした。
気配に、アダムは眼を開いた。外はかすかに白みはじめている。夜明け近くになっているようだ。
ルネルも、上体を起こしていた。不安げな表情で、アダムを見つめている。
「歩けそうか?」
「なんとかね。熱も下がったみたいだし、膝の腫れも昨日より引いてる」
「行くとするか」
「どこへ?」
「もともと請けていた仕事をする。山小屋の荷物を、越境して移送するという仕事だ」
「その荷物っていうのは、私のことよね」
「ほかになにがある?」
「べつに。何度聞いても、ひどい依頼内容だと思って」
「文句は、私に依頼した雑貨商の爺さんに言ってくれ。私も、手脚があって口を利く荷物だとは聞いていないと、文句を言ってやりたいような気分だ」
アダムがそう言って笑って見せると、ルネルも硬い笑みで答えた。かすかに慄えているようだ。顔色は、昨日よりずっといい。少しだけでもなにか食べ、眠ったのがよかったのだろう。
「ここから北の、簪呂国には、私の知人がいる。目指すのはそこだ。心配いらない、迎え入れてくれる」
それだけ言ってルネルの肩を軽く叩き、アダムは腰をあげた。
山小屋を出た。竹林を包むようにして、濃い朝霧が出ている。空は雲に覆われているが、東の空が明るくなりはじめていた。
追手の隠術師たちも、動きはじめているはずだ。アダムの残した陽動の痕跡を潰しながら、確実に距離を詰めてくるだろう。細い針で肌を突くような感覚がある。気配だけで、いつまでも姿が見えないのが、逆に不気味だった。気づかないうちに周囲を固められ、袋の口を絞るように退路を断たれる。それだけは避けなければならない。
山小屋の裏手で、手頃な長さの竹棒を拾い、ルネルに渡した。
「膝を庇いながら山道を歩くんだ。杖になるものはあったほうがいい」
「そうね。少し短いけど、槍の代わりにもなる」
「杖として使ってくれ」
「これでも私、槍術の前に、棒術や杖術を学んでたのよ、護身のために」
「闘わず、まず逃げることを考えるんだ、ルネル。追手を打ち倒すこと自体に、あまり意味はない。それよりも、君が生きて簪呂国にたどり着くことが大事だ」
「わかったけど」
「まだなにかあるのか?」
「その、君が生きて、っていう言い方が引っかかるわ」
「悪かった、言い直そう。一緒に、生きて向こうにたどり着く。これでいいか?」
アダムが言うと、ルネルが満足そうに大きくうなずいた。
音を立てないように、そろりと竹藪へ足を踏み入れた。
すぐに、肌が濡れる。朝霧に包まれているのだ。髪や衣服もしっとりとしてきた。霧は深く、先がほとんど見通せない。追手から姿を隠すことができるという利点はあるが、急ぎに急ぐということができないという点では、アダムたちも同じだった。
濡れた青竹が瑞々しく、においを放っている。それがどこまでも続いているように見えた。
こういう濡れた森では、薪を探すのに苦労する。竹は丈夫で道具や建材などさまざまなことに利用できるが、乾いた竹の表面を削って繊維にすれば、火口にも使える。アダムは、歩きながら周囲のものを利用する方法を練る。それはほとんど習性のようなものだった。
炳辣国などのある東珱大陸では、竹が豊富な地域が少なくない。アダムは伐り出した竹に、肉や集落で手に入れた米などを詰めて、焚火のなかに放りこんでおくようなこともよくやった。そうすると、しっかりと肉汁を吸った米が炊けるのだ。青竹の風味に包まれて、なんともいえない旨さがある。アダムの、好きな料理のひとつだった。
「北へ渡るには、大河を渡らなければならないんじゃない?」
「吊橋がある」
「グリーフ岬角の吊橋は、確かここよりずっと西のほうよ」
「これから目指すのはそれよりも古い橋だ。この山を北へ、それから丘をふたつ越えたあたりにある。谷幅が狭いところにな」
いまもその橋が使える、という確証はなかった。アダムも簪呂国の知人に教わって知っているというだけで、一般的に往来に使われているのは、ルネルの言うグリーフ岬角の大吊橋のほうである。ただ、大吊橋を目指すには遠すぎた。怪我をしたルネルの足では、駆けることもままならないだろう。賭けてみるしかない、とアダムは思った。
霧の晴れる前に山小屋の建つ山を降り、そのまま丘をひとつ越えた。樹相が竹藪から、雑木林へと変化している。
ルネルは早くから息を弾ませていたが、弱音は吐かなかった。芯が強い。細く見えるが、槍術で躰も心も鍛えられていたのだろう。眼の光も強く、気高い豹のようだった。
異変は、ふたつめの丘の中腹に差し掛かったあたりで感じた。
岩場からの湧水を飲むために足を止めていたが、耳をかすめるような音が聞こえたのだ。聲か。そう思って顔をあげたアダムに、ルネルは黙ってうなずき、目線で後方を示した。聲ではない。ルネルも聞いた、隠術師の指笛の音。
二人で屈んだまま、顔を寄せた。ルネルの大きな眼が、アダムをじっと見つめる。
「この岩場は、下からは死角になってる。つらいだろうが、しばらく姿勢を低くして行くんだ。そのあとは灌木や下生えに身を隠して進む。姿を晒さないように、慎重に。くだりになったら、とにかく急ぐんだ」
「あなたは、どうするつもりなの?」
「谷に行きあたったら、吊橋を探すんだ。待ち伏せはないと思うが、警戒は怠らないように」
「あなたも一緒よね」
「先に行くんだ、ルネル」
「嫌よ」
「追いつかれる。連中は手練揃いだろう。君を庇いながらは闘えない」
「私だって闘える」
「それでも万全じゃない。行くんだ。頼む」
「平気よ。半分は、私が受け持つ。それでいきましょう」
「現実的じゃない代案など、寝言と同じだ。きつい言い方だろうが、わかってくれ」
「このうえ、あなたにまでなにかあったら」
「私は大丈夫だ」
「そんなの、わからないじゃない。どうすればいいの」
「原理神教の神々に祈るといいさ」
「あなた、神様を信じていないと前に言わなかった?」
「ああ、言った」
「それなのに、今度は神様がいるようなことを言うの?」
「私が信じていないと言ったのは、信用していない、という意味さ。存在を信じていない、とは言っていない」
「でも自分は信じていないのに、こんなときに私には祈れだなんて」
「無責任だと思うか。それでも私は、信用していない。なにかするときに、頼ろうとは思わないんだ。だが君は違う。祈りや信仰は、それを信じている者のためにあるものだ。だから祈って、ここは先に行ってくれ。必ず追いかける」
神は、民を救いはしない。たとえ見ているとしても、傍観しているだけだ。アダムはそう思っていた。それをことさら人に強いるつもりはない。信じるものは、それぞれが胸の内に持っていればいいのだ。他人に強要されて祈るのは、信仰とは呼べない。心の伴わない祈りに、なんの意味があるというのか。
しかし、信じるものがひとつあれば、人は生きられる。それもまた事実だった。だからアダムは、信仰そのものを否定しようとは思わなかった。神でも、山海や動物でも、歌や書物や絵画などの藝術でもいい。肝要なのは、それが生きるうえでの芯となり得ることだ。
寛容さを持たず、これこそが正しい、と正義を掲げる者同士が、いつも戦火を大きくする。蒼星でこれまでに起きた大きな戦の多くが、そういうものだった。
ルネルはうつむき、唇を噛んでいる。
「そうだルネル、君が髪を束ねている布を貸してくれないか」
「どうするの?」
言いながら、ルネルは慣れた手つきでするりと髪を解いた。流れ落ちた髪が肩にかかり、それを軽く手で払う。王女らしい、優雅な仕草だった。
ルネルから赤紫の装飾布を受け取り、アダムはそれを使って自分の髪を後ろで束ねた。
指笛。鳥の啼き声を真似ているが、よく聴けば違う。
「さあ、もう行くんだ、ルネル。気をつけてな」
「ねえ」
まだなにか言おうとするルネルを手で制し、アダムはルネルの眼を見つめた。
「借り物はあとで必ず返す。無事でいてくれ」
アダムが言うと、ルネルは眉の根を寄せて何度もうなずき、低い姿勢のままアダムに背を向けた。
濡らした布で泥を簡単に拭い、傷の具合を確かめた。
腫れなどは引いていないが、ルネルの出血は左膝だけで、それ以外は擦り傷ばかりのようだ。
アダムは、前に手掛かりとして手に入れた隠術師の薬草袋のことを思い出し、蓊草の白い軟膏を取り出すと、ルネルの腕や脚、背中の傷に塗りこんでいった。首筋や腹部などにはルネルが自分で塗っているが、アダムの掌が躰に触れることについて、ルネルは特に気にした様子は見せなかった。
孟王城の跡地で起きたことを、アダムは順に話した。
そうしているうちに、次第に意識がはっきりし、動転していた気持ちもいくらか落ち着いてきたようだった。ルネルは自分に軟膏を塗り終えた両手で、アダムの頬に触れてきた。
「あなたも、血が出てるのよ。知ってた?」
小枝に打たれた頬が、幾筋か切れていたようだ。ルネルは掌に残った軟膏を、アダムの頬を包むようにしてそっと塗った。
山中で見つけたルネルは倒れていたが、頭などは打たなかったらしい。憔悴しきっていたが、言葉はしっかりしていた。
ただ、ルネルは熱を出していた。
肩を貸さなければ、一人では満足に歩けそうもない。追手のことは気になるが、この山小屋でしばらくの間だけでも、休ませるしかなかった。
アダムはルネルを背負って山を登りながら、あえて痕跡を残すような歩き方をした。枝を折り、進んだ方向を示す。獣道に、足跡を残す。それらは陽動である。実際に進む方向には、逆に痕跡を残さないように注意した。
いつまでも騙せるとは思わないが、少しくらいの時は稼げる。追手の隠術師たちは、竹藪に包まれるようにして建っているこの山小屋の、正確な位置までは掴んでいないはずだ。
アダムが持っていた干肉を、二人で分け合った。かまどに吊るして燻された羊肉で、豪族たちを訪ね歩いたときに、集落で購っていたものだ。はじめは硬いが、噛みほぐすうちに柔らかくなる。それでもすぐには飲み下さず、じっくりと噛み続けていると、肉の旨味がじわりと滲み出てくるのだった。
間もなく、陽が沈んだ。
闇のなかで、この場所を見つけることはほとんど不可能だろう。ひと晩は、ルネルを寝かせてやることができそうだ、とアダムは思った。
「ねえ。最後に会ったとき、婆やから聞いたんだけど」
山小屋のなかは、暗闇に包まれている。追手があるので、火を熾すことはできなかった。闇のなかに囁くようなルネルの声は沈んでいるが、不思議と耳に心地よかった。
ルネルは床に横たわらせ、アダムは白杖を抱いた恰好で、壁板に背を預け、ルネルのすぐそばに腰をおろしている。
「炳都の文官数名と、大寺院の僧侶が一人殺されたって。孟国兵の短剣と毒矢でね。それとあなたの眼の前で射殺された、そのプルノという霊術師。私は、全部エフレムがやったんだ、と思うの」
「そうなのかもしれない。月明かりのなかで、しかもあの距離だ。凄まじい腕前だった」
「私、やっぱり城に戻らないと」
「ルネル。残念だがそれは無理だ。もうあそこには戻れない」
「みんなを弔わなきゃ。エフレムも、まったく無関係のあなただってここまでしてくれたのに、私は」
「戻る理由はないんだ」
「信じたくはない。でも厨房に並んだ壺に、死んだみんなが囚われてるんでしょ?」
アダムはひとつ、大きく息をついた。眼を閉じ首を振ったが、暗闇のなかのことで、ルネルには見えなかっただろう。
「君に言うかどうか迷ったが、彼らの遺体は、私が焼いた。火を放って」
壺には霊術師プルノの調合した薬液が満たされており、アダムが厨房の火床から薪に移して放った火は、壺から壺へと一気に燃え移って、明るい緑色の炎をあげた。液体には銅も含まれていたらしい。緑色は銅の焔色反応というもので見られる炎だった。
それからアダムは、騒ぎを背に聞きながら、すぐに城を離れた。
厨房からの炎が燃え広がり、孟王城はほとんど焼け落ちただろう。見張りの兵だけで消し止められるような火勢ではなかった。
「君の思う、原理神教らしい弔い方ではなかっただろうが、そうする以外なかった。すまない」
アダムが言ったあと、互いに黙っていた。眠りは訪れてこない。
「ありがとう」
しばらくして、ルネルが震えた声で言った。泣いているのか。それから、また沈黙が続いた。
外で、竹藪が揺れる音が聞こえる。風は出ているようだが、雨音は聞こえなかった。獅子の月の中旬で、炳辣国の雨季の終わりにはまだ早いが、その兆候は出てきたということなのかもしれない。
「まだ、起きてる?」
「ああ。どうした」
「なにか話して」
躰は疲れ切っていても、眠れないのだろう。無理もなかった。酒でも飲めれば、束の間でも気が紛れるのかもしれないが、禁酒を誓う原理神教では、それも無理なことだった。
「あの、君がしていた真鍮の耳飾りはどうしたんだ?」
「連中を撒くために、手放したの。ここに向かわない方向に放り投げて」
「陽動に使ったのか。孟王の娘の象徴みたいなものかと思っていた」
「確かにそうだった。でも、もう必要なくなったのよ。なにもかも。本当になにもかも、なくなった。それでも、生きなきゃならないのよね」
「そうだな。命があるうちは」
「あなたは、嫌になることはないの?」
「なにが」
「生きることがよ。なにもかも投げ出して消えてしまいたい、って思うことはない?」
「私も君と似たようなものさ、ルネル」
人の世の哀しさ。焼け落ちた故郷からずっと、それを見続けてきた。その過程でもまた、多くのものを失った。もうたくさんだ、と思いながらも、それらが否応なくアダムの背に乗っている。
それでも、みずから命を絶つようなことはしなかった。それはアダムにとって、背負うものの重さに耐え切れず、ただ楽になるために逃げ出す、ということでしかなかった。そしてそれが自分に赦される行為だとは、アダムにはどうしても思えなかったのだ。
旅では、行く先々で危険な場面をいくつもくぐり抜けてきた。あえて死に踏みこむようなことをやることもあったが、それでも死にはしなかった。だからいまも生きている。言ってみれば、それだけのことだった。
「少しでも、眠ったほうがいい」
「そうする」
しばらくすると、寝息が聞こえてきた。
ルネルが眠ったあと、アダムも壁に背を預けて座ったままの恰好で、少し眠ることにした。
気配に、アダムは眼を開いた。外はかすかに白みはじめている。夜明け近くになっているようだ。
ルネルも、上体を起こしていた。不安げな表情で、アダムを見つめている。
「歩けそうか?」
「なんとかね。熱も下がったみたいだし、膝の腫れも昨日より引いてる」
「行くとするか」
「どこへ?」
「もともと請けていた仕事をする。山小屋の荷物を、越境して移送するという仕事だ」
「その荷物っていうのは、私のことよね」
「ほかになにがある?」
「べつに。何度聞いても、ひどい依頼内容だと思って」
「文句は、私に依頼した雑貨商の爺さんに言ってくれ。私も、手脚があって口を利く荷物だとは聞いていないと、文句を言ってやりたいような気分だ」
アダムがそう言って笑って見せると、ルネルも硬い笑みで答えた。かすかに慄えているようだ。顔色は、昨日よりずっといい。少しだけでもなにか食べ、眠ったのがよかったのだろう。
「ここから北の、簪呂国には、私の知人がいる。目指すのはそこだ。心配いらない、迎え入れてくれる」
それだけ言ってルネルの肩を軽く叩き、アダムは腰をあげた。
山小屋を出た。竹林を包むようにして、濃い朝霧が出ている。空は雲に覆われているが、東の空が明るくなりはじめていた。
追手の隠術師たちも、動きはじめているはずだ。アダムの残した陽動の痕跡を潰しながら、確実に距離を詰めてくるだろう。細い針で肌を突くような感覚がある。気配だけで、いつまでも姿が見えないのが、逆に不気味だった。気づかないうちに周囲を固められ、袋の口を絞るように退路を断たれる。それだけは避けなければならない。
山小屋の裏手で、手頃な長さの竹棒を拾い、ルネルに渡した。
「膝を庇いながら山道を歩くんだ。杖になるものはあったほうがいい」
「そうね。少し短いけど、槍の代わりにもなる」
「杖として使ってくれ」
「これでも私、槍術の前に、棒術や杖術を学んでたのよ、護身のために」
「闘わず、まず逃げることを考えるんだ、ルネル。追手を打ち倒すこと自体に、あまり意味はない。それよりも、君が生きて簪呂国にたどり着くことが大事だ」
「わかったけど」
「まだなにかあるのか?」
「その、君が生きて、っていう言い方が引っかかるわ」
「悪かった、言い直そう。一緒に、生きて向こうにたどり着く。これでいいか?」
アダムが言うと、ルネルが満足そうに大きくうなずいた。
音を立てないように、そろりと竹藪へ足を踏み入れた。
すぐに、肌が濡れる。朝霧に包まれているのだ。髪や衣服もしっとりとしてきた。霧は深く、先がほとんど見通せない。追手から姿を隠すことができるという利点はあるが、急ぎに急ぐということができないという点では、アダムたちも同じだった。
濡れた青竹が瑞々しく、においを放っている。それがどこまでも続いているように見えた。
こういう濡れた森では、薪を探すのに苦労する。竹は丈夫で道具や建材などさまざまなことに利用できるが、乾いた竹の表面を削って繊維にすれば、火口にも使える。アダムは、歩きながら周囲のものを利用する方法を練る。それはほとんど習性のようなものだった。
炳辣国などのある東珱大陸では、竹が豊富な地域が少なくない。アダムは伐り出した竹に、肉や集落で手に入れた米などを詰めて、焚火のなかに放りこんでおくようなこともよくやった。そうすると、しっかりと肉汁を吸った米が炊けるのだ。青竹の風味に包まれて、なんともいえない旨さがある。アダムの、好きな料理のひとつだった。
「北へ渡るには、大河を渡らなければならないんじゃない?」
「吊橋がある」
「グリーフ岬角の吊橋は、確かここよりずっと西のほうよ」
「これから目指すのはそれよりも古い橋だ。この山を北へ、それから丘をふたつ越えたあたりにある。谷幅が狭いところにな」
いまもその橋が使える、という確証はなかった。アダムも簪呂国の知人に教わって知っているというだけで、一般的に往来に使われているのは、ルネルの言うグリーフ岬角の大吊橋のほうである。ただ、大吊橋を目指すには遠すぎた。怪我をしたルネルの足では、駆けることもままならないだろう。賭けてみるしかない、とアダムは思った。
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「あなたは、どうするつもりなの?」
「谷に行きあたったら、吊橋を探すんだ。待ち伏せはないと思うが、警戒は怠らないように」
「あなたも一緒よね」
「先に行くんだ、ルネル」
「嫌よ」
「追いつかれる。連中は手練揃いだろう。君を庇いながらは闘えない」
「私だって闘える」
「それでも万全じゃない。行くんだ。頼む」
「平気よ。半分は、私が受け持つ。それでいきましょう」
「現実的じゃない代案など、寝言と同じだ。きつい言い方だろうが、わかってくれ」
「このうえ、あなたにまでなにかあったら」
「私は大丈夫だ」
「そんなの、わからないじゃない。どうすればいいの」
「原理神教の神々に祈るといいさ」
「あなた、神様を信じていないと前に言わなかった?」
「ああ、言った」
「それなのに、今度は神様がいるようなことを言うの?」
「私が信じていないと言ったのは、信用していない、という意味さ。存在を信じていない、とは言っていない」
「でも自分は信じていないのに、こんなときに私には祈れだなんて」
「無責任だと思うか。それでも私は、信用していない。なにかするときに、頼ろうとは思わないんだ。だが君は違う。祈りや信仰は、それを信じている者のためにあるものだ。だから祈って、ここは先に行ってくれ。必ず追いかける」
神は、民を救いはしない。たとえ見ているとしても、傍観しているだけだ。アダムはそう思っていた。それをことさら人に強いるつもりはない。信じるものは、それぞれが胸の内に持っていればいいのだ。他人に強要されて祈るのは、信仰とは呼べない。心の伴わない祈りに、なんの意味があるというのか。
しかし、信じるものがひとつあれば、人は生きられる。それもまた事実だった。だからアダムは、信仰そのものを否定しようとは思わなかった。神でも、山海や動物でも、歌や書物や絵画などの藝術でもいい。肝要なのは、それが生きるうえでの芯となり得ることだ。
寛容さを持たず、これこそが正しい、と正義を掲げる者同士が、いつも戦火を大きくする。蒼星でこれまでに起きた大きな戦の多くが、そういうものだった。
ルネルはうつむき、唇を噛んでいる。
「そうだルネル、君が髪を束ねている布を貸してくれないか」
「どうするの?」
言いながら、ルネルは慣れた手つきでするりと髪を解いた。流れ落ちた髪が肩にかかり、それを軽く手で払う。王女らしい、優雅な仕草だった。
ルネルから赤紫の装飾布を受け取り、アダムはそれを使って自分の髪を後ろで束ねた。
指笛。鳥の啼き声を真似ているが、よく聴けば違う。
「さあ、もう行くんだ、ルネル。気をつけてな」
「ねえ」
まだなにか言おうとするルネルを手で制し、アダムはルネルの眼を見つめた。
「借り物はあとで必ず返す。無事でいてくれ」
アダムが言うと、ルネルは眉の根を寄せて何度もうなずき、低い姿勢のままアダムに背を向けた。
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