宙色ラテ

あしゅ太郎

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すれ違いと口づけの温度(1)

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翌日。
カフェのカウンターには、まだほんのり夢の続きみたいな空気が残っていた。

(……昨日の帰り道……。)

宙はホールの端でトレーを拭きながら、ふと手が止まる。
一晩寝ても、胸の奥がくすぐったくて、頭の片隅にはずっと鈴谷の声が残っていた。

(……言われた……ほんとに……。)

思い出すたびに頬がじわっと熱くなる。

「お兄ちゃん?」

「……あっ。」

急に名前を呼ばれて、慌てて振り返ると、陽里が客席の隅のテーブルに座ってこちらを見ていた。

膝の上にはノートと参考書。
トリミングの技術や犬種の図鑑が広げられていて、真剣にペンを走らせている。

「ぼーっとしてないで、ミルク足りてないよ?」

「あ……わかった。」

返事をしつつ、また頭の中はすぐに鈴谷に引き戻される。

(昨日……手……握られて……。)

「おーい宙くーん。」

どこからともなく中川の声が割り込んできた。

「なにしてんの? 早くミルク出して~。」

「はいはい……。」

渋々冷蔵庫から牛乳パックを取り出す宙を見て、カウンターの向こうで中川がニヤついている。

「なあ、陽里ちゃんさぁ。」

「はい?」

呼ばれた陽里がペンを止めて顔を上げる。

「俺もさ~……陽里ちゃんにトリミングしてほしいな~。」

「……え?」

「ほら俺、最近YouTubeでオガシラ5:20の動画見たんだけどさ! オガちゃんがトリマーのお姉さんに毛をトリミングされるって回があってさ!」

突然スイッチが入った中川が、急に手振りを交えて語り出す。

「で! そのお姉さんがもうめっちゃハサミさばき上手くてさ~! 俺もあんな風に“はい、じっとしててくださいね~”って言われたい!」

「……店長、それは……。」

呆れて宙が振り返ると、陽里も苦笑いしながらノートを閉じる。

「えっと……店長は……トリミングするところ、ないですよね……。」

「あるある! 心の毛を刈ってほしいの!!」

「心……。」

「無駄毛だらけだから……。」

「……店長、それは病院行ってください。」

宙がすかさず突っ込むと、陽里がぷっと笑って肩を揺らした。

「もう、お兄ちゃん。店長さん、ほんとに面白いね。」

「面白いだけだからな。」

ぶつぶつ言いながらも、頭の中では――
中川の声なんかもうほとんど耳に入ってない。

(……鈴谷さん、今なにしてるんだろ……。)

無意識に胸ポケットのスマホに視線が落ちる。

(……また連絡、来るかな……。)

トリミングだのオガちゃんだの、しょうもない話が横で続いていても――
宙の頭の中は、昨日の指先の温度と、低く甘い声でいっぱいだった。

---

「なぁ宙くん、ちょっといい?」

バイトの休憩中。
エプロンを外した宙がスタッフルームの扉を開けると、中川が陽里を引き連れてニヤついていた。

「……なにしてんですか店長。」

「いやさぁ……今度! 俺、陽里ちゃんとカラオケ行きたいなって思って。」

「……は?」

宙が眉をひそめる横で、陽里が小さく笑って誤魔化す。

「店長さん、ずっと言ってくるんだよ~。“俺の十八番聴いてくれ”って。」

「陽里、無理しなくていいぞ……。」

「ひどっ! お兄ちゃん、俺は害ないから!」

「いや……。」

中川が宙の肩をばしっと叩いて、ぐいっと近づいてくる。

「でさ、宙くんも一緒に来てよ! さすがに俺ひとりだと、陽里ちゃんに引かれる可能性があるからさ!」

「……まぁ、店長ひとりだと確かに引かれるな。」

「おいそこは否定して?!」

「で、俺がいると何なんですか。」

「いや~、ほら、バランス取れるっていうか……な? 陽里ちゃんも、ね?」

「……私は別にお兄ちゃんが一緒なら安心だし……。」

「だろだろ?!」

中川が勢いよく腕を組んでドヤ顔をしたちょうどその時――
カフェのカウンターのベルが鳴った。

「……いらっしゃいませ~……あ。」

宙が振り向くと、そこには紙袋を小脇に抱えた鈴谷が立っていた。
優しい笑みを浮かべているが、目が宙にすぐに止まる。

「……宙くん、休憩中?」

「……あっ、鈴谷さん!」

宙が慌てて近づくと、中川がそれを見て、にやりと小声で陽里に囁く。

「ほら~、鈴谷さん来たよ! 俺らのカラオケ計画、ちゃんと伝えて誘おうぜ!」

「ええ!? さすがに誘えないでしょ……。」

そんな内緒話も知らず、宙は慌てて状況を説明しようとした。

「鈴谷さん! あの、これ――」

だが鈴谷の視線は、宙と中川を順に見てから、ふっと微かに目を細める。

「……カラオケ行くんだって?」

「えっ……えっと……それは――」

「……ふたりで?」

「……え? ちが――」

慌てて首を振る宙の言葉を遮るように、鈴谷はすっと笑って小さく息を吐いた。

「……そうなんだ。……仲良いんだね、中川さんと。」

「ち、ちが――! 陽里も一緒で――」

宙の声が届く前に、鈴谷はカウンターでコーヒーを一つ注文すると、忙しそうにスマホを耳に当てた。

「……あ、ごめん。ちょっと電話が……。」

「……えっ、あの、待ってくださ――」

「じゃあ、また。」

そう言って、にこりと笑った鈴谷は、コーヒーを受け取ると振り返らずに足早にカフェを出ていった。

「……え……。」

唖然とする宙の横で、中川がまだ呑気に言った。

「なーんだ、鈴谷さんも来てくれりゃダブルデートだったのに!」

「……っ……店長……マジで……。」

宙はバカみたいに遠ざかる鈴谷の背中を見つめながら、頭を抱えるしかなかった。

カフェのドアが閉まる音がまだ耳に残っているのに、宙の心臓はやけに大きく跳ねていた。

(……完全に、誤解された……。)

頭の中で鈴谷の顔がぐるぐる回る。
“仲良いんだね、中川さんと”――
あの笑顔の奥が、いつもより少しだけ冷たく見えた気がして、胸がざわつく。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

陽里が心配そうに覗き込んでくる。
その隣では、中川がまったく悪びれずに陽里のカバンを覗き込んでいた。

「なに? これ資格のテキスト? わんこの毛、どこ切るかとか書いてんの?」

「店長、今それどころじゃないんで……!」

宙は頭を抱えながら、中川を一瞥してため息をついた。

「……店長のせいですからね……。」

「えー! 俺!? 俺なんも悪くなくない? 陽里ちゃんとカラオケ行きたいって言っただけだし~?」

「……せめてタイミング見てください……。」

スマホを取り出して、LINEを開いてみる。

鈴谷のトーク画面には、あの日の「またご飯行こう」のメッセージが最後のまま。

(……送ろうか……いやでも……何て送るんだ……。)

“さっきの誤解なんです”
“店長が勝手に……”
“陽里がいるんです!!”

何を打ってもしっくりこなくて、結局全部消してしまう。

「……はぁ……。」

「お兄ちゃん、LINEしたら?」

「……できたら苦労しない……。」

トレーを拭く手が止まる。
思い返すのは、あの手を繋いだ夜と、さっきの少し遠くなった笑顔。

(……なんで……あんな顔で笑うんだよ……。)

心臓がきゅっと痛むのに、どこかその不安すら、嬉しくもあって。

(……やだな……俺……。)

自分でも気づかないうちに、もう鈴谷のことで頭の中がいっぱいになっている。

---

陽里がそんな兄の肩をぽんと叩いた。

「お兄ちゃん、今日のバイト終わったら、ちゃんと電話したら?」

「……できるかな……。」

「できるできる。」

隣で中川が無駄に元気よく親指を立てる。

「おう! 俺は陽里ちゃんとカラオケ行くから、宙くんは鈴谷さんと仲直りデートしてこい!」

「店長のせいなんですけど!!」

結局、カフェの中に宙の情緒不安だけが取り残されていくのだった――。
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