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5、お願い、そんなにいじめないで
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「ヤだ!」
翔太は全身で行人を押しのけた。
「俺、ユキさんの立場も会社の状況もようく分かってますから。去年の販促物の残り、探していきます。だからユキさんは早く戻って」
翔太は肩で息をしながらそう言った。行人の目が不穏に光って翔太を見つめていた。荒っぽいキスのせいで唇が赤く濡れている。翔太はそこから目が離せない。行人のくれるものなら、それがどんな感覚でも欲しい。だからこそ、翔太は今ここで行人を受け容れる訳にはいかない。自分の欲望が起動してしまったら、途中でそれを止めることはできない。翔太の膝が震えていた。
ふたりはそうしたまま数秒にらみ合って立っていた。
行人は無言でネクタイを直し、カギを置いて出ていった。
(危なかった……)
翔太は大きく肩で息をつき、手の平で髪がヘンに跳ねていないか確認した。
あんな行人を見たのは初めてだった。
何か、焦っているのだろうか。
翔太の胸に、低いエンジン音のような不安が鳴った。ほかの物音に打ち消されるほど小さかったが、いつまでも消えない耳鳴りのような音だった。
翔太はホコリまみれになりながら、何とか使えそうな資材を腕いっぱいに抱えて営業部へ戻った。係長席に行人はいなかった。原田と内海も営業先へ出たらしく、一係は空っぽだった。
いないメンバーの机にこれ幸いとはみ出して、翔太が持ち帰った資材をより分けていると、部屋の扉がバタンと空いた。行人が足音も荒く部室を横切ってくる。怒っているのか、気合いなのか。物品庫でのやり取りを思い出して、翔太の背中が心持ち強ばる。
行人は、翔太の席の後ろを通り過ぎるとき、少しだけ速度を緩めて、翔太の机にホチキスで留められた書類を置いていった。
「係長……?」
翔太が見ると「稟議書」となっていた。そして、隅の方にみどりのふせん。
小さく、『さっきはごめん』と書かれていた。
書類には来春の「Pro'sキッチン」新商品の選定ツアーとあった。翔太がザッと目を走らせた限りでは、取引先の飲食店の中で、今年の年末納入額が大きかった順に、工場見学と試作品の試食を組み合わせた企画と読めた。別枠で通販での個人取引の部もある。試食と同時に、参加者が試作品の中から、自店で取り扱いたいメニューを選ぶ。要はご招待という報償で年末に大きく仕入れていただこうという目論見だった。
「係長、これ……」
「新商品の開発と絡めれば、三係の量販、企画課の直販事業と、商品開発室と、全部巻き込めるだろ。それだけ巻き込んで各係の予算を集めれば、このくらいの企画は打てる」
確かにその通り。それに。翔太は口を開いた。
「それに、取引先も、新商品に自分の意見が反映されるとなれば!」
翔太も、行人の部下として鍛えられて二年半。少しは行人の仕掛けを読み取れるようになってきた。行人はにこりともせずうなずいた。
「そうだ。当然その新商品が発売されるのを楽しみにして、仕入れることになるだろうな」
翔太は感動した。
「係長……、この短時間に、これだけのことを?」
稟議書には、営業課長、部長のほかに、PTリーダー、商品開発部長、それから、社長の判までもが押してある。
翔太の視界がうるっとにじみそうになった。行人はゴホンと咳払いをひとつして、あさっての方を向いて早口で言った。
「ああ、まあ、課長はいつもそこにいるし、PTリーダーにはこういうときのために、日頃いやというほど恩を売ってあるしな。部長連中はひとつの部屋で週末ゴルフの相談してたから一網打尽でハンコ押させて」
心なしか、行人の頬が赤い。
この発想力と行動力。とにかく思いついてから行動が速い。翔太はいつものように行人の有能さに感服した。だが今日は、このとびきりの有能さが、翔太ひとりのために発揮されたのだ。思うような予算を使わせてやれなかった詫びとして、翔太のために。焦って社内で無体なことをしそうになった詫びとして。
思い切り、公私混同だ。
公私混同でも、会社の数字が伸びれば、いいじゃないか。
ふたりが、ふたりにしか分からない公私混同を、ほかのひとに一切知られることがなければ、もうそれは公私混同ではなくなるのでは?
そっぽを向いて赤面している行人の姿は、翔太の身体の奥にじんわりと炎を灯した。ほかのひとにヘンに思われないよう、いつもすぐ視線を外すようにしているのに、翔太は行人から目を離せなかった。キレイな横顔。長い睫毛。このひとは、ほかの誰でもない、自分のものなのだと思うと、翔太の胸はさらに熱くなった。
社内放送がかかった。
『社内のみなさん、商品開発部よりお願いです。ただいまより新商品の試食を行います。手の空いているひとは、開発部ラボまでお越しください。繰り返します……』
翔太は稟議書を大切に机の抽斗にしまい、そっぽを向いたままの行人に声をかけた。
「係長、行かないんですか?」
行人は頬の赤みを片手で隠すようにして立ち上がった。
「ああ、行こうか」
「鴨のロースト」は、ベリーのソースと赤ワインソースのどちらで行くか。
年末スペシャルとはいえ、かなり挑戦的なチョイスだ。
商品開発部のラボの中央に置かれた広いテーブル。その上には、同じサイズに小さく切った鴨肉に、似たような色の赤いソースがかけられ、右と左に分かれて並べられていた。右に「ベリーのソース」、左に「赤ワインソース」と書かれた紙片が置かれている。
ラボ長はPTリーダーを兼ねている。長い髪をひとつにまとめた、テキパキとした女性だ。行人の顔を見ると、「あら、来たわね」とにやりとした。行人は「さっきは悪かったな、忙しいとこ」と片手を上げた。翔太は行人に続いて、テーブルの周りに並べられた椅子にかけた。
翔太は全身で行人を押しのけた。
「俺、ユキさんの立場も会社の状況もようく分かってますから。去年の販促物の残り、探していきます。だからユキさんは早く戻って」
翔太は肩で息をしながらそう言った。行人の目が不穏に光って翔太を見つめていた。荒っぽいキスのせいで唇が赤く濡れている。翔太はそこから目が離せない。行人のくれるものなら、それがどんな感覚でも欲しい。だからこそ、翔太は今ここで行人を受け容れる訳にはいかない。自分の欲望が起動してしまったら、途中でそれを止めることはできない。翔太の膝が震えていた。
ふたりはそうしたまま数秒にらみ合って立っていた。
行人は無言でネクタイを直し、カギを置いて出ていった。
(危なかった……)
翔太は大きく肩で息をつき、手の平で髪がヘンに跳ねていないか確認した。
あんな行人を見たのは初めてだった。
何か、焦っているのだろうか。
翔太の胸に、低いエンジン音のような不安が鳴った。ほかの物音に打ち消されるほど小さかったが、いつまでも消えない耳鳴りのような音だった。
翔太はホコリまみれになりながら、何とか使えそうな資材を腕いっぱいに抱えて営業部へ戻った。係長席に行人はいなかった。原田と内海も営業先へ出たらしく、一係は空っぽだった。
いないメンバーの机にこれ幸いとはみ出して、翔太が持ち帰った資材をより分けていると、部屋の扉がバタンと空いた。行人が足音も荒く部室を横切ってくる。怒っているのか、気合いなのか。物品庫でのやり取りを思い出して、翔太の背中が心持ち強ばる。
行人は、翔太の席の後ろを通り過ぎるとき、少しだけ速度を緩めて、翔太の机にホチキスで留められた書類を置いていった。
「係長……?」
翔太が見ると「稟議書」となっていた。そして、隅の方にみどりのふせん。
小さく、『さっきはごめん』と書かれていた。
書類には来春の「Pro'sキッチン」新商品の選定ツアーとあった。翔太がザッと目を走らせた限りでは、取引先の飲食店の中で、今年の年末納入額が大きかった順に、工場見学と試作品の試食を組み合わせた企画と読めた。別枠で通販での個人取引の部もある。試食と同時に、参加者が試作品の中から、自店で取り扱いたいメニューを選ぶ。要はご招待という報償で年末に大きく仕入れていただこうという目論見だった。
「係長、これ……」
「新商品の開発と絡めれば、三係の量販、企画課の直販事業と、商品開発室と、全部巻き込めるだろ。それだけ巻き込んで各係の予算を集めれば、このくらいの企画は打てる」
確かにその通り。それに。翔太は口を開いた。
「それに、取引先も、新商品に自分の意見が反映されるとなれば!」
翔太も、行人の部下として鍛えられて二年半。少しは行人の仕掛けを読み取れるようになってきた。行人はにこりともせずうなずいた。
「そうだ。当然その新商品が発売されるのを楽しみにして、仕入れることになるだろうな」
翔太は感動した。
「係長……、この短時間に、これだけのことを?」
稟議書には、営業課長、部長のほかに、PTリーダー、商品開発部長、それから、社長の判までもが押してある。
翔太の視界がうるっとにじみそうになった。行人はゴホンと咳払いをひとつして、あさっての方を向いて早口で言った。
「ああ、まあ、課長はいつもそこにいるし、PTリーダーにはこういうときのために、日頃いやというほど恩を売ってあるしな。部長連中はひとつの部屋で週末ゴルフの相談してたから一網打尽でハンコ押させて」
心なしか、行人の頬が赤い。
この発想力と行動力。とにかく思いついてから行動が速い。翔太はいつものように行人の有能さに感服した。だが今日は、このとびきりの有能さが、翔太ひとりのために発揮されたのだ。思うような予算を使わせてやれなかった詫びとして、翔太のために。焦って社内で無体なことをしそうになった詫びとして。
思い切り、公私混同だ。
公私混同でも、会社の数字が伸びれば、いいじゃないか。
ふたりが、ふたりにしか分からない公私混同を、ほかのひとに一切知られることがなければ、もうそれは公私混同ではなくなるのでは?
そっぽを向いて赤面している行人の姿は、翔太の身体の奥にじんわりと炎を灯した。ほかのひとにヘンに思われないよう、いつもすぐ視線を外すようにしているのに、翔太は行人から目を離せなかった。キレイな横顔。長い睫毛。このひとは、ほかの誰でもない、自分のものなのだと思うと、翔太の胸はさらに熱くなった。
社内放送がかかった。
『社内のみなさん、商品開発部よりお願いです。ただいまより新商品の試食を行います。手の空いているひとは、開発部ラボまでお越しください。繰り返します……』
翔太は稟議書を大切に机の抽斗にしまい、そっぽを向いたままの行人に声をかけた。
「係長、行かないんですか?」
行人は頬の赤みを片手で隠すようにして立ち上がった。
「ああ、行こうか」
「鴨のロースト」は、ベリーのソースと赤ワインソースのどちらで行くか。
年末スペシャルとはいえ、かなり挑戦的なチョイスだ。
商品開発部のラボの中央に置かれた広いテーブル。その上には、同じサイズに小さく切った鴨肉に、似たような色の赤いソースがかけられ、右と左に分かれて並べられていた。右に「ベリーのソース」、左に「赤ワインソース」と書かれた紙片が置かれている。
ラボ長はPTリーダーを兼ねている。長い髪をひとつにまとめた、テキパキとした女性だ。行人の顔を見ると、「あら、来たわね」とにやりとした。行人は「さっきは悪かったな、忙しいとこ」と片手を上げた。翔太は行人に続いて、テーブルの周りに並べられた椅子にかけた。
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