ふつつかものですが鬼上司に溺愛されてます

松本尚生

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6、俺の知らない、上司の夜

6-3

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 昨日翔太が営業先から戻って退社するまで、係長席に行人は戻ってこなかった。係員が帰社する時間帯は、身支度を調えたママさんたちが、ゆるゆると開店準備に店に出るタイミングだ。行人は多分何軒か回って、ここぞというときには売上に協力して、注文表にぎっしり記入してもらって直帰だろう。それでも、朝出勤してくる行人に乱れた様子はひとつもない。いつもと同じようにビシッと全身整え、つやつやのお肌で目にはコンタクトを入れて、きらきらの姿で席に座っている。
(神サマ、ずるいよ。どうしてこのひとには、こんなに高い能力を与えたの)
 寝グセに忘れもの、破壊された時間感覚。神さまは自分に何を克服させようとして、こんな課題の多い人生を与えたのだろうか。最後にぐっと背中を反らして、翔太は机上の作業に戻った。係長席から鋭い声が飛んできた。
「加藤くん!」
「はい!」
 翔太はピッと背筋を伸ばした。
 行人は、昨日の翔太の日報に目を通していた。職場ではポーカーフェイスの行人だが、眉がわずかに吊っている。
「朝から晩まで、村上さんと回ってたの?」
「あ、はい。丁度スケジュールが合ったので、『一気にやってしまおう』ということになって……」
 説明する翔太に、行人はピシャリと言った。
「効率悪いんじゃないの? 村上さんにも都合があるんだし。新規の顔つなぎだけしてもらったら、後はひとりで行ける先もあるんじゃない?」
 翔太はしどろもどろに返答した。
「いや、でも、営業スケジュールは事前に係長に見ていただきましたし……」
「回る可能性があるところを、全部挙げただけと思ってたよ。まさかあの通り、本当に行くとは」
 行人は翔太の昨日の日報を、面白くなさそうに数度振った。これはいつものツンデレじゃない。完全にお腹立ちだ。翔太はそう感じとった。翔太は平身低頭謝ることにした。
「すみません! 村上さんに時間を取っていただいたところは、昨日で全部終わりましたんで。あとは自分ひとりで回りますんで」
 椅子から立ち上がり係長席に向き直って、翔太は深く頭を下げた。翔太の頭上で、行人のため息がかすかに聞こえた。
「取引先に負担をかけないように。自分ひとりの付き合いじゃないんだから」
「申し訳ありませんでした」
 翔太はもう一度頭を下げた。
 部屋の入り口から、企画課のひとが顔を出した。
「おーい、西川ー。十一時からPTプロジェクトチーム打ち合わせだよ」
 腕時計を指差して、そのひとは続けた。
「もう出られる? まだならその旨、俺言っとくけど」
 行人は書類立てから厚いファイルを取り出して立ち上がった。
「いや。俺も今行く」
 入り口で待っていた企画課と、なにやら楽しそうに話しながら行人は廊下へ消えた。翔太は中断していた書類仕事に戻った。隣の席から内海が言った。
「係長、相変わらず厳しいですね。自分がOK出したスケジュールじゃなかったんですか?」
 翔太に同情的な声色だった。翔太は曖昧に笑って答えた。
「いやあ、あれは、自分が悪いんですよ。いくらスケジュールの都合が付いたからって、あまりにも取引先に負担をかけてしまいました。係長の言った通りだったと思います」
 内海は肩をすくめて言った。
「加藤さん、辛抱強いですよね。あんな言われ方されたら、あたしだったらキレちゃうかも」
 翔太は弱気に笑った。
「あはは……。まあ、『言われてるうちが花』ということもあるからね」
「まあ、そうですけど」と内海はプンスカしている。ひとのことなのに、優しい娘だなと翔太は思った。
 翔太は、行人が何に文句をつけたいのか、ピンと来ていた。何が不満なのか。
 直行直帰が続いて、行人は翔太の部屋へ来られない。会社でもそれぞれ営業に出るので、顔を合わせる時間も短い。ふたりで一緒に過ごせた時間、今週はほんのわずかだ。なのに、取引先の担当とは丸一日一緒にいたなんて、ということだろう。完全に理不尽な、あれは嫉妬だ。
 可愛い行人の、可愛い不機嫌。八つ当たりされるのも、翔太にはくすぐったいくらいだった。
 でも――。
 翔太は思うのだ。
 でも、行人こそ、内緒で秋津の担当者と会ってる。
 何のために? 
 翔太と過ごす時間を犠牲にしてまで?

 午後はどこかへ出ていた原田も戻ってきた。珍しく係員が全員揃っている。夕方からは打ち合わせだ。
 試食で昼休みも拘束だった行人が、PTから戻ってきた。手には洋菓子店の箱を提げている。地下鉄駅の隣の、古くからある店の箱だった。
「内海さん、これ、打ち合わせのお茶菓子。お茶と一緒に、みんなに配って」
「はい」
 内海は立ち上がった。翔太も一緒に立ち上がった。四人分のお茶なら、ふたりで淹れれば早い。
 営業一課には、書類棚の一角にお茶道具が用意してある。電気ポットと、コーヒーのドリップバッグと、幾種類かのティーバッグ。翔太は全員の希望を取った。原田と行人はコーヒー、内海はほうじ茶がご所望だった。
 お茶道具の前で、内海は翔太に訊いた。
「加藤さんは? 何が飲みたいですか?」
 その声に多少の不機嫌さを感じて、翔太は慌てて言った。
「言っとくけど、女子だからやらせてるんじゃ、ないからね。一応、社歴の浅い社員がやることになっていて、だから去年まではずっと俺が」
 翔太の慌てぶりがおかしかったのか、内海はふふっと笑った。
「加藤さん、優しいですね。分かりました。社歴の浅い社員がお茶汲み……ってのも、若干どうかと思いますけど、毎日のことじゃありませんし、たまにはいいってことにしましょう」
「そうだよ。それに、係長の仏頂面が淹れたお茶なんて、恐れ多くて飲みたい気持ちになるかい?」
「それもそうですね」
 内海はクスクス笑ってうなずいた。
(本当は、ユキさん、お茶どころか、ご飯作ってもメチャおいしいけどね)
 翔太は内心そう思った。だがこれは誰にも内緒。それを堪能できるのは翔太だけの特権だ。
 ふたりで飲みものを持って島に戻ると、こちらでは行人がムスッとしていた。
(こっちはこっちで不機嫌かよ……。もう、面倒くせえな)
 女のコ相手に嫉妬なんてしなくていいのにと翔太は思った。自分は女のコには惹かれない。男女差別との誤解はフォローするが、こちらはもう、放置だ。どうせどこかのタイミングでねっちり仲よく過ごせば、行人の機嫌は直る。翔太はそう開き直って気にしないことにした。
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