ふつつかものですが鬼上司に溺愛されてます

松本尚生

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8、空っぽの部屋で、たったひとりで

8-6

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 翔太はいつもより字数の少ない日報を係長席のトレイに置き、帰り支度を始めた。
「何だよ加藤。お前だって気にしてたろ。結果を聞きたくないのかよ」
 原田は変わらず翔太を共犯だと思っている。翔太はにっこり笑って言った。
「係長はかなり具合悪かったみたいです。高熱をおして部下のために挨拶に出向いて、その結果労災ってことになったら……、まあそこから先は、俺みたいな下っ端の考えることじゃないっすね」
 原田は二の句が継げず口をパクパクさせた。翔太の返答は完全に想定外だったと見える。 
「じゃ、お先に失礼しまーす。あ、俺、明日有休取るんで、よろしくでーす」
 翔太は軽く頭を下げて席を立った。
 階段を降りようとするところで、内海が追いかけてきた。心配そうな顔をして翔太に尋ねた。
「加藤さん、係長は大丈夫なんですか?」
 内海は原田と違って、どうやら本当に行人の身を案じているらしい。翔太は口を開いた。
「ああ。さっき課長にも報告した通り、ケガはかすり傷程度で大したことない」
 内海はホッとして胸を撫で下ろした。
「よかった……。事故なんて言うから、わたし……」
 翔太は下り階段に足をかけ、内海を見上げたまま黙っていた。
「加藤さん」
「ん?」
「もしかして、怒ってます?」
「どうして?」
「さっきの加藤さんの笑顔、ちょっと怖かったです」
 翔太は苦笑した。よく気の付く女性だ。
「きらりんてば、ホントおばさんだね。よく見てるわ」
 内海はなおも食い下がった。
「確かに原田さんも無神経でしたけど、それはいつものことですよね。わたし、加藤さんって係長のこと苦手なんだと思ってました。でも」
 翔太は内海の言葉を遮るように、片手を上げて階段を降りた。
「ああいうひとだけど、もう三年も一緒に働いてるんだ。マジで苦手だったらとっくに逃げてるさ」
 内海は手すり越しに翔太に言った。
「お疲れさまでしたー」
 翔太はもう一度片手を上げて答えた。
「おー。きらりんも早く帰れよ」
 外へ出ると、月が解け残った雪を照らして明るかった。行人も、あの病室で同じ月を見ているだろうかと、もし見ていたら嬉しいと願いながら、翔太は夜の冷気に固まりかけた道を、ザクザクと踏みしめ地下鉄駅へ向かった。

 ひと晩の観察でとくに異常は認められず、行人には退院の許しが出た。翔太は自分の部屋に預かっている衣類から、行人の着替えを持っていった。行人は仕上げに昨日着ていたスーツを身につけた。
「じゃ、行こうか」
 翔太は行人の荷物を手に提げ、先に立って病室を出た。
 会計を待つ間、行人は翔太に訊いた。
「ショウちゃん、今日はどうやってここへ来たの?」
 翔太は行人とあまり身体を近付けないよう注意しながら、椅子へ座った。
「地下鉄で札駅サツエキまで来て、そこからJRに乗り換えて。でも、大した距離じゃなかったな」
 病院の最寄り駅には快速が止まらない。待ち時間がかえって無駄だった。歩いても所要時間は変わらなかったと翔太は思った。
「あ、でも」
 翔太は付け加えた。
「ユキは熱があるから、帰りはタクシーな」
「はいはい」
 行人は笑ってうなずいた。
 行人の熱は下がって、微熱の範囲になっていた。だがまだ無理はさせられない。病院の前で列をなしていたタクシーに乗り、行人が告げた住所へと走らせた。
 タクシーに揺られながら、翔太はあることに気付いた。
(あれ……? そういえばユキって、家族と暮らしてるんじゃなかったっけ)
 タクシーは市場を抜けていく。看板のあっちにもこっちにも、取引先の屋号が踊る。
(じゃあ、俺、ユキのご家族にご挨拶しなきゃなんないの? ……まあ、いいか。「部下です」っつって、玄関先で引き渡してくればいいんだもんな)
 ちょっと淋しいが、仕方がない。行人は何も言わずに窓の外を見ている。
 タクシーは立派なマンションの前に停まった。オートロックの入り口を通り抜け、カツカツ響く床を歩くとエレベータの前に出る。行人は十二階まであるボタンの八階を押した。
「ふえー、ユキ、すごいとこ住んでるね」
 行人は無言のまま曖昧に笑った。
「ここだよ」と行人がカギを開けた部屋に入ると。
 アイランドキッチンのリビング側がカウンターになっていて、細身のスツールが二脚置かれている。ベランダを背にソファがあるほかは、何もない。二十帖近い広さだと思うが、テレビもない、ガランとしたリビングだった。
「ユキ……ここに、独りで住んでんの?」
 翔太は思わずそう尋ねた。行人は翔太を横目でチラと睨んで言った。
「何を言いたいか大体分かるぞ。誰とも同棲したことないよ。オヤのマンションを相続したの」
「相続……」
 行人は部屋の暖房を入れ、台所でポットを火にかけた。造りのしっかりしたマンションは、ひと晩留守にしてもそんなに冷えない。行人は翔太の着ていたグレーのPコートを受け取り、自分のコートと合わせて玄関のクローゼットにかけた。
「オヤのものがごちゃごちゃとあったけど、全部スッキリ処分したから」
 翔太は行人を振り返った。
「全部?」
「うん。両親はずいぶん前に離婚してて、父親にはずっと会ってなくてね。父は独りでいたみたいで、相続人は俺ひとり」
 行人はキョロキョロと見回す翔太にくすりと笑って、奥のドアをひとつずつ開けて案内した。広い寝室には、キングサイズのベッドがでんと置かれていた。南向きの明るい部屋に、焦茶で統一されたリネン。行人らしいお洒落な配色だ。
「ユキ……こんな広いベッドがあって、俺のシングルに泊まりに来てたの?」
 リビングに近い広さの寝室には、やはり大した家具はなく、小さな本箱にひと並べ本があるだけだった。それと、壁に立てかけられた、ギターが一本。
 何もない部屋だった。
 翔太の胸のどこかがズキンと痛んだ。
(こんな広い空っぽの部屋で、ユキはずっと独りで……)
「ああ、ものを全部処分したとき、寝るとこだけは広くしようと思って」
 台所でカタカタとポットが鳴った。
「ショウちゃん、コーヒー飲む? 豆がちょっと古いかもだけど」
「うん。あ、俺、淹れようか」
 行人はくすりと笑って台所に立った。
「いいよ。ショウちゃんは座ってて」
 まだ熱のある行人にやらせるのは気が引けたが、行人が出してきたのはドリッパーとコーヒーミル。翔太の力が及ぶところではない。行人はカウンターに翔太を座らせ、嬉しそうにポットを傾けた。
 翔太は広いベランダを振り返った。レースのカーテンの向こうには山並みが広がる。翔太は「すごい景色だねえ」と感心した。
「はい、お待たせ。コーヒー入ったよ」
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