ふつつかものですが鬼上司に溺愛されてます

松本尚生

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9、ふつつかものですが、愛してます

9-3

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 カウンターにはビーフシチューにサラダ、バゲットが並んでいた。それから乾杯用の赤ワイン。お祝いだ。カウンターの上には暖色のライトが点いて、食事がとてもおいしく見える。ブツ撮りに使ってもよさそうな環境だと翔太は思った。この三年で、すっかり業界の発想になったものだ。
「ユキ、これ、『ブフ・ブルギニョン』だね」
「ああ。分かった?」
「そりゃもちろん。『Pro'sキッチン』立ち上げたとき、ユキよく言ってたもん。そのくらいの本格料理がないとブランドとしてダメなんだって」
 牛肉のブルゴーニュ風。高価格ラインナップの稼ぎ頭のひとつになった。だが食卓に並んだこれは、できあいの惣菜ではなく、本物だ。
「おいしい……」
 思わず翔太はそう漏らした。行人は嬉しそうに「ホント?」と翔太の顔をのぞき込んだ。この料理は、最低でも六時間はかかる。
「手間と時間がかかったね」
「……うん」
「俺たち、やっとここまで来たね」
「うん」
「ありがとう。ユキのおかげだよ」
 翔太はナイフを置いて、傍らの行人の頬にそっと触れた。
「ユキ……」
 行人は自分の頬に触れた翔太の手に、自分の手を重ねた。
「ん……?」
 翔太の大好きな行人の瞳。大好きな行人の声。行人が、翔太の言葉を待っている。翔太はゆっくり口を開いた。
「ユキ、愛してる」

 リビングの照明は落ちていた。軽く開いた寝室の扉から灯りが漏れ、ポロポロと弦を爪弾く音が聞こえた。
 翔太は湯上がりの身体に雑にパジャマを引っかけ、漏れくる灯りを頼りに寝室の扉を開けた。行人は上体を伸ばして、いじっていたギターをベッドの向こうの壁に立てかけた。翔太はポンとベッドの上に身体を載せた。
「ユキのギター、聞いたことない」
 翔太は行人にそう言った。行人はふっと笑って翔太の手からバスタオルを取り上げ、翔太の髪をパサパサと拭いた。
「ねえ、ユキ」
「今度ね」
 行人はドライヤーのスイッチを入れた。翔太は軽く顎を上げて温風に吹かれた。リズミカルに動く行人の長い指が心地よい。
「ちぇー」
 翔太は唇を尖らせた。
「焦らなくても、そのうち耳にすることもあるさ。これから俺たち、ずっと一緒だろ」
 行人はふふと笑って、翔太の髪を軽く仕上げた。
「はい、できあがり」
「ユキ、……ひとつ聞いてもいい?」
 行人は笑って翔太の顔をのぞき込んだ。
「なに?」
「どうして『俺』なの?」
 行人の瞳は翔太の魂を残らず吸い込みそうに深かった。
「ショウちゃん……、俺、ショウちゃんが何を言いたいか分かる気する」
 翔太の睫毛を、行人の指が軽く、軽く撫であげた。翔太の背骨に微かな電流が走った。翔太ののどから甘く息が漏れた。
 行人が唇を開いた。
「俺が昔バンドやってた頃、業界つながりも多少できてさ。俺に近付いてくるヤツなんて、『こいつとつるんでると何かイイ目みられるんじゃないか』って、薄汚れた連中ばっかりで。まあ、俺もひとのこと言えたもんじゃなかったけど」
 行人は翔太の肩に両腕を回した。翔太は行人の言葉を聞き逃したくなくて、その胸に倒れ込まないよう顎を引いた。行人はポツポツと話し続けた。
「結局音楽は諦めて就職して。面白くもないけど、死ぬほど嫌って訳でもない。自分にできることを淡々とやるだけ。空っぽだった。あの日まで」
(「あの日」……?)
「あの日って……?」
 そう訊いた翔太の声は少しかすれていた。
「ふふっ」
 行人は翔太の身体をギュッと抱きしめた。
「またそうやって、分からない振りする。性悪だね」
「んっ……!」
 行人は勢いよく翔太の肩に体重を載せた。広いベッドのスプリングが弾んで、翔太の背中を抱きとめた。
(あの日)
 翔太は三年前の入社式の日を思い出した。お腹の出た社長の隣で、意地悪そうな笑みで何かと突っ込んでいた、カッコいい男のひと。あんなひとが上司だったらと思って眺めていたら、式が終わって翔太に名札を渡しに近付いてきたのはそのひとだった。そっぽを向いて、先にスタスタ歩いていった行人の気持ちが何だったのか。翔太も今ならそれを知っている。
 あのときから、ずっと。
(このひとは、俺のこと、好きなんだな)
 そしてそれは翔太も同じ。
(このひとに出会えて、よかった)
 翔太は行人の首に腕を回してその唇を引き寄せた。行人はキスにゆっくり時間をかけて、翔太を朦朧とさせた。身体中の血が沸騰して、翔太はもう引き返せなくなる。ほかのひとの唇を翔太は知らない。行人に慣らされた快楽の扉が、開く。
「ショウちゃん、分かってると思うけど」
「……え……?」
 苦しい息の下、翔太は耳許に吹きこまれる行人のささやきに焦らされた。
「ここは角部屋。そっちはリビング。そっちはショウちゃんが荷物を入れた部屋。この物件、上下の防音もバッチリだから」
 行人の声は笑いを含んで甘い。待ちきれなくて、翔太ののどが鳴る。
「んん……」
「もう、こらえなくて、いいから。声、聴かせて」
 狭い翔太の木造アパートではできなかったあれこれ。これからは何の遠慮もせずに、そうしよう。  

 広いベッドにぐったりと脱力する翔太の傍らで、行人が枕に肘を突いた。
「ショウちゃん……のど乾かない?」
「え……?」
 翔太は自分ののどを押さえた。風邪を引いたのとは違う違和感に咳が出た。
「ケホ、ケホ……あー、なんか、声出ない」
 行人は立ち上がった。冷蔵庫からペットボトルの水を持ってきて、翔太の頬に当てた。冷たくて思わず片目をつぶる翔太を、嬉しそうにのぞきこむ。
「叫びすぎて、嗄れちゃったんじゃない? ……すっごいカワイイ声だった」
「ユキ!」
 翔太は行人の手からペットボトルを引ったくり、荒っぽく中身をグビリと飲んだ。恥ずかしくて行人の顔を見られなかった。翔太はそっぽを向いたまま、膝を抱えてベッドの上に座り込んだ。
「ショウちゃん、アノとき、俺にしがみついて『ユキさん』って呼んだね」
「ユ……ユキっ!?」
 焦って振り返ったため、ペットボトルの水がこぼれそうになった。行人はぼやいた。
「『ユキさん』の方が感じるのかなあ。だったら、『さん』付けのままにしておけばよかったかな」
 翔太は唇をかんだまま絶句した。
「――――っ」
「あははっ、ショウちゃん、顔真っ赤!」
 行人は翔太の裸の身体を抱きしめた。
「二年も付き合ってるのに、そんなに初々しい反応……。どこまでカワイければ気が済むんだ」
「ユ、ユキ……」
「ホント、ショウちゃん、性質タチ悪い。俺をどこまで翻弄すれば気が済むの」
 そんな、翻弄だなんて。
「……そんな、翻弄だなんて。むしろユキの方が、俺を……」
 翔太は熱い自分の頬を手の甲でこすりながら言った。
 どっちがどっちでも、もうどうだっていい。
 この虚脱も痺れも、嗄れたのども。
 翔太の身体に腕を回して寝息を立てる行人も。
 ようやくたどり着いた翔太の幸せ。
 手に入れた、最高の幸せだった。 
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