銀鎖

松本尚生

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一、川辺

1ー4

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 気づくとふんふんと鼻歌を歌っていた。

 ハンドルを握りながら、遼一は我ながら驚いた。

 雇い主との面談を済ませ、誘われた昼食を断り、遼一は市街地へ引き返す途中だった。今日の昼は先約がある。

 四月に入り、遼一の仕事は始まった。いくつかの仕事を仰せつかった。

 すでに取引条件の決まっている商談の契約書のチェックを一本と、現地視察に向けロシア側担当者とのメールでのやり取りの翻訳、売り込みたい業種の数社について、公式サイトをチェックして「アヤシイ」社を排除。もしかして、ロシアからの視察受け容れ時の通訳も頼まれるかもしれない。

 メールの翻訳やサイト文言チェックは簡単だとして、契約書はボリューミーな作業だ。法律用語の勉強からしなければならない。法務担当者と緊密に連絡を取りながら進める必要があるだろう。

 通訳は、引き受けようかどうか、正直迷っていた。長年ロシア語研究をしてきて文法や語彙には多少詳しいが、ロシア語話者としての訓練も経験も遼一にはない。カタカナ発音でよければ……だが、もっとできるひとがいれば、そちらに任せるのがベターだ。

 何度か悟を送って降ろした、コンビニの駐車場に車を入れた。ただ停めるのは悪いので、水を一本買って店を出ると、車の横に悟が立っていた。

「こんにちは」

 礼儀正しく悟が挨拶をする。遼一は「乗って」と手で合図して、自分も運転席に乗り込んだ。

「親御さんには何と言ってきたの?」

 一応確認しておかないと。遼一は尋ねた。

「え?」

 悟は黒い瞳をパチクリさせた。

「『え?』じゃなくて。春休みに給食はないんだから、お昼ご飯要らないなら、理由を説明するでしょう」
「……ああ」

 悟はようやく合点がいったとうなづいた。

「食事の準備は別のひとがするんで。そのひとには『要らない』って言ってきました」

 はあ。お坊ちゃまかよ。遼一は肩を落とした。

 子供の面倒を看ないなら、十年近く続くいじめに気づかないこともあり得る。
 


「わあ……!」

 運ばれてきたビーフシチューに悟が歓声を上げた。

 悟が「一度行ってみたい」と言った洋食屋に来ていた。街の郊外、国道沿いのカジュアルレストランだ。春休み中とあって、母と子の組み合わせが数組、大学生なのか若いカップルが一組と、店内はそこそこ混んでいた。

 湯気で悟のまつげが揺れた。素直に喜ばれると、ご馳走のしがいがある。遼一は自分の注文した肉をひと切れ口に入れた。悪くない味だ。

「この間遼一さんが貸してくれたあの本、面白かったよ」
「どの本?」
「ええと、日本の一部が独立して社会主義国家になる話」
「ああ、あれな。ちょっと前の本だけど、面白いよな」
「あと、あれも面白かった。あの……」

 悟は、今どきの子にしては珍しく、本を読むのが好きだった。

 遼一の歓心を引くために好きな振りをしているのでないことは、読んでしまう早さから明らかだった。何冊貸してもすぐに読み終わってしまう。こうした本好きが同級生の中に見つけられていたら、あるいは遼一は今ほど孤独を好むひと嫌いになっていなかったかもしれない。

「遼一さんの本棚、見てみたいな」

 悟は無邪気に笑った。

 食後のコーヒーは、こうした食事の店が出すにしては充分に濃くて、おいしかった。

 遼一は食べ盛りの子供にデザートを何か注文するかと聞いたが、遠慮しているのか本当に満腹したのか、悟はコーヒーだけでよいと答えた。
 
 遼一は、中学生でも読めそうな、ストーリー性のある小説を選んで渡していた。長いもの、若干抽象的なものも喜んで読了してくる悟には、どれを勧めるか迷い始めたところだった。

「じゃあ、今から見に来る?」
「やったあ! いいの?」

 困ったときには、逃げ出したいときには、いつでも俺の部屋へ来るといい。そのひと言をどう切り出したものか思案していた遼一にとって、この流れは渡りに船だった。

 自分はこの子供のセイフティスポットになる。人生で最初の高い山を征服するには、ビバークできるテントが必要だ。

 孤独好きのひと嫌い。そんな自分が、この歳になってようやく誰かの役に立てる。



 途中、少しの菓子と悟の好む飲みものを仕入れた。

 悟は遼一といるときいつもコーヒーを飲んでいたが、本当は甘いココアが好きなのだと知った。遠慮せず好きなものを注文したらいいのにと遼一が言うと、子供っぽくて恥ずかしかったと悟は下を向いた。

「散らかってるけど、どうぞ」
「わあ、お邪魔します」

 一応、簡単な掃除はしてある。

 入るとまず台所で、その奥に二部屋。手前の部屋には仕事道具のPCを置いて、ロシア語関係の書物、経済関係の資料を並べている。小説や文庫本など仕事と関係ないものは奥の部屋。寝室だが、寝具は日中押し入れに仕舞っており、狭いながらもガランとしている。

 悟はお坊ちゃま育ちのようだから、こうした独身男が住む安い賃貸アパートを見るのは初めてだろう。きょろきょろ見回したいのを、失礼にならないようぐっとこらえている様子が見て取れた。遼一は苦笑した。

「どうぞ。好きなだけ見るといい」
「ありがとうございます」 
 
 悟は行儀よく本棚を見にいった。本のタイトルを眺め、背表紙を指でそっと抽きだし、一冊一冊丁寧に見ている。遼一はそんな悟の気配を背中に感じながら、湯を沸かした。

「ほら、ココアが入ったよ」

 遼一が声をかけると、弾むように悟はやってきた。板の間に間に合わせの絨毯を敷き、床に東京時代から使っているテーブルを置いていた。床に座る式の食卓は、人数が増えても対応できることを遼一は知った。

 悟は遼一の向かいに座り、ココアの入ったカップを取った。

「いいお部屋ですね」

 遼一は吹き出した。

「いいよ、そんな気を遣わなくても。君の家なんて、天井も高い豪邸なんじゃないの? こんな月四万のボロアパート褒めないでよ」
「え……、暖かくって、いいお部屋じゃないですか」

 心から意外そうに、悟はそう言った。

 暖かい。今日は天気が好いせいか、四月始めの割に暖かいかもしれない。

 このアパートは、出入り口とキッチンが南に向いていて、リビング兼仕事部屋に使っているこの部屋には朝日しか、寝室には夕陽しか入らない。台所につながっている風呂はユニットバスとは言え寝室の押し入れに接しているので、湿気が心配だ。

 狭い敷地に無理矢理建てたらしい各階一室のぼろアパートだった。通路との出入りのためにはこの配置しかないのだろうが、快適な住まいとは言いがたい。遼一のように衣食住にこだわりがない人間でないと住まないだろう。

 台所の陽気が流れてくるよう、天気の好い日は間仕切りを開け放っている。冬はきっとかなり寒い。三月終わりに入居した遼一は、灯油の使用量に軽く驚いた。北国特有の出費がある。

 悟はすでに、遼一の書棚から数冊を取り出し、テーブルの上に積んでいた。さっそくその中の一冊をパラパラめくり始めた。

「俺ちょっとメールチェックするから、好きなだけいて。さっき買ってきたお菓子もあるし」
「いいんですか?」
「うん。いいよ」

 俺は嫌だったらそう言うから。いいって言ったら、ホントにいいから。そう付け加えて、遼一はPCに向かった。

 悟は、書棚とテーブルを行ったり来たりしながら、しばらく何冊もの本をパラ見していた。遼一は悟の存在を背中に感じながら、それが不快でないことに驚いた。他人が側にいるのに、それを苦痛に感じないとは。
 
 そしてそれは、悟にとってもそうだったかもしれない。家庭にも学校にも、くつろげる場所はないのだとしたら。寒々としたぼろアパートを「暖かい」と表現した悟にとって、毎日暮らす自宅はどれだけ冷たいものなのだろうか。

 暖かい。確かに、背に自分以外の人間の存在があるというのは、こんなにも暖かいものか。

「遼一さんって、専門はロシア語ですよね」
「うん」
「ロシア語科のひとって、英語も得意ですか?」
「ああ、まあ文の構造とか、語源とかは、他のひとよりもちょっとは詳しいかもね」
「じゃあ、たまにでいいんで、僕に英語教えてくれませんか」

 中学二年間で習った英語はあまり理解できなかったが、多分教師の説明との相性がよくなかっただけだと思う。新たに勉強し直したら、受験に間に合うのではないか。悟はそう自己分析して見せた。

「もちろん、遼一さんのお仕事のお邪魔にならない範囲で、お休みの日とか、空いている時間だけでいいんです。お願いできませんか」

 悟はそう頼んだ。

 多分、「英語」は方便だろうと遼一は踏んだ。自分のできる範囲で、この子供の役に立つ。遼一の希望通りになりそうだ。遼一は引き受けた。遼一の快諾に、悟が小躍りしそうに喜んでいるのが不憫だった。

 気の毒な、不幸な子供。

 遼一は悟をそう定義した。自分の心に湧いた不穏な何かにそうした定義を被せなくてはならないほど、背中に感じた悟の気配は暖かく優しかった。
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