銀鎖

松本尚生

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一、川辺

1ー5

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 見覚えのある茶色のセダンを見つけ、悟は兎のように駆けてきた。

「こんにちは!」

 遼一が開けた助手席の窓から、笑顔で悟は挨拶をした。遼一は悟を助手席に載せた。

「お仕事ですか?」
「さっき取引先との打ち合わせが終わってね。ちょうど通りかかったから」

 学校はそろそろ退ける時間かと思った。路肩に車を停め、渡された資料に目を通しながら、遼一は悟が出てくるのを待っていた。

 遼一は悟の都合を聞いた。習い事や塾に通わず友達もいない悟には、何の予定もなかった。

「じゃあ、ちょっと付き合えよ」

 環状通りの大きめの本屋で買いものをし、この間入ったチェーン店のコーヒーショップの、この間と同じ席に二人は座った。手にした飲みものだけが異なった。遼一は同じコーヒーだが、悟はホイップクリームたっぷりのココアだった。

「わあ……」

 悟はさっそく真新しい絵本をめくった。

 遼一は悟に、五歳くらいの子供が読む英語の絵本を買ってやった。英語を学ぶならとにかく読むこと。教科書を一冊、一年かけて読んでいるようでは習得できない。

「本当は好きに読むのがベストなんだけど、受験は来年だからちょっとネジを巻かないとな。ノートに本文を書き出し、知らない単語を書き出し、辞書を引いて、日本語に訳していくこと」

 勉強の手順を遼一が教えてやると、悟は素直にうなずいた。外国語の学習に、悟は最適な教師を見つけたものだ。

「本屋に英語の絵本の在庫があってよかったよ」

 遼一はテーブルに肘をついた。

 街で一番の品揃えを誇り、雑誌からマニアックな専門書のたぐいまで大概手に入った、老舗の書店はなくなっていた。今日立ち寄ったのは、手広く数件経営していたその書店の、郊外型店舗の一軒だ。売り場は書籍半分文具半分。書籍のラインナップは実用書と話題の本が中心で貧相だった。これも時代だ。

「昔はさあ、街なかの本店に行けば大抵の本は手に入ってさ。そこかしこに古本屋も多くて、先立つものが足りないことはあっても、読みたい本が手に入らないなんてこと、なかったんだけどなあ……」

 そう言ってから、遼一は苦笑した。子供の頃の自分の前には未知なる世界が拡がっていて、見るもの触れるもの全てが興味の対象だったのだ。ロシア語研究を十年続けた自分の読みたい本は、果たして当時の本屋で手に入ったかどうか。

 コーヒーショップの前の道はカーブして、新式の橋へと続いている。その向こうにはオレンジとライラックの夕灼け。

「……遼一さん、昔、この街に住んでたんですよね」
「ん? ああ、高校の途中までね」
「高校の途中?」

 悟は不思議そうに首をかしげた。来年受験を控えた悟にとって、せっかく入った高校を途中で替わるなんて、想像の外に違いない。

「編入したんだ、東京の学校に」
「どうしてですか?」

 悟の髪は直毛で、小首をかしげると前髪が額で揺れる。遼一は素直な悟の疑問に、いたずらっぽく笑って答えた。

「やんちゃがバレて、家を叩き出されたんだ。『もう二度と帰ってくるな』って」
「えーっ」

 悟は目を丸くした。

「本当ですか?」
「ああ、ホントホント。だから俺、親の葬式にも帰ってこなかったもん」

 悟はどんな顔をしたらよいのか分からないでいるようだった。困った顔で黙っていたが、しばらくして小さな声でこう尋ねた。

「そんな『やんちゃ』って……。一体何をしたんですか」

 遼一は笑って答えなかった。

(失敗続きの俺の人生でも、あれは一番の失敗だったよなあ)

 遼一は自分の人生を、取り返しのつかない失敗からスタートした。触れてはいけない、大切な、大切な宝物をこなごなに壊してしまった。

 だがその割には、食うに困ることもなく、犯罪に手を染めることもなく、この歳まで生きてきた。ひとづき合いをしない分余計なトラブルに巻き込まれることもなかったし、不満のない悪くない人生だ。

 ただ一点、何のために生きているか分からないことを除いては。

「さあ、そろそろ帰ろうか。送るよ」

 中学生をあまり遅くまで連れ回してはいけない。悟がココアを飲み干すのを待って、遼一は立ち上がった。 

 
 
 悟は、週に三度くらいやってくるようになった。土曜か日曜のどちらかの午後と、あとは平日学校帰りに立ち寄った。
 
 悟が現れるたび、遼一は見えるところに新たな傷やアザはないか、さりげなく観察した。手の甲に青アザがあったことがあった。こめかみに傷があったことがあった。悟の口から相談されない限り、話題にしないことを自分に課していたが、悟が口の端を腫らして現れた日、さすがに遼一は黙っていられなかった。

「どうした、この傷」

 悟を招じ入れに玄関へ立ち、ドアを開けるとすぐ悟の腫れた顔が目に入った。

「ちょっと……」
「あいつらか」

 悟は返事をせず目を伏せた。悟を入れる幅にドアを支えた遼一がそう聞くので、悟は進むこともできず、黙って靴脱ぎに立っていた。遼一はドアを支えた手を離した。

 すべらかな肌に、赤黒い腫れができている。そのせいか、唇はいつもより紅みを増して見えた。

 遼一は、悟の腫れた口の端にそっと触れた。痛々しいなどという簡単な言葉では済まない。遼一の指が触れた瞬間、痛みに悟が顔をしかめた。

 遼一は思い至った。衣服に隠れるところには、どれだけの暴力の痕跡があるのだろうかと。

 十四にも五にもなったガキなら、悪知恵のひとつも働くものだ。今まで、見える部分だけでもと気にしていた自分の愚かさを呪った。今すぐこのか細い身体を押さえつけ、衣服の全てを剥ぎ取って、悪ガキどもの悪行の証拠を探したい衝動に駆られた。

 怒りで、こめかみが、胸が、ドクドクと脈打った。

「遼一……さん?」

 遼一はそうして何秒震えていただろうか。悟はおそるおそる視線を上げ、遼一の顔をのぞき込んだ。黒い瞳に微かに怖れの色を見て、慌てて遼一は悟から離れた。

 自分がこの子供を怯えさせてはいけない。

 遼一はあとずさって、悟が通る隙間を空けた。

 いつものように湯を沸かしてココアを淹れてやった。熱いものはしみるだろうか。

 悟は黙って床に座り、テーブルに勉強道具を広げた。遼一がココアのカップを悟の前に押しやると、悟はカップをそっと持ち上げた。口をつけることなく、捧げ持つようにしていたカップが、少しして震えた。

「悟……?」

 パタ……パタ……と、大粒の涙がテーブルに落ちた。

 火傷しないよう、遼一は悟の手からそっとカップを取り上げた。遼一がカップを握った悟の指を一本一本剥がすのを、パタパタと音を立てて頬を伝った涙がテーブルへ落ちるのを、悟はかわるがわる眺めていた。いつものガラス玉のような瞳。それが。

「う……う……」

 悟ののどからうめき声が漏れた。声が漏れるたび、悟の瞳を覆っていた無表情のガラスが一枚、また一枚と剥がれ落ちた。無表情の下には光があった。怒りと悲しみ、悔しさ、生命の輝き。

 ガラス玉のような瞳は、ここに来て英語の勉強をしているときは人間の目になっていた。ちゃんと感情はあった。
 
 ところが、学校や家庭の話になると途端に何の表情もないガラス玉に戻った。感じないように、辛くないように、自分をそうやって守っているのだと遼一には分かっていた。だから追求しなかった。

 セイフティスポットは、安心できる場所だからセイフティスポットなのだ。そこが安心できなくなったら、存在意義を失ってしまう。悟はやってこなくなる。遼一は黙って待っていた。

 悟はテーブルの上で拳を握りしめ、肩を震わせて泣いた。涙をあふれさせ続ける二つの瞳は、悔しさに黒く輝いていた。

 第一ラウンドは、遼一の勝ちだ。
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