銀鎖

松本尚生

文字の大きさ
31 / 43
四、過ぎゆく秋と、冬の初め

4-10

しおりを挟む
(あなたはどうせ僕のものにはなってくれないんだ)

 悟は悲しくて悲しくて、悲しすぎる自分の感情を放棄するしかできなかった。

(ならもう構わないで)

 遼一は、心の底の底では、決してそのひとを忘れていない。いくら否定されても、遼一の瞳の奥をのぞいてしまう。探してしまう、その痕跡を。

 自分がいつからその疑いを持ったか、今となってはもう分からない。が、遼一の優しいまなざしが、ときに自分を通り越して、もっと遠いところを見つめているのに気づいたとき。

 遼一の視線を取り戻すために躍起になった。いろいろがんばった。がんばればがんばるほど不安は増して――。

「俺の何が悪い?」

(悪くない。遼一さんが悪いんじゃない)

 遼一は大人の男だ。長く生きていれば、何かしらある。過去は過去と割り切って、現在を生きる遼一が自分を見てくれて、自分を愛してくれれば、もうそれでいいじゃないか。悟はそう思おうとした。

 よくある話じゃないか、彼氏の過去が気になるなんて。自分もそんな「よくある話」のひとつだと。

「悟は俺にどうして欲しい?」

(遼一さんは、僕の欲しいものはみんなくれた。みんなくれたのに、遼一さんのくれないものを一番欲しがる僕がダメなんだ)

 優しく見守ってくれた。その胸に抱き留めてくれた。暴れる自分がいつか安心できるのを待つと言ってくれた。快楽も愛も全部くれたのに。

 全部受け止めると怖くなる。まだ十五年しか生きていない自分は、三十二年生きている遼一の経験が怖かった。

 このひとを悲しませた昔の思い出は、歳をとらず遼一の心の中でどんなにか美しいことだろう。そのひとと比べられたら、子供で、女性でもない自分に勝ち目はない。

 勝ち目のない美しいゴーストに戦いを挑み続け、負け続けている。

 もう、疲れた。

(僕のことを忘れて欲しい)

 いっそ、忘れてもらえれば。戦いから降りてしまえばラクになる。そう思い続けて三ヶ月。プレッシャーから、たびたび遼一に八つ当たりしてしまう。遼一はそんな悟の八つ当たりも優しくいなしてくれて。

 遼一は、確かに自分を愛してくれている。そんなことは分かっている。

 分からないから、怖いんじゃない。分かっているから、怖いんだ。

「そうか。分かった。今まで悪かったな」

 ああ……。本当に、これで、最後なんだ。

(僕は、解放される。虚しい、空っぽな、透明なクラゲに戻るんだ)

 透き通って海を漂うクラゲなら、感情に煩わされることもない。悲しいことも、怖いこともなくなる。嬉しいこと、幸せなこともない代わりに、自由で気ままに生きていける。

 自由で気まま?

 胸が痛くて、身体中重くて、息もできないのに? 

 眠れず一晩中涙が止まらないのに? 

 大丈夫、そんな辛いのは今だけだ。すぐに痛いも重いも、感じなくなる。だって、昔からそうだったじゃないか。何も感じない、空っぽの心にきっとすぐ戻る。

 悟の手首を握っていた遼一の指から力が抜けた。悟はあえてそれを振り払わなかった。

 伝わってくる遼一の体温。もうこれが最後。一秒でも長くこの体温を感じていたくて。

 でもこの体温が心地よいと感じるのも、この温かさが涙が出るほど嬉しいのも、今だけ。ちょっとガマンすれば、きっと自分の身体からこの感情は消える。

 本当に消えるのだろうか。

 遼一は、遠い昔のひとを忘れていない。

 悟は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 今遼一から解放される自分も、実際は解放されることなく、遼一のように、何年も何年も、この手の温かさを忘れることができないとしたら。

 遼一の顔が近づいてきた。感情を切り離した悟は、無表情でいるはずだった。遼一の唇がこめかみに触れた。悟の手首から指が離れた。優しい感触。

 最後の、感触。

 悟の視界の隅で、遼一は悟に背を向け、もと来た方へ歩きだした。

 悟の額を、温かなしずくが伝った。

 涙――。

 遼一のこぼした、涙だった。

(遼一さん……泣いて……?)

 胸に鋭い痛みが走る。悟は振り返った。肩を落とし、ふらふらと歩く頼りない男の姿があった。遼一のこんな姿を、悟は見たことがなかった。

(僕の……せいで……)

 そのとき悟はようやく気づいた。自分がどんなに遼一を苦しめていたかということに。あんなに自分を、親よりも愛してくれたひとを、自分がどんなに傷つけていたかということに。

 自分が苦しみから逃れることばかりを考えていた。

 遼一は、自分が悟を愛することが悟を苦しめるなら、悟を諦めるとまで言ってくれたのに。そして、自分から手を離して。

 そしてこんなにボロボロになって去っていく。

 今ようやく悟にも分かった。

 自分が辛いより、もっと辛いことがこの世にあった。

 遼一が堪え忍んでいた辛さは、もしかして、悟が感じていた辛さよりも大きかったかもしれない。

 もうこらえられなかった。その背を黙って見ていられなかった。自分がこんなに誰かを苦しめたなんて。自分がこんなに傷つけてしまったこのひとは、誰より大切なひとなのに。

 悟は再び走り出した。

「遼一さん……!」

 遼一はビクリと肩を震わせて立ち止まった。

「遼一さん」

 悟は速度を緩めることなく、遼一の背中に飛びついた。遼一の身体ががくんと前へ折れた。

「遼一さん、遼一さん、遼一さん……!」

 悟は大きく首を振った。

(無理だ、僕にはやっぱり無理だ)

「ごめんな……さい」

 悟は遼一の苦しみを放置することができなかった。

「やっぱり僕……僕は……」

 遼一はゆっくりと振り返った。

 表情の抜け落ちた、生気のない瞳で、遼一は悟に小さく訊いた。

「本心か」

 悟は遼一を見上げたまま、コクリと一度うなずいた。

 遼一の腕が、すがりつくように強く悟の身体を抱きしめた。
 


 遼一はしばらくそうしていたが、やがて悟の身体を離し、助手席の扉を開けた。悟が乗り込むのを黙って待ち、遼一は扉を閉めた。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 悟は助手席で泣きじゃくった。

 遼一は無言で運転席にいた。悟の泣き声を聞いていた。

 拳で、手の甲で、拭いきれないほどの涙でぐしぐしになって、悟は遼一に許しを乞うた。

 フロントガラスが曇ってきた。初冬の夕闇が下りていた。

「いい。もうやめろ。謝って欲しいわけじゃない」

 遼一はポケットからハンカチを取り出した。悟は責められると思ったのか、びくりと肩を震わせた。遼一は悟を責めなかった。悟の指の隙間から涙に濡れた頬を拭った。

 取り出したハンカチをそのまま悟の指に握らせ、無言で車のエンジンをかけた。


 
 助手席で、悟はひっくひっくと肩を上下させていた。

 車は繁華街、悟の疑惑の根拠となった、街一番の商店街へ向かい、併行して南北を走る一本東の道で折れた。建物のひとつへ車を入れた。

「ひと前では俺を『兄さん』と呼べよ」

 遼一はただひと言悟にそう言った。

 地下駐車場の入り口から入りエレベーターで一階へ上がると、市内で最も格式高いとされるホテルのロビーだった。華やかな礼服の男女がロビーを行き交っていた。泣き腫らした顔の悟をソファに残し、遼一はフロントへ向かった。

 遼一は「続き部屋の空きはあるか」と尋ねた。受験ノイローゼ寸前の甥を教育熱心な自分の兄から一晩だけでも離し、気分をリセットさせたいのだと説明した。もちろん、その母親の依頼で動いていると匂わせて。

 フロント係はPCを叩き、「ございますが、あいにく寝台はひとつでして」と申し訳なさそうに言った。

 遼一は、自分は次の間のソファで寝るので問題ないと言った。毛布の一枚ももらえれば充分だと。フロント係はエクストラベッドを入れることを提案したが、大掛かりになると従弟が過敏に反応するので不要だと断った。

 いずれにせよ、万一のことがあるといけない、今夜自分は熟睡してはいけないのだからと。

 フロント係は大筋で納得したようだった。

「行くぞ」

 言葉少なにそう言って、遼一は悟を促した。悟はおとなしくついてきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

キャロットケーキの季節に

秋乃みかづき
BL
ひょんな事から知り合う、 可愛い系26歳サラリーマンと32歳キレイ系美容師 男性同士の恋愛だけでなく、ヒューマンドラマ的な要素もあり 特に意識したのは リアルな会話と感情 ほのぼのしたり、笑ったり、時にはシリアスも キャラクターの誰かに感情移入していただけたら嬉しいです

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。 そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語

鈴木さんちの家政夫

ユキヤナギ
BL
「もし家事全般を請け負ってくれるなら、家賃はいらないよ」そう言われて鈴木家の住み込み家政夫になった智樹は、雇い主の彩葉に心惹かれていく。だが彼には、一途に想い続けている相手がいた。彩葉の恋を見守るうちに、智樹は心に芽生えた大切な気持ちに気付いていく。

血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】

まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。

俺の親友がモテ過ぎて困る

くるむ
BL
☆完結済みです☆ 番外編として短い話を追加しました。 男子校なのに、当たり前のように毎日誰かに「好きだ」とか「付き合ってくれ」とか言われている俺の親友、結城陽翔(ゆうきはるひ) 中学の時も全く同じ状況で、女子からも男子からも追い掛け回されていたらしい。 一時は断るのも面倒くさくて、誰とも付き合っていなければそのままOKしていたらしいのだけど、それはそれでまた面倒くさくて仕方がなかったのだそうだ(ソリャソウダロ) ……と言う訳で、何を考えたのか陽翔の奴、俺に恋人のフリをしてくれと言う。 て、お前何考えてんの? 何しようとしてんの? ……てなわけで、俺は今日もこいつに振り回されています……。 美形策士×純情平凡♪

【完結】口遊むのはいつもブルージー 〜双子の兄に惚れている後輩から、弟の俺が迫られています〜

星寝むぎ
BL
お気に入りやハートを押してくださって本当にありがとうございます! 心から嬉しいです( ; ; ) ――ただ幸せを願うことが美しい愛なら、これはみっともない恋だ―― “隠しごとありの年下イケメン攻め×双子の兄に劣等感を持つ年上受け” 音楽が好きで、SNSにひっそりと歌ってみた動画を投稿している桃輔。ある日、新入生から唐突な告白を受ける。学校説明会の時に一目惚れされたらしいが、出席した覚えはない。なるほど双子の兄のことか。人違いだと一蹴したが、その新入生・瀬名はめげずに毎日桃輔の元へやってくる。 イタズラ心で兄のことを隠した桃輔は、次第に瀬名と過ごす時間が楽しくなっていく――

今日は少し、遠回りして帰ろう【完】

新羽梅衣
BL
「どうしようもない」 そんな言葉がお似合いの、この感情。 捨ててしまいたいと何度も思って、 結局それができずに、 大事にだいじにしまいこんでいる。 だからどうかせめて、バレないで。 君さえも、気づかないでいてほしい。 ・ ・ 真面目で先生からも頼りにされている枢木一織は、学校一の問題児・三枝頼と同じクラスになる。正反対すぎて関わることなんてないと思っていた一織だったが、何かにつけて頼は一織のことを構ってきて……。 愛が重たい美形×少しひねくれ者のクラス委員長、青春ラブストーリー。

三ヶ月だけの恋人

perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。 殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。 しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。 罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。 それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。

処理中です...