銀鎖

松本尚生

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め

4-9

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「……何のことを言ってるんだ」

 遼一は自分のシャツを握ったまま震えている悟の肩に回そうとした手を止めた。

「そうか……。お前は、俺のこと好きになればなるほど、辛くなるんだな」

 不安な悟は、これまで安定した人間関係を築いたことのない悟は、本当に自分は愛されているか、どこまで許されているか、確かめずにはおれなかった。

 悟は遼一の愛を試していた。だから、遼一の悟への愛が本物だと得心がいけば、お試し行動は止むはずだった。遼一はそう思い、その日まで待つと決めていた。

 だが――。

「もう、……止めようか」

 遼一の存在そのものが、悟を不安に突き落としているのならば。

 悟の遼一へ気持ちが高まれば高まるほど、遼一を失う不安が増してしまうなら。

 もう、遼一自身が、悟から離れることでしか、悟の不安は消えないのかもしれない。幼い時期の愛のレッスン。その短い相手になるだけが、この子の人生における、自分の役目だったのか。

「俺がお前の手を離してやれば、お前は今よりラクになるか?」

 遼一の声はかすれていた。のどがヒリついて痛かった。シャツをつかんだ悟の震えが止まった。

 俺が離れることでしか、この子を苦しみから救えないのなら――。

 遼一は悟の肩に触れられなかった両手を下ろした。狭い天井を見上げた。 

「……俺はどこか欠陥があるのかもな……」

 人間として、男として、何ひとつうまくやれたことがない。

 誰のことも幸せにできない。

 遼一が相手を幸せにしたいと望めば望むほど、得るのは相手の涙だけだった。ひとなみに、誰かと幸せになろうなんて、土台無理な話だったのか。特に悟は。

「未成年だし、歳もこんなに離れているし」

 遼一は床に手をつき、がくりと頭を後ろに反らした。

「そもそもお前は、俺が手を触れちゃいけない宝物みたいなものだったんだしな」

 諦めるしか、ないのか。



「待って」

 悟は遼一のシャツから指を離した。

「……今の、何?」

 悟はゆっくりと宙に向かって問いかけた。

「『止めようか』って、何を止めるの?」

 僕を愛するのを、止めちゃうってこと?

 絞り出すようにそう言って、悟は呆然と何もない空間を見つめた。

「やっぱり、僕は、誰からも愛されることなんて、ないんだね……」

 違う。その結論は、絶望と引き替えに、背後から襲ってくる不安を消滅させるだろうが、それは違うんだ、悟。

 遼一はそう伝えたかった。が、自分の口から出る言葉は、どれも結局悟の不安を増すだけだった。

 なら、自分はもうその言葉を言わない。

 自分がこの子にしてやれるのが、この子の不安を少しでも減らすことしかないなら、どんなにこの子自身が心の底から欲している言葉であっても、自分の口からはもう言えない。

「分かった」

 悟はカバンを手許へ引き戻した。

「僕はまた、元の冷たい透明人間に戻るよ」

 のろのろと荷物をまとめながら、口の中で呟いた。

「生きながら死んでいる、ただのクラゲの残骸だ」

 初めからそうだったんだ。人間になれたと思ったのが間違いだったんだ。

 立ち上がろうと膝を立てた悟の動きが途中で止まった。

  遼一が、悟の手首をつかんでいた。

「はなして。もうかえらなきゃ」

 抑揚のない声で悟は言った。遼一はその手を離せなかった。離してやらなければ、今自分が離してやれば、そう思っているのに、遼一はその手に加えた力を解けなかった。

「もういいから」

「……いやだ」

「はなして」

「嫌だ!」

 ガラス玉の瞳がこちらを見ていた。父母に殺され、悪ガキ共に殺され、やっと生き返ったこの子供を、俺がまた殺してしまった。

 離してやらなければならない。そう思ったのに。

 俺は諦めきれない。

「俺はどうすればいい? 教えてくれ」

 お前を諦められないんだ。

 遼一はすがるように悟にそう訊いた。

 悟は遼一に握られた自分の手首を見下ろして言った。

「わからない……」

 遼一は重ねて問うた。 

「俺が何をすれば、お前は信じてくれるんだ?」

 向けられたのは、ガラス玉の瞳。

「わからないよ……」

 遼一の手から力が抜けた。手首をつかんでいたその手は、悟の手を、指を伝って、床に落ちた。

 悟はカチャリとテーブルに何か置いて部屋を出ていった。

 この部屋のカギだった。



 携帯を鳴らしても、何度鳴らしても悟は応答しなかった。充電するのを止めてしまったのか、数日後には呼び鈴が鳴っている気配もなくなった。

 もともと遼一との連絡用に与えたものだった。遼一の部屋に来ることがなくなれば、持っている意味もない道具だった。

 諦めよう。そう思うたび遼一は、最後の夜、またガラス玉に戻ってしまった悟の瞳を思い出した。

 あの子は、あの死んだような目で、誰もいない空っぽのお屋敷で、独りで俯いて座っているのだろう。

 泣いてはいないだろうか。

 ひくりひくりとのどを鳴らして、聞いているこちらの胸がえぐられるような泣き方を、あの子はする。なのに誰にも助けを求めず、遼一のシャツをつかむことすら遠慮して。遼一の裸の胸に初めてすがりついたのさえ、身体を許したその後だった。

 親にも構われず、お手伝いさんが行き交う自宅で、悟は長い夜をどう過ごしているのだろうか。勉強は進んでいるか。食事はしているか。ぐっすり眠れているだろうか。

 自分は決意して、あの手を離したはずだった。

 自分といるよりも、不安と手を切った方が、悟の精神が安定するのならば。それしか方法がないのなら、そうすべきだと判断したのだ。

 だが、来る日も来る日も、遼一を後悔が苦しめる。

 自分はまたやってしまった。愛するものを救えなかった。自分がそのひとを愛することが、そのひとを苦しめ不幸にしてしまう。もう、誰も不幸にはしたくない。

 そう。悟を不幸にするのだけは。

 今度こそ、悟だけは、自分の不幸に巻き込んではいけない。

 諦めるしか、ないのだ。

 遼一は充分分かっていた。なのに、PCに向かっていても、風呂に入っていても、車を走らせていても、聞こえてくるのは悟の声だった。

 抑揚のない平坦な口調、礼儀正しい挨拶言葉、恥ずかしそうに甘えてくる声、激しい怒声、遼一の与える感覚にこらえきれず漏らすあのため息。あの声をもう一度聞けるなら、何を失っても構わないとさえ思い詰めた頃。

 遼一の電話が鳴った。

 悟の担任の大塚からだった。

 大塚の話を聞いた遼一は、最後の行動を取ることに決めた。

 これで、本当に、最後だ。


 
 遼一は中学校の前で車を停めた。課業の終わる頃合い、友人もない悟が出てくる時間。遼一が何度も繰り返し悟を迎えに出てきたタイミングだった。

 その日も、やはり悟は現れた。

 悟は俯いたまま校門を出てきた。いつものように。俯いたままなのに、なぜかこちらに気づいたらしいのも、いつもと同じだった。ハッと肩をすくませて、悟は慌てて反対方向へ走り出した。

 遼一は車を発進させた。

 学校から吐き出された子供の群れが途切れる辺りで、遼一は車を降りた。

「悟!」

 悟は重い鞄に腰の重心を持っていかれながら、息を切らして走り続けた。だが、成長途上の身体と一八〇cmの遼一とではリーチが違う。遼一はすぐに悟に追いつき、その細い手首をつかんだ。

「悟」

 遼一は悟の顔を、首を間近にみた。顔色悪く、目の周りは黒ずんでいた。あんなに紅くうるんで遼一を魅了した唇も、白く乾いてひび割れていた。ほんの数日しか経っていないのに、頬も痩せてくぼんでしまって。

 悟は観念したのか遼一の手を振り解こうともせず、抑揚のない声で言った。

「はなしてよ」

 涙も涸れ果てたのか、悟は何らの表情も浮かべず淡々とそう言った。

「あなたはどうせ僕のものにはなってくれないんだ。ならもう構わないで」

 秋深まり、日は驚くほど早く暮れる。往来の車のライトが時折眩しく視界を照らした。

 遼一の心は全部悟のものだった。それを悟も知っているはずだった。

「俺は、どうしたらお前に信じてもらえる?」

 俺の何が悪い? 悟は俺にどうして欲しい?

 遼一はそう悟に尋ねた。遼一は本心から悟だけを愛していた。それを言葉にも態度にも表現して、いつか悟はそれを得心するはずだった。遼一はその日を待っていた。

 なぜ、悟はこんなにも、自分を信じないのか。自分は悟の姿の向こうに何を見ていると? 

 そんなことはあり得ない。もう「いつか」を待ってはいられなかった。自分にできることなら何でもする。悟が望むことなら、できないことだってやってやる。だから――。

 悟の乾いた唇が動いた。

「僕のことを忘れて欲しい」

 その手を離して。悟は地面を見たままそう言った。

 息が止まった。

 苦しい呼吸をねじ伏せて遼一は問うた。最後の問いを。

「本心か」

 悟は答えなかった。

 悟は、もう、自分を「試して」いるのではなかったのだ。遼一は深く息を吐いた。重い塊が胸を塞ぎ、肺の膨らみを邪魔している。が、もうひと言、最後の言葉を。

「そうか。分かった。今まで悪かったな」

 遼一は悟の手首を握りしめていた指から力を抜いた。悟も無理に振り放さなかった。ふたりの手はつながれたままゆるゆると下へ降りた。

 遼一は悟の横顔を見下ろした。カサついた肌、割れた唇、そして、感情の見られない瞳。悟は足下を見たまま黙っていた。

 遼一は悟の手を離す前に、うつむく悟のこめかみにそっと唇を触れた。

 そして、ゆっくりと、愛した小鳥から手を離した。

 小鳥の感触、体温、軽いさえずり。

 夕暮れの空に、すべて返してしまおう。

 路上に停めた車まで歩きながら、遼一は空を見上げた。街路灯のオレンジの光が暮れかけた空に滲んで虹色に流れた。
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