銀鎖

松本尚生

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め

4-8

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 悟のテスト期間は終了して、合宿は終わり、悟は自宅へ帰っていった。

 合宿期間中、少しずつ悟の身の回りのものが増えていた。パジャマやセーター。歯みがきコップと歯ブラシ。もう悟はいつでもここで暮らせるのだった。

 テストの結果次第で志望校が決まる。地域最高レベルの学校は、遼一の部屋からすぐだ。そこを受験でき、合格できれば、遼一の部屋に下宿する意味が発生する。そこ以外の学校なら、遼一の部屋からでも悟の自宅からでも、利便性にとくに差はない。

 そうなったら、部屋を移ろうかと遼一は最近考えていた。

 いずれにせよ、今の部屋はふたりで住むには狭い。寝室にはふとんをひと組しか敷けないし、悟の勉強机もいるだろう。高校生にもなって、勉強はいつも床置きの小さなテーブルでは可哀想だ。

 春から遼一は新しく引き受けた仕事のせいで、本業の株取引に時間と意識を避けず、確定できた利益は少なかった。ロシア貿易関連の仕事も大分コツをつかめた。そろそろ本業に意識を振り向けようと思った。

 もう少し金が欲しい。あの子のために遣ってやりたい。

 蓄えはあるが、遼一は十代の頃から自分の生活の面倒を自分で看てきた。浮かれて金遣いが荒くなることはない。余計に遣いたければ余計に稼ぐ。

 買いものに連れ出すと、悟は遼一の部屋で使う生活用品を嬉しそうに選んだ。照れくさそうに、くすぐったそうに、目の周りをうっすら紅くして、あれこれ吟味して品ものを選び、遼一が会計を終えると毎回行儀よく礼を言った。

 三十数年、ずっと自分ひとりのために生きてきた。

 悟のために何かをするのが、こんなに脳髄を痺れさせる。

 だがその当人は、そんな遼一の心を理解しない。そればかりか、遼一の心を独り占めしようと必死なのだ。

 このギャップは何なのだろう。これがひとと生きるということなのか。

 悟は自分の手許に置かないとダメだ。

 遼一は思った。いつでも手の届くところに置いて、いつでも抱きしめてやって、あの不安をあの子の心から追い出してやらないと。

 悟もいつか、遼一の愛を信じられるようになるだろう。遼一の許容範囲を確かめる「お試し行動」が止む日まで。

 それまで、そしてそれからも、思いつく限りのことをしてやる。

 遼一はそう決めていた。



 前場で利益確定できた。ひさびさの大金星だった。

 遼一は機嫌がよかった。

 面倒なロシア企業との契約書も、法律用語に慣れてきて、初めの頃より短時間で片づくようになった。冬は新規案件が少ないらしい。夏ほど歩合が入らないなら、かえって本業に集中しやすいというものだった。 

 遼一がPCのモニターにいくつもの画面を開いて、複数銘柄の比較検討をしていると、ドアのブザーが鳴った。

「おかえり」

 ドアを開くと、悟がそっと遼一の胸に頬を寄せた。

「……ただいま」

 そう小さな声で呟いて、赤い顔をして慌てて離れ、靴を脱いだ。

「どうだった?」

 遼一はそう尋ねた。各教科、ぞくぞくとテスト結果が帰ってきていた。

「うん。A校、狙えるって。内申はリカバーしたみたい」

 悟は台所で薬缶に水を入れながら言った。

「担任から、そう言われた」

「大塚先生か」

「うん」

 遼一は背後から悟の肩に腕を回した。

「よくがんばったな」

 悟は薬缶を火にかけた。

「うん、先生にも同じことを言われたよ」

 そして多分、悟はもうこのことを親には伝えない。血がつながっているというだけの存在を、捨てる準備はできていた。父親とは契約が成立していた。あとは母親だけだった。

「遼一さんのおかげだね」

 悟は目を閉じて、遼一の胸に寄りかかった。

「悟の本来の実力だろう」

 遼一は悟の細い身体を慈しむように抱きしめた。遼一の腕の中で、悟の胸郭が呼吸していた。悟の細い腰が、次の手順のために動いた。

「遼一さんはさあ……」

 悟はドリッパーに湯を注ぎながら言った。

「ん? 何だ?」

「甘えんぼだね」

「えぇ?」

「だってさあ」

 悟は薬缶を置いた。

「いつもこうやって、ベタベタ甘えてくるじゃない。大人なのに、可愛いよね」

 そんなに、僕のこと好きなの?

 悟はそう言って、遼一の腕の中でくるりと振り返った。

 小悪魔のようにずるい笑みを浮かべながら、その瞳はまた切実な光を宿して、遼一の反応をうかがっている。

「ああ。好きだよ」

 遼一はあえて言葉に出す。何度でも、何度でも、悟を安心させる言葉をその耳に吹き込む。言葉が真っ直ぐに、心の深いところに届くまで、何度でも。

「じゃあさ、遼一さん。コーヒー飲んでて」

 悟は目を伏せて遼一から身体を離し、甘い時間の支度に立った。


 
 寝乱れたふとんをそのままにして、遼一はPCに向かい、悟は英文法の問題集を開いた。

 遼一の作った夕食をふたりで摂ると、夜はとっぷり更けていた。親は捨てる覚悟だが、まだそれを気取られてはならない。中学生が帰るべき時間に、悟は親の家に帰らねばならない。

 母に話すそのときまでは、品行方正に。

「また、恐怖の時間だ」

 遼一が帰宅を促すと、悟はため息をついた。

「悟?」

 手許に引き寄せたカバンに、悟は勉強道具を詰めた。

「遼一さんと離れて家にいると、気が狂いそうになる」

 遼一は車の鍵を手に取って、呟く悟を見下ろした。

「遼一さんの笑顔を思い出して」

 悟ののどがひくりと鳴った。

「遼一さんのセックスを思い出して、大丈夫、僕は愛されてると思おうとするけど、やっぱり怖くて」

 遼一は悟の前に膝をついた。

「どうしてだ? 何が怖い?」

 遼一はそう優しく問うた。背後から追いかけてくる恐怖は、自室でひとりになった瞬間、悟に追いついてしまうのだろうか。

 悟の瞳が昏く光った。

「だって、遼一さん、『街』に足を踏み入れないじゃないか」

「……何のことだ」

 見当もつかなかった。いつもいろいろ言いがかりをつけられ暴れられているが、今日のもよく分からない。いざとなったらいつでも悟の身体を引き寄せられるよう、遼一は悟の側で身構えた。

 悟はカバンのひもを握りしめた。

「いくら誘っても、絶対行かないの、自分で気づいてないの?」

「え……?」

 そんなことはない。ないがしかし。

 思い返すと、確かに商店街を悟と連れ立って歩いた記憶はなかった。専門店や催しが揃う、この街一番の繁華街に、半年間一度も足を踏み入れないのは不自然だった。

 いや、この街に戻ってからは車を手に入れたので、街中にわざわざ車を乗り入れるのは面倒だから――。

「僕の顔を見ているようで、あなたの視線はときどき遠い後ろに焦点が合ってる。そんな遠い目をしてるよ」

 商店街には、服屋もあるし、靴屋もある。昔のものとは違っていても、本屋もあるだろうし飯屋も食料品店も、何でもあるはずだ。

 そして遼一の部屋からは徒歩で行ける。ちょっとした買いものなら、郊外のショッピングモールへ車を飛ばして、広い駐車場に車を止め、広い店内を歩いて買い回るよりよほど早く済むかもしれない。

 昔よく行ったラーメン屋も、同じビルにあったレコード店も。大道芸人のパフォーマンスの間に走って戻ったあの店は、今も営業しているだろうか……。

「ねえ、あなたは、僕を通じて誰を見てるの?」

 その言葉に遼一はハッとした。辿っていた記憶から引き戻された。目の前の悟の顔を見た。悟の指が、遼一の頬にそっと触れた。

「そのひとと僕は、よく似てるの?」

 悟は小声でそう言って、遼一に優しく微笑んだ。

 こういうとき、悟はいつも激しい怒りの発作に見舞われ、遼一にひどく八つ当たりする。こんな穏やかな笑みを浮かべる悟は初めてだった。

 キレイな、そして淋しい笑みから遼一は目が離せなかった。抱き寄せることも忘れていた。悟の瞳からつーとひと筋涙がこぼれた。

「昔何があったかは聞きたくない」

 悟は遼一の頬から指を離し、拳をきつく握りしめた。

「でも、あなたの心を傷つけた昔の誰かは、今もあなたの心を縛ってる」

 悟の目からポタポタと涙があふれ、膝の上の拳に落ちた。

 誤解だ。遼一はそう言おうとして、声が出なかった。

「嫌だ」

 悟は大きく首を振った。

「僕のものだ」

 身動きできずにいる遼一に向かって、悟は顔を上げて叫んだ。

「もうあなたの前には戻ってこないひとを追いかけないで」

 誰のことだ。悟、お前は何を誤解して――。

「そのひとは、あなたを幸せにしてはくれなかったんでしょ? なら……」

 悟は肩を大きく震わせ、遼一のシャツをつかんだ。

「僕のものになってよ」

 お願いだから……。

 悟はそう言って、遼一のシャツの胸の辺りを揺さぶって泣いた。
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