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三、二〇一〇年 東京―2
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古い洋館では淡々と作業が進行していた。
篠原美香留を伴って暢子たちが戻ったときには、月刊連載四十ページのうち半分くらいに綾乃の絵が入り、亮子、リン、いずみが、手分けして背景や小物を入れていた。
「センセイ、このコ、篠原美香留さん。『みかる』は『ミハエル』だそうよ。クリスチャンのお母さまの命名ですって」
暢子はリンの方を向いてつけ加えた。
「『天使』が大好きなんですって。あなたと話が合うんじゃない?」
「ノブさん、『天使』好きじゃない人間なんて、ここにゃいませんって。あたしたちみぃんなそうですよ」
サブアシの亮子が叫んだ。みなうんうんと深く頷いている。 名前のせいで、ここの現場に馴染みやすいのは確かだ。
肝腎の綾乃は素っ気なく挨拶して、こう言った。
「まず今日は指示されたように描いてみて。正式に採用するかどうかはそれ見て決めるから」
「はい、お願いいたします」
気丈に答えたものの、美香留の頬は引きつっていた。さっそく実戦投入だ。
「あんたのことは『ミカ』って呼ぶ」
と亮子が宣言した。
「はい、よろしくお願いいたします」
そう言って美香留は笑って頭を下げた。片頬にえくぼができた。
登紀子に冷やかされた通り、暢子はきかん気の強い美少女には弱い。こうしたアーモンドアイがきりっと輝く少女なら尚更だ。きっとあれこれ世話を焼いてしまう。
ここが決まれば、月に十万は固い。そうすれば何とか暮らせる。
暢子は自分の若い頃を思い出していた。親からは最低限の仕送りしかして貰えず、生活費は綾乃とふたりで切り詰めて、どうにかこうにかやっていた。
担当はついてもデビューは遠く、先の見えない日々。
過去の自分が目の前にやってきたら、誰しも肩入れしたくなる。手を差し延べてやりたくなる。
それが人情じゃないか。暢子はそう思った。
だが、暢子には分かっていた。この子、美香留は、過去の自分じゃない。この生き生きとした切れ長の瞳は。
過去の綾乃だ。
「北山さん、一緒じゃなかったの」
暢子が広間の壁にかけたホワイトボードにスケジュールを書き入れていると、台所からコーヒーを手に戻ってきたリンが小声でそっと言った。
「ああ。社にはいたけどね。仕事の手を休めさせてすっかりつき合わせちゃったよ」
暢子はマーカーを動かしながら答えた。
「……てっきり一緒にここに来るのかと、思った」
暢子はリンの顔を見た。
「福住書店の仕事中に? 打ち合わせもできやしないよ」
「うん……。そうだよね」
リンは下を向いた。
メカ担当のリンは今ちょうど手空きだった。暢子はさりげなくホールに出た。リンはついてきた。
仕事場を構えた祝いに同業者から贈られたアンティークの柱時計が、ボーン、ボーンと懐かしいような音を立てる。
暢子はホールに置かれた年代物のソファに座った。
「リン。あんた、鈴鳴蕩治楼と、仕事以外でもつき合ってるの?」
「それ、どういう意味」
「とぼけなくてもいいって」
暢子がきっぱりそう言うと、リンは手にしたカップをギュッと握りしめた。
「……ごめん。別にプライベートをどうこう言いたいんじゃないんだ。ただ」
暢子は目を伏せた。
「あいつ、鈴鳴は、止めた方がいいんじゃない」
評判、よくないよ。暢子は言った。
あの夜、晴月社のパーティから流れた飲み会がお開きになって、リンだけが駅ではなく逆方向へ向かった。暢子にはそれがどうも気になっていた。
「どうして? ノブさん」
いつもへらへらしているリンにしては珍しく、口調に怒りがにじんでいた。
「うん……」
どうしたものか、と暢子は迷った。
「何か知ってるの? だったら、ノブさん、言ってよ。お願いだから」
「うん。……あいつ」
ひとを、殺してるよ。
「嘘」
「嘘じゃない。いわゆる殺人ではないけど」
この業界に長くいるものなら、記憶のどこかに残っている。鈴鳴が、当時つき合っていた編集者と、心中し損なって自分だけ生き残ったことを。
「実際、心中かどうかも謎だったんだ。死んだ編集者と揉めてたのは確かだったらしいけど、愛憎半ばな関係だったのか、人目を憚っていただけなのか、それとも」
憎しみあっていた仇敵だったのか。
「プレイ中に過失で殺した、って説もあって。どれもそれなりに真実っぽかったんだ、あの頃。本妻とも揉めたまま清算しきれてなかったのにって」
暢子はその場に立ち尽くすリンを見上げた。
「遊びだったら別にいいけど、リン、あんたの歳であんな年上の男と遊びってのも、端から見れば痛ましいよ。ましてあんたみたいな純情なコがさ。……ヘンな苦労させたくないじゃん、やっぱり」
あんた、いい子だから。
「あの鈴鳴とつき合うくらいなら、それこそ北山さんみたいなひとの方が」
「やめて」
今度はリンがぴしゃりと言った。
「いくらノブさんでも、怒るよ」
リンは暢子の前にしゃがみ込み、暢子の顔をのぞき込んだ。
「ずるいよノブさん。捕まえておきたいひとがいるんなら、自分で動いてよ。あたしをダシにするんじゃなく」
「え?」
どういうこと。
暢子はきょとんとして、自分をのぞき込むリンを見返した。
「あなたの韜晦は年季が入っているから。あたしなんかに崩せるはずないけど」
リンは立ち上がり、そう言い捨てて広間に戻っていった。
暢子はしばらくソファに沈み込んだままじっとしていた。
篠原美香留を伴って暢子たちが戻ったときには、月刊連載四十ページのうち半分くらいに綾乃の絵が入り、亮子、リン、いずみが、手分けして背景や小物を入れていた。
「センセイ、このコ、篠原美香留さん。『みかる』は『ミハエル』だそうよ。クリスチャンのお母さまの命名ですって」
暢子はリンの方を向いてつけ加えた。
「『天使』が大好きなんですって。あなたと話が合うんじゃない?」
「ノブさん、『天使』好きじゃない人間なんて、ここにゃいませんって。あたしたちみぃんなそうですよ」
サブアシの亮子が叫んだ。みなうんうんと深く頷いている。 名前のせいで、ここの現場に馴染みやすいのは確かだ。
肝腎の綾乃は素っ気なく挨拶して、こう言った。
「まず今日は指示されたように描いてみて。正式に採用するかどうかはそれ見て決めるから」
「はい、お願いいたします」
気丈に答えたものの、美香留の頬は引きつっていた。さっそく実戦投入だ。
「あんたのことは『ミカ』って呼ぶ」
と亮子が宣言した。
「はい、よろしくお願いいたします」
そう言って美香留は笑って頭を下げた。片頬にえくぼができた。
登紀子に冷やかされた通り、暢子はきかん気の強い美少女には弱い。こうしたアーモンドアイがきりっと輝く少女なら尚更だ。きっとあれこれ世話を焼いてしまう。
ここが決まれば、月に十万は固い。そうすれば何とか暮らせる。
暢子は自分の若い頃を思い出していた。親からは最低限の仕送りしかして貰えず、生活費は綾乃とふたりで切り詰めて、どうにかこうにかやっていた。
担当はついてもデビューは遠く、先の見えない日々。
過去の自分が目の前にやってきたら、誰しも肩入れしたくなる。手を差し延べてやりたくなる。
それが人情じゃないか。暢子はそう思った。
だが、暢子には分かっていた。この子、美香留は、過去の自分じゃない。この生き生きとした切れ長の瞳は。
過去の綾乃だ。
「北山さん、一緒じゃなかったの」
暢子が広間の壁にかけたホワイトボードにスケジュールを書き入れていると、台所からコーヒーを手に戻ってきたリンが小声でそっと言った。
「ああ。社にはいたけどね。仕事の手を休めさせてすっかりつき合わせちゃったよ」
暢子はマーカーを動かしながら答えた。
「……てっきり一緒にここに来るのかと、思った」
暢子はリンの顔を見た。
「福住書店の仕事中に? 打ち合わせもできやしないよ」
「うん……。そうだよね」
リンは下を向いた。
メカ担当のリンは今ちょうど手空きだった。暢子はさりげなくホールに出た。リンはついてきた。
仕事場を構えた祝いに同業者から贈られたアンティークの柱時計が、ボーン、ボーンと懐かしいような音を立てる。
暢子はホールに置かれた年代物のソファに座った。
「リン。あんた、鈴鳴蕩治楼と、仕事以外でもつき合ってるの?」
「それ、どういう意味」
「とぼけなくてもいいって」
暢子がきっぱりそう言うと、リンは手にしたカップをギュッと握りしめた。
「……ごめん。別にプライベートをどうこう言いたいんじゃないんだ。ただ」
暢子は目を伏せた。
「あいつ、鈴鳴は、止めた方がいいんじゃない」
評判、よくないよ。暢子は言った。
あの夜、晴月社のパーティから流れた飲み会がお開きになって、リンだけが駅ではなく逆方向へ向かった。暢子にはそれがどうも気になっていた。
「どうして? ノブさん」
いつもへらへらしているリンにしては珍しく、口調に怒りがにじんでいた。
「うん……」
どうしたものか、と暢子は迷った。
「何か知ってるの? だったら、ノブさん、言ってよ。お願いだから」
「うん。……あいつ」
ひとを、殺してるよ。
「嘘」
「嘘じゃない。いわゆる殺人ではないけど」
この業界に長くいるものなら、記憶のどこかに残っている。鈴鳴が、当時つき合っていた編集者と、心中し損なって自分だけ生き残ったことを。
「実際、心中かどうかも謎だったんだ。死んだ編集者と揉めてたのは確かだったらしいけど、愛憎半ばな関係だったのか、人目を憚っていただけなのか、それとも」
憎しみあっていた仇敵だったのか。
「プレイ中に過失で殺した、って説もあって。どれもそれなりに真実っぽかったんだ、あの頃。本妻とも揉めたまま清算しきれてなかったのにって」
暢子はその場に立ち尽くすリンを見上げた。
「遊びだったら別にいいけど、リン、あんたの歳であんな年上の男と遊びってのも、端から見れば痛ましいよ。ましてあんたみたいな純情なコがさ。……ヘンな苦労させたくないじゃん、やっぱり」
あんた、いい子だから。
「あの鈴鳴とつき合うくらいなら、それこそ北山さんみたいなひとの方が」
「やめて」
今度はリンがぴしゃりと言った。
「いくらノブさんでも、怒るよ」
リンは暢子の前にしゃがみ込み、暢子の顔をのぞき込んだ。
「ずるいよノブさん。捕まえておきたいひとがいるんなら、自分で動いてよ。あたしをダシにするんじゃなく」
「え?」
どういうこと。
暢子はきょとんとして、自分をのぞき込むリンを見返した。
「あなたの韜晦は年季が入っているから。あたしなんかに崩せるはずないけど」
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