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三、二〇一〇年 東京―2
④
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みんなを帰したあと、綾乃はしばらく仕事場に残る。暢子も今夜は一緒に残った。
「今夜は」と言っても、綾乃をひとり置いて暢子が先に帰ることはない。自分では勤務時間を管理している積もりだが、暢子にそんなことはできていなかった。
食堂にはまなが作ってくれた綾乃の夜食が並べられていた。そしてその横には、健啖家の綾乃には軽すぎる少量の皿。また暢子を心配して、まなが別に用意してくれたものだ。
食卓を見て暢子は軽くため息をつき、肩越しに広間の綾乃に声をかけた。
「センセイ、今日十二夜の池野さんから電話もらいました」
「ああ。返事しといてくれた?」
綾乃は振り返りもせず、今日一日の原稿の進み具合を確認していた。
「一応、その場で断りはしなかったです」
「『断る』? 何でそうなるの」
感情の入らない綾乃の声に、暢子は焦れて広間へ戻った。
「だってセンセイ、このタイミングで、『グリーン』なんていつ描くんですか。まだ『――戦い』だって、あと二回あるんですよ」
綾乃は原稿に目を落としたまま不敵に笑っている。
全くどうかしている。この女、頭がおかしい。
暢子は心の中でそう毒づく。綾乃が続けた。
「今日来たコ、いいコだったね。何てったっけ。ええと」
「篠原美香留」
「おお、それそれ。ミカル。あれだったら本採用だ。正社員枠でもいいな」
「そんなに気に入ったのなら、本人に言ってやればよかったのに」
明日の集合時間を確認したとき美香留にもみなと同じように伝えたが、その時点では綾乃の意向を確認できず、不安そうな顔で帰っていった。
採用になったのか、そうでないのか。今頃思い悩んでいるのではなかろうか。
暢子がそう言うと、綾乃はようやく顔を上げた。
「そんな、あんたじゃあるまいし」
綾乃は手にしていた原稿を置いた。
「ああいうタイプはね、そういう考えてもしようのないことを、いつまでもうだうだ考えてたりしないものだよ」
「よく分かるね」
「ああ。似てるだろ、若い頃の俺に。だからお前も気にしてるんだ」
そう言って綾乃は暢子を見て目を細めた。
暢子が何も言えなくなるのを、さも面白そうにニヤついて眺めている。その瞳の奥にはいつものように冷たい何かが凍っている。
ぐっと言葉に詰まったまま、暢子は腹立たしい気持ちでいっぱいになる。
(何て性悪なんだ)
そう憤りながら、暢子は自分の心の端っこに不安が揺らめくのを感じた。いつの頃からか生まれた不安。
綾乃が自分に向ける感情のどこかに、憎しみが紛れているのではないか。
暢子は綾乃が分からない。
綾乃の思考は大体分かる。が、綾乃の心の奥でどんな感情が動いているかは、全く分からない。
「分かる」くらいなら、綾乃と同じくらいスケールの大きな物語を紡げるのだ。
自分はその世界から降りた。それならと、日常をエッセイマンガにつづれるほど、自分を晒けだすこともできない。
結局、「描き手」でい続けるためのハードルを、自身で越すことができなかったのだ。
にらみ合うような数秒が過ぎた。
暢子の表情を心ゆくまで味わって、綾乃は「さーて、メシにするかな」と大股で食堂へ歩いていった。
暢子はさっきまで綾乃が手にしていた原稿を、ノンブル順に揃えながらぱらぱらと眺めた。
「花咲くオトメ探偵の事件ファイル」というタイトルの現代物で、主人公の女子高生が、頼りない兄の探偵業をキビしく助けながら事件を解決するという「爽快活劇(編集者のつけたアオリ)」、略称は「オトメ」だ。
毎回サスペンスの要素が必須で、原稿にタッチしなくなって久しい暢子も、この作品のネタ出しには参加する。毎回苦労させられる作品である。
今回はアクションシーンも多く、綾乃の手になる描線が軽快に踊っていた。
絵は荒れていない。暢子はほっとした。
そうだ。「十二夜」の仕事の話をしなきゃ。暢子は綾乃を追って食堂に入った。
「お。来たな」
暢子が近づくなり、綾乃はグラスを突き出した。
「ん、何」
「へへへー」
暢子は突き出された綾乃の手許を見た。
仕事場に、綾乃は数本のワインを用意している。暢子は酒に興味がないが、ここに泊まり込むこともある綾乃は、常にワインを何種類かキープしておきたがる。
テーブルに置かれた瓶には、綾乃気に入りのラベルがあった。
「何か、呑みたくなってな。いいだろ? 今日の仕事は終わったぞ」
綾乃は屈託なく笑った。さっきの意地悪げな笑みとは全く違う、ティーンエイジャーのような素直な笑顔だった。
暢子は黙って深紅の液体が揺れるグラスを受け取った。
綾乃は暢子に手渡したグラスに、自分のグラスをかちゃと合わせて、立ったままくいっくいっとワインを飲んだ。
「座って飲みなよ。行儀悪いよ」
暢子はグラスを置いて、綾乃のための料理を温め直しに台所へ立った。
回るレンジのオレンジの光に、にこっと笑う綾乃の顔が浮かんだ。天真爛漫なあの笑顔。
(あれは、変わらないなちっとも)
この笑顔で世の中渡って行っちゃうぞ、という、勢いがあるというか、登紀子の言葉を借りればまさに「怖いもの知らず」なストレートな笑顔。
さっきの美香留が似ているところは顔立ちよりもこの笑顔だ。
どんな賞より、金銭より、社会的名誉より。暢子はこの笑顔があれば報われてしまう。
現に笑ってグラスを差し出され、暢子は暴走の理由を詰問することを忘れた。
ダメだこんなんじゃ。
暢子は首を振った。昼間登紀子にも言われたではないか。手綱をしっかり握っておけと。
もっともあれは、ミハル製作所立ち上げ以前から一緒に仕事をしてきた、登紀子一流のリップサービスだったのだが。
「今夜は」と言っても、綾乃をひとり置いて暢子が先に帰ることはない。自分では勤務時間を管理している積もりだが、暢子にそんなことはできていなかった。
食堂にはまなが作ってくれた綾乃の夜食が並べられていた。そしてその横には、健啖家の綾乃には軽すぎる少量の皿。また暢子を心配して、まなが別に用意してくれたものだ。
食卓を見て暢子は軽くため息をつき、肩越しに広間の綾乃に声をかけた。
「センセイ、今日十二夜の池野さんから電話もらいました」
「ああ。返事しといてくれた?」
綾乃は振り返りもせず、今日一日の原稿の進み具合を確認していた。
「一応、その場で断りはしなかったです」
「『断る』? 何でそうなるの」
感情の入らない綾乃の声に、暢子は焦れて広間へ戻った。
「だってセンセイ、このタイミングで、『グリーン』なんていつ描くんですか。まだ『――戦い』だって、あと二回あるんですよ」
綾乃は原稿に目を落としたまま不敵に笑っている。
全くどうかしている。この女、頭がおかしい。
暢子は心の中でそう毒づく。綾乃が続けた。
「今日来たコ、いいコだったね。何てったっけ。ええと」
「篠原美香留」
「おお、それそれ。ミカル。あれだったら本採用だ。正社員枠でもいいな」
「そんなに気に入ったのなら、本人に言ってやればよかったのに」
明日の集合時間を確認したとき美香留にもみなと同じように伝えたが、その時点では綾乃の意向を確認できず、不安そうな顔で帰っていった。
採用になったのか、そうでないのか。今頃思い悩んでいるのではなかろうか。
暢子がそう言うと、綾乃はようやく顔を上げた。
「そんな、あんたじゃあるまいし」
綾乃は手にしていた原稿を置いた。
「ああいうタイプはね、そういう考えてもしようのないことを、いつまでもうだうだ考えてたりしないものだよ」
「よく分かるね」
「ああ。似てるだろ、若い頃の俺に。だからお前も気にしてるんだ」
そう言って綾乃は暢子を見て目を細めた。
暢子が何も言えなくなるのを、さも面白そうにニヤついて眺めている。その瞳の奥にはいつものように冷たい何かが凍っている。
ぐっと言葉に詰まったまま、暢子は腹立たしい気持ちでいっぱいになる。
(何て性悪なんだ)
そう憤りながら、暢子は自分の心の端っこに不安が揺らめくのを感じた。いつの頃からか生まれた不安。
綾乃が自分に向ける感情のどこかに、憎しみが紛れているのではないか。
暢子は綾乃が分からない。
綾乃の思考は大体分かる。が、綾乃の心の奥でどんな感情が動いているかは、全く分からない。
「分かる」くらいなら、綾乃と同じくらいスケールの大きな物語を紡げるのだ。
自分はその世界から降りた。それならと、日常をエッセイマンガにつづれるほど、自分を晒けだすこともできない。
結局、「描き手」でい続けるためのハードルを、自身で越すことができなかったのだ。
にらみ合うような数秒が過ぎた。
暢子の表情を心ゆくまで味わって、綾乃は「さーて、メシにするかな」と大股で食堂へ歩いていった。
暢子はさっきまで綾乃が手にしていた原稿を、ノンブル順に揃えながらぱらぱらと眺めた。
「花咲くオトメ探偵の事件ファイル」というタイトルの現代物で、主人公の女子高生が、頼りない兄の探偵業をキビしく助けながら事件を解決するという「爽快活劇(編集者のつけたアオリ)」、略称は「オトメ」だ。
毎回サスペンスの要素が必須で、原稿にタッチしなくなって久しい暢子も、この作品のネタ出しには参加する。毎回苦労させられる作品である。
今回はアクションシーンも多く、綾乃の手になる描線が軽快に踊っていた。
絵は荒れていない。暢子はほっとした。
そうだ。「十二夜」の仕事の話をしなきゃ。暢子は綾乃を追って食堂に入った。
「お。来たな」
暢子が近づくなり、綾乃はグラスを突き出した。
「ん、何」
「へへへー」
暢子は突き出された綾乃の手許を見た。
仕事場に、綾乃は数本のワインを用意している。暢子は酒に興味がないが、ここに泊まり込むこともある綾乃は、常にワインを何種類かキープしておきたがる。
テーブルに置かれた瓶には、綾乃気に入りのラベルがあった。
「何か、呑みたくなってな。いいだろ? 今日の仕事は終わったぞ」
綾乃は屈託なく笑った。さっきの意地悪げな笑みとは全く違う、ティーンエイジャーのような素直な笑顔だった。
暢子は黙って深紅の液体が揺れるグラスを受け取った。
綾乃は暢子に手渡したグラスに、自分のグラスをかちゃと合わせて、立ったままくいっくいっとワインを飲んだ。
「座って飲みなよ。行儀悪いよ」
暢子はグラスを置いて、綾乃のための料理を温め直しに台所へ立った。
回るレンジのオレンジの光に、にこっと笑う綾乃の顔が浮かんだ。天真爛漫なあの笑顔。
(あれは、変わらないなちっとも)
この笑顔で世の中渡って行っちゃうぞ、という、勢いがあるというか、登紀子の言葉を借りればまさに「怖いもの知らず」なストレートな笑顔。
さっきの美香留が似ているところは顔立ちよりもこの笑顔だ。
どんな賞より、金銭より、社会的名誉より。暢子はこの笑顔があれば報われてしまう。
現に笑ってグラスを差し出され、暢子は暴走の理由を詰問することを忘れた。
ダメだこんなんじゃ。
暢子は首を振った。昼間登紀子にも言われたではないか。手綱をしっかり握っておけと。
もっともあれは、ミハル製作所立ち上げ以前から一緒に仕事をしてきた、登紀子一流のリップサービスだったのだが。
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