異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生

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三、二〇一〇年 東京―2

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「五月二十日〆で『グリーン』一本描くぞ。人の手配はつくか?」

 綾乃は屈託なくそう言って笑った。

 暢子は向かいの席に着いた。

 いつもいつも食事どきに悪いな、と思い、素直にそう謝った。遠慮なく対等な口を利くとなると、アシスタントたちの前ではやりにくい。

「センセイ、勝算あるの」

「あるよ」

 事もなげに綾乃は頷いた。

「勝算のないことを、俺が言ったことあるか?」

 綾乃の頬にふっと赤みが差した。

 ワインのアルコールに瞳が潤む。その瞳に食卓の灯りが映り込んで、暢子は気が遠くなりそうになる。

「綾乃……」

 この笑顔に、誤魔化されちゃいけない。しっかりしなくては。

 暢子は自分もワインをひと口飲んで、咽の滑りをよくしてみた。

「もちろん、普段の月なら可能だよね。問題は――」

「問題は晴月社のプロットをいつ練るか、……だろう? 田崎」

 綾乃は暢子の言葉を先取りした。暢子の目をのぞき込んで、いたずらっぽくまた笑った。

 暢子はその視線を、急いでグラスで遮った。

「今やってる『オトメ』はあと二日で終わる。待ってろ。アイデアは何本かに絞り込んであるんだ。この仕事が終わったら、北山も呼んで作戦会議だ。ま、あいつが何を言ってきてもカンケーないけどな」

 好きなものを描いてくれって依頼なんだろ、と綾乃は鼻先で笑った。

 空きっ腹にアルコールは、やはり回りが早くなる。暢子は自分が酔ってきたのを感じた。

 外で、それも仕事絡みの席では幾ら呑んでも酔わないが、こうして内呑みをしてると結構くる。

 綾乃が自分のグラスに注ぐついでに腕を伸ばして、暢子のグラスも再びワインで満たした。

 まくり上げた袖口からのぞく、肌理キメ細かな白い腕。

 暢子はグラスを揺らしながら、反対の手で頬杖をついた。

「いい仕事してよね、綾乃」

「うん」

「本当にね。今度は、描きたいもの、描いてよね」

「うん。そうだな」

「……わたしの分も、ね」

「分かってる」

 こうしてしみじみふたりで呑むのは何年振りだろう。

 暢子は記憶を遡ってみようとしたが、もう頭が回らなかった。

「考えてる話があるんだ」

 綾乃の目が輝く。

 酒が入っていても、こうなるとマンガ家藤村綾乃になる。

 暢子はじっくり聞きたいと思った。

 グラス以外の食器を片づけ、暢子はワインとまなの料理の残りを持って事務室に移動した。

 綾乃も隣の書斎から、数日前に運び込んだアイデアの束のうち、最近鉛筆を入れた部分を持ってきた。

 時間を巻き戻したように、ああでもない、こうでもない、といくつかのアイデアについて熱く話し合った。

「こんなのはどうだ? 中世ヨーロッパ風の世界観をベースにしたファンタジーなんだけど」

「中世ヨーロッパか。イメージはどっち? 宗教対立に揺れる南欧? 王位継承戦争が膠着してるイングランド?」

「あー、どっちかってえと、イングランドかな。それかフランスか」

「オッケー。で、この『両性具有が王位を継ぐ』ってのは?」

「ああ。国家が危機に陥るときには、救国の『王子』が生まれるという伝承がある……という設定でな。伝承を許に、その年に生まれた子供が国土の隅々まで調べられて」

「『過越の祭』みたいな?」

「そうそうそう」

「性別の揺らぎみたいなのは、ウケるね。でも政治の話はダメ。権謀術数は背景に留めて、冒険活劇を前面に出そう。それと、ロマンスね」

 クリエーターとしての綾乃の情熱に、マネジメントのプロとしての暢子の戦略的な分析がかんでいく。

 新しい企画を立てるときはいつもこうした作業が入るが、こんなに和気あいあいとした時間はしばらく持てていなかった。

 昔に戻ったみたいだ。

 そう暢子は思った。

 この和やかな時間。

 数年ぶりに綾乃とゆっくり話し込んだ暢子は、仕事場に泊まっていくことにした。綾乃はもとよりその積もりだったようだ。

 殺風景な自宅より、機嫌のいい綾乃の笑顔の側の方が、いいに決まっている。

 その夜暢子が見た夢は、甘美な感触に満ちていた。
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