異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生

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四、一九九〇年 学院―2

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 田崎は――。

 綾乃の口からその名が飛び出たとき。

 暢子はその声の響きに胸が詰まった。耳の中でその響きがこだまする。

 酒を飲んだことはないが、その酩酊のように、余韻は暢子を酔わせる。

「田崎は、何か描いてるのか?」

 綾乃は暢子にそう訊いた。

 返事が遅くなると不審に思われる。暢子は自分の胸を大急ぎでなだめながら答えた。

「まだ遊び程度。一本ちゃんと完成させたことはないんだ」

 そっちは? と暢子は言ってみた。さりげない風を装いながら。

「俺? 去年一本入選した。あ、『入選』ではないか。『選外』佳作だから」

 綾乃は形の良い眉毛をひそめた。

「受賞したら記念品がいろいろ届いて、親にバレてさ。あんまりうるさいから家を出て、ゆっくりマンガ描こうと思ったのに、ここの寮ときたら全く……」

 綾乃が愚痴る。

 ぶちぶち言うのも、何だか可愛らしくって、暢子の耳には快い音楽のように聞こえた。

 その響きに耽溺する暢子と、同い歳の少女が着々とプロへの階段を進んでいるのを驚き、妬む暢子とが、互いに矛盾なくそこにいた。

 不甲斐ない自分が悔しいけれど、このひとになら遅れを取ることすら誇らしい。

 このとき生まれた捻れた気持ちは、その後ずっと暢子の中心となった。

 そのとき、十五の暢子は、感嘆を素直に伝えることができなかった。

 気恥ずかしすぎて。悔しくて。嬉しすぎて。

 あえて論点をすり替え暢子は言った。

「すごいね。もうすっかり寮生の口調だ」

 一人称からしてすでに「俺」だ。

「ああ」

 綾乃はくすっと笑った。

 黒い髪がさらさら揺れる。きれいだ。

「意外と違和感なかったみたいだ。この傲慢な性格に、ちょうど合ってたんじゃない?」

(傲慢……)

 確かに。

 その通りだ。

 綾乃の豪胆な性質を、ぴったり表す言葉だ。綾乃という人間は、自分をよく分かっている。

 眩しく綾乃を見やる暢子に、綾乃はにやっと笑った。

「次に描くヤツの、仕上げを手伝ってくれよ。田崎のデッサンは正確だ。当然そっちの作品も仕上げのときは俺が手伝う」

 一緒にやらないか。

 綾乃はこう言って暢子を取引に誘った。

 甘い誘惑だった。

 暢子はおずおずと、しかし迷いなくうなずいた。

 誘惑者たる愛の神の手を、危険を知りつつ取らざるをえない神話の乙女。暢子はこのとき神の手に堕ちた。

 綾乃は言った。

「商談成立だな。よろしく頼むぜ、相棒」

(相棒)

 何て甘美な響きだろう。

 その甘さは、耳から脳髄に入り込み、暢子の魂の構造を作り変えた。

 ウイルスにやられたコンピュータのように、暢子の中のアルゴリズムは、綾乃を中心に、綾乃が出発点に、綾乃のメリットを最大化するように答えを出す。

 不可逆的な変化だった。

 もう出会う前には戻れない。
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