異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生

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五、二〇一〇年 東京―3

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 しばらく背中を丸めて考えていた池野は、やがてパッと明るい笑顔で綾乃の方に向き直った。

「じゃ、センセイ。番外編ってことであと数話、よろしくお願いします。描ききれてないエピソード、まだまだいくつもありましたよね」

 こんなノリでも編集者だ。すかさず藤村綾乃の原稿の確保に回る。

 上司に早く報告したい池野が、挨拶もそこそこに帰っていった。

 暢子が玄関まで見送りに出て重い扉を開くと、勢いよく風が吹き込んできた。広間の窓をまだ閉めていなかった。

 リラの香りが洋館に満ちた。

 暢子は広間のフランス窓を閉め、金具を留めた。

 錆びかけたそれをいじるときには、いつも指先が痛くなる。

 応接間で何やら軽い物音がしていた。扉を開閉するようなくぐもった音。パタパタとスリッパが歩く音。

 綾乃が応接間と書斎を行き来している。

「フューネラル・グリーン」とは、もともと暢子が温めていたアイディアをベースにした作品だった。

 この洋館を仕事場として買い取る前、綾乃が当時つき合っていた男の紹介で十二夜の依頼を受けることになったとき、マイナー誌の読者の好みが分からず、綾乃はネタに詰まってしまった。

 綾乃と同じくメジャーを目指した暢子であったが、読者としては綾乃に勝っていたというか、とことん陽性の綾乃に比べ、暢子の「陰」の部分が生きたというか、十二夜向きのネタを暢子が持っていた。

 舞台を東京からヨーロッパに替え、失恋を忘れるため主人公が没頭した職業を銀行員からピアノの調律師に替え、少女に好まれる舞台装置は綾乃が設計した。

 だが、初恋相手が嫁いでいった地へ流れつき、迫害に耐えながらも仕事を着実にこなして次第に評価されるようになった主人公が、二十年後同郷の少年と出会って、頼られ面倒を看るうちに初恋の痛手から回復していく……という陰影ある話の筋は、暢子の作ったそのままだった。

「死」と「生」、「エロス」と「タナトス」といった人間の暗い側面を扱うには、暢子に一日の長があったのだ。

 初恋相手は不幸のうちに身体を壊して故郷へ去っており、彼女がひとりで産んだ子供は父の住むヨーロッパを目指し、そうしてそこで主人公と出会う。主人公はそうとは知らず、懐かしい面差しの宿る同胞を無碍むげにできない。

 一度作品として走り出してしまうと、そこから先は綾乃に全ての裁量権があった。

 暢子はマネジャーとなって筆を折った身であり、ブレーンとして助言はするが、決して綾乃をプロデュースすることはしなかった。

 綾乃はひとに自らの手綱を握らせておくような、そんな謙虚さは持ち合わせない。

 暢子も自分が綾乃をどうこうできると思わなかったし、そうする必要も感じなかった。

 前回の掲載話で、少年は母と同じ病にその身をむしばまれていることが示唆されたところだった。時代設定から、少年を病から回復させることも選択可能だった。

「綾乃、どこ行くの」

 綾乃が書斎のドアをパタンと閉めて、玄関の方へすたすた歩き出すのを暢子は慌てて追った。

「鍼灸院。お前が予約入れたんだろ」

 綾乃はさっさと靴を履いた。

「どうして」

 暢子は綾乃の背に言った。

「どうして『グリーン』、終わらせちゃうことにしたの。こんなに早く」

 その声の硬さに、暢子は自分でも驚いた。暢子の詰問を綾乃はどう聞いただろうか。

 綾乃はドアの把手に手をかけたまま立ち止まった。何かを言おうとしたのか。横顔に髪が緩く波打った。

 少しして、その形のよい唇が動いた。 

「さあな。その方がいいような気がしたから」

 それきり振り返ることなく、綾乃は「お疲れ」と出ていった。ぎいと低い音がして扉が閉まった。

 暢子はコーヒーを濃く淹れて、応接セットに身体を埋めた。
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