異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生

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六、一九九〇年 学院―3

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「見ーつけた!」

 揶揄うような楽しげな声が、バタンという大きな音とともに飛び込んできた。

 日曜日。朝食を摂るのも早々に、暢子は綾乃の部屋に入り浸っていた。

 綾乃の原稿を仕上げたら、次は自分の番だ。大詰めに入った仕上げを早く終わらせたくて、暢子はいても立ってもいられなかったのだ。

「……秦野かよ。何だよウルセえな」

 綾乃はペンを持ったままふてぶてしく言い放った。開き直りを決めこむようだ。

「祥クン」

 暢子は中等部時代の旧友の名を呼んだ。

 秦野祥子。背が高くてスポーツが得意で、下級生だけでなく同級生からも人気がある。

 とくに寮での生活を知らない通学生人気は高く、暢子の周りの少女たち多くが憧れていた。ニックネームは「祥クン」だ。一部の寮生以外はみな秦野をそう呼ぶ。

「おー、田崎だったのか、藤村の相手って。それは想像つかなかったな」

「『相手』って……」

 咽が詰まって、暢子はその先を言えなかった。

 綾乃は立ち上がり、秦野の背後の扉を閉めた。

「黙っててくれるんだろな」

「さあ、どうかな」

「盟友だろ」

「条件次第かな?」

 楽しそうな秦野の肩をつかんで、綾乃は目をスーッと細めた。

「『条件』?」

 暢子はふたりのやり取りに入れず、ただじっと黙っていた。幸いなのは、秦野がふたりを咎める風でなく、単純に面白がっているだけらしいこと。

 秦野はみぞおちを押さえて笑った。

「腹減った。とりあえず、今日の昼飯はお前持ちな。俺、久々にピザ食いたい」

「へーへー、喜んで。お付き合いさせていただきますよ。ちぇっ、この忙しいのに」

 綾乃は暢子を振り返って「ピザだと。いいか?」と確認した。もちろん暢子に否はない。



 麓のカフェで、秦野はうまそうにピザにかぶりついた。

「俺のタイが緑でなかったことに、感謝するんだな」

 もぐもぐと口を動かしながら秦野は言った。

「何? 緑のタイって」

 暢子は隣の綾乃に訊いた。綾乃は面倒くさそうに答えた。

「ああ。寮には陰に『風紀委員』って組織があって、その構成員は緑タイ着用なんだと。伝説だな。このご時世に、ナンセンスなこった」

「『伝説』とも限らないぜ。一九八八年にも『風紀委員』が発動した形跡が見られる」

 寮生(当然女子)の妊娠騒ぎがあり、相手と特定された麓の街の男子高校生が成敗されたとか何とか。そのときの学院生が締めていたタイが緑であるのを当人に見られたとか。

「知らねえよ」

 綾乃はコーヒーに浮かんだ生クリームの山を崩してカップを口に当てた。

「どうせあれだろ? 腕っ節で秘密裏に一本釣りされるって噂だろ? 誰がどの棟の何年かも分からん外部進学の俺に、そんな秘密組織が分かるか」

 黙ってふたりの話を聞いていた暢子だったが、綾乃の言葉で顔を上げた。

「何だか昔の『裏番』みたい。一本描けそう」

 綾乃も暢子と目を見合わせた。

「だな」

 向かいの席で秦野が手をひらひらさせた。

「はいはい。もう、仲がいいのは充分分かったから」

「あのなぁ」

 綾乃がテーブルに肘をついた。

「何か勘違いしてないか? 俺たちは別に」

「そうだよ、祥クン。わたしたちマンガ描いてるだけなんだから」

 寮生でもない自分が寮に入り浸ってマンガなんて描いてる、そこが問題なのは暢子にもよく分かっているのだ。

 基本的に、寮は寮生以外の出入りを禁じられている。寮務委員の監督の許、最低限の交流が許される程度だ。

「別に緑でなくたって。充分だよ、お前のその、青で」

「タイが青いのはお前もだろ、藤村。いいのかなぁ、寮務委員さま御自らが掟破りなんて」

 綾乃は肘をついたまま憮然とコーヒーをすすった。

 寮務委員は青いタイを着用する。各階ごとに選出される寮務委員だが、楓寮の二階は綾乃、三階がこの秦野だった。通常上級生が担当する係に下級生の一年生が選ばれるなんて、人望があり、一目置かれているということだ。

 今日は日曜で三人とも私服だが、綾乃と秦野は互いの胸許を指差し合ってそう言った。制服のタイが見えてでもいるように。通学生の自分がいまいち入りきれない、寮生独特の世界を感じてしまう。
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