異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~

松本尚生

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七、二〇一〇年 東京―4

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 綾乃は仕事の成果を、秦野はかつての恋の顛末をそれぞれ語った。

 秦野のそれに比して綾乃の話は短いものだった。どんな苦労をしたところで、第三者に語って聴かせればそうなってしまう。

 どこへ行く訳でもなし、生活に変化らしい変化はとくにない。マンガ家とはそういう仕事だ。

 そして更に暢子には、語るべきことすらなかった。綾乃が先に全て話してしまったからだ。暢子に自分の仕事、自分の人生と呼べるものはない。

「ある意味、君らみたいのが究極のカップルなのかもしれないな」

 ひとりごとのように秦野がそう呟いた。

 暢子は赤くなって下を向いた。綾乃は「ふん」と鼻を鳴らしてごぶりとグラスを空にした。

「俺らは一緒に仕事場に泊まり込んでも、絶対ひとつの布団には入らんぜ」

「いやいやいや。セックスはパートナーシップの絶対条件じゃない。セックスレスでも仲よく幸福な夫婦なんて、ごまんといるだろう」

「そうしてお前は男と結婚するってのか」

「ははは。ついに逃げられなくなってしまった」

 綾乃は鋭く斬り込んだ。

「そんなことできるのか、お前に」

 秦野がレズビアンであることは、二十年前には事実だった。今、三十代半ばの秦野はスーツの下、スカートの裾からのぞく膝を、行儀よく閉じて笑っていた。

 秦野も「大人」になったということか。

 暢子は手洗いに立つふりをして席を立った。

 通路の途中では、窓が広く穿たれていた。都会の灯りはメリハリなく四方に拡がり、だだっ広いだけだった。

 これが田舎なら、例えば暢子の故郷の山あいの街なら、家々の明かりは可愛らしく並んで、楕円のような街の輪郭を形作っているものなのに。

 暢子は先日アップした「フューネラル・グリーン」の登場人物たちを思い返した。

 若い頃愛した女性と引き裂かれた青年が、失意のうちに海外へ飛び立つ。彼の傷心は月日によっても癒されない。

 十数年後彼の前にひとりの日本人が現れる。何とはなしにその世話を焼くかつての青年は、愛した女の幻をそのうちに見る。彼の孤独は癒されていい。

 だが、来月着手する後編では、愛された筈の「類」は抱きしめられたすぐあとに、自分が愛されたのではないことを悟り時計塔から飛び降りる。

 青年の孤独は繰り返され、決して癒されることなく話は終わる。

 綾乃は「その方がいいような気がした」と言った。

 幻を引き受ける人物として「類」を設定したのは暢子だった。

「類」によって主人公の魂が救済される筋立ても可能だった。だが綾乃はそうしなかった。

 徹底的なリアリズムが綾乃の作品世界を貫いていた。綾乃は甘っちょろい救済など認めない。そんなに簡単に救われるなら、物語は必要ないと言わんばかりだ。

 救われないことばかりなのは現実だけでたくさんだ。

 現に、綾乃は暢子を救ったりしない。一生かかってもそうはならない。暢子には分かっていた。

 第一、暢子に優しく手を差し延べる綾乃など、暢子の愛する綾乃ではない。

 暢子が心底愛しているのは、ひとをひととも思わない、傲岸な、そのくせ無邪気で愛らしい、矛盾したリラの精なのだ。人間ですらない。

 だからいっそ、人間であって欲しくない。

 男に恋してそのために一喜一憂する、そこから新たな活力を得る、普通の女であって欲しくなかった。

 暢子の目から涙が落ちた。

 よくしつけられたボーイが音もなくやってきて、暢子に手洗いの場所を案内しようとした。暢子はいくどか頷いてその場から離れた。

 綾乃。

 それは暢子の女神の名前だった。
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