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八、二〇一二年 海辺の街
終章
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パンパン。
陽の光に真っ白な原稿用紙が眩しく踊る。
この白い紙を埋めていくのは、今も昔も、自分の役割ではなかった。
暢子はひとりくすりと笑った。
暢子は庭で洗濯物を干していた。ひらひらと風にそよぐのは白い襁褓。暢子が仕える新しい主人の原稿だ。だが今度は描いてもらった側から洗って白くするのが暢子の役割だ。暢子はまた淡々と仕事をこなしていくだけだ。
知らない街で、姑たちから布おむつの利点を説明されたときには正直「面倒なことになった」と思った。紙おむつとの併用で快適に仕事のできる分岐点を見つけた。
仕事。それがあれば暢子は安心できる。
以前ワーカホリックと嗤われた。嗤ったひとは誰だったか。思い出そうとして、だが暢子は考えるのを止めた。
今朝の新聞に今年度の「晴月社漫画賞」の発表が小さく載っていた。夫にその記事を手渡されたとき、随分遠い世界に思えた。だが、暢子と夫が自分たちの過去に残してきた最後の願いがこれで叶った。暢子は夫と顔を見合わせて笑った。
第二十八回晴月社漫画賞、少女漫画部門、藤村綾乃。
受賞者の顔写真を見ても、暢子の胸は痛まない。
あの日、電話で呼び出そうとした北山の誘いを、暢子は断った。もうあの業界には関わりたくなかった。
マンガすなわち綾乃だった。自分の三十五年のこれまでの人生全てがそこへつながっていた。だから暢子はどう生きていいか分からなかったのだ。何をしていいか分からなかったのだ。
だが、電話の向こうで北山は言った。
(もしこの業界から完全に切れたかったら、僕の話を聞いてください)
矛盾するその北山の申し出を暢子は断りきれなかった。
出向いた暢子を北山は痛ましげに黙って見つめていた。どんなみすぼらしい姿をしていたのだろう。そのときどんな服装をしていたか、暢子の記憶には何も残っていない。
「田崎さん。藤村先生の新連載、決まりましたよ」
暢子は耳を覆った。
「聞きたくありません。何のためにわたしを呼び出したんですか。そんなことを報告するためですか。もうそんなことわたしには関係ありません」
「構想はやはりスケールの大きなものでした。驚きましたよ。あんなアイディアを抱えていたなんて。もったいないことをしてましたね」
「北山さん。わたしもう失礼します」
「あれなら『晴月社漫画賞』は間違いない。来年か、さ来年には」
暢子は耳を押さえたまま踵を返した。歩き出した暢子の背に北山は言った。
「だから僕らの目標は、もう達成されたも同然です。心おきなく足を洗えますよ。あなたも、僕も」
暢子は足を止めた。北山はズボンのポケットに手を入れて、口笛でも吹くような顔をした。
「僕の郷里はここから遠い西の海辺でしてね。実家はそこで古くから海産物の卸をやっています。……先日父が倒れまして。以前から帰らなければとは思ってたんですが、ふんぎりがつかなくて」
この業界は、マンガの世界は麻薬のようなもので、手を切るには相当の荒療治が必要なんです。そう言って北山は笑った。
「何故そんなことをわたしに?」
暢子は腹が立った。廃人のように今まさにその禁断症状と戦っている自分に、何の手助けもできないことは自明ではないか。
「転地療養を一緒にしてくれませんか。白状すると、僕はとんだ臆病者でしてね。ひとりではここから脱けられない。僕の手をつかんで引っ張りだして欲しいんです」
それに関してはあなたの方が何日か先輩だ。そう言って北山はまた笑った。
こどもっぽいその顔に、暢子は疑り深い眼差しを向けた。
「それ、もしかしてわたしを口説いているんですか」
「はい。断らないでくださいね」
屈託のない北山の笑顔に、暢子は昏い笑みを返した。
「無駄ですよ。わたし、男のひとは愛せないんです」
「知ってます」
「え」
北山が暢子が離れた数歩分をやってきた。
「気づいてましたよ、田崎さんが綾乃先生に心底夢中だったことくらい。あなたは先生のこととなると目の色が違ってた。そしてそれ以外のことには何の関心もなかった」
暢子は北山を睨んだ。
「なら、どうして」
「だからですよ。僕の中毒と同じくらい重傷のひととでないと、一緒に人生やり直すなんてできないんです。それは田崎さんにとっても同じと思いますよ」
北山の言葉は不思議に暢子の胸にすとんと落ちた。
逃げられなくなった。そう言って笑っていた秦野。秦野はそれを不快と感じていなかったのかもしれない。
女を愛する秦野が男も許容するようになったのだろうか。それとも身体の関係なしのパートナーと人生をやっていくことに決めたのだろうか。
関係性は無限だ。無限の性質を持った人間が、同じく無限の人間と関係を結ぶのだ。互いが了承できる、互いにとって心地よい関係が結べればそれを幸運な人生と呼べばいい。
ほかの人間がとやかく言うことではないのだ。
北山のこどもっぽい笑顔から、暢子は逃げられなかった。
そうして暢子はここへ来た。卸問屋の嫁という仕事を見つけたようなものだ。マネジメント業という点では慣れたものだった。
転地療養は有効だったようだ。暢子にも、北山にも。
鈴を鳴らすような軽い響きが空気を揺らした。暢子は後ろを振り返った。
「はいはい、ちょっと待ってねえ」
暢子は空の洗濯カゴを抱えてベランダから部屋に上がった。居間に置かれた極小の牢獄で赤ん坊が泣いている。
赤ん坊の泣き声は耳に優しくて鈴のようだ。建物も少ない田舎町で、窓という窓をすべて開放しただだっ広い日本家屋に住めば、音は空間に溶け込んですぐに拡散してしまう。
あのせせこましい都会でなら、同じ音を聞いても同じようには聞こえないだろう。
「あれあれ。おむつですね、先生。お疲れさまです。すぐ交換しますからね」
真っ白な原稿用紙。そこにはこれから何が描き込まれていくだろう。
「おー。オーストラリア大陸ですか。こないだあなたのお父さんが伸ばした餃子の皮にも似てますね」
大した才能だ。
暢子は目を細めた。
自分には取りたてて何も才能はない。
が、才能のそばで、それを助けていくことはできる。
暢子はベランダの外を見た。
青い空を背景に、吊り下げられた白い白い原稿用紙が潮風に揺れた。
陽の光に真っ白な原稿用紙が眩しく踊る。
この白い紙を埋めていくのは、今も昔も、自分の役割ではなかった。
暢子はひとりくすりと笑った。
暢子は庭で洗濯物を干していた。ひらひらと風にそよぐのは白い襁褓。暢子が仕える新しい主人の原稿だ。だが今度は描いてもらった側から洗って白くするのが暢子の役割だ。暢子はまた淡々と仕事をこなしていくだけだ。
知らない街で、姑たちから布おむつの利点を説明されたときには正直「面倒なことになった」と思った。紙おむつとの併用で快適に仕事のできる分岐点を見つけた。
仕事。それがあれば暢子は安心できる。
以前ワーカホリックと嗤われた。嗤ったひとは誰だったか。思い出そうとして、だが暢子は考えるのを止めた。
今朝の新聞に今年度の「晴月社漫画賞」の発表が小さく載っていた。夫にその記事を手渡されたとき、随分遠い世界に思えた。だが、暢子と夫が自分たちの過去に残してきた最後の願いがこれで叶った。暢子は夫と顔を見合わせて笑った。
第二十八回晴月社漫画賞、少女漫画部門、藤村綾乃。
受賞者の顔写真を見ても、暢子の胸は痛まない。
あの日、電話で呼び出そうとした北山の誘いを、暢子は断った。もうあの業界には関わりたくなかった。
マンガすなわち綾乃だった。自分の三十五年のこれまでの人生全てがそこへつながっていた。だから暢子はどう生きていいか分からなかったのだ。何をしていいか分からなかったのだ。
だが、電話の向こうで北山は言った。
(もしこの業界から完全に切れたかったら、僕の話を聞いてください)
矛盾するその北山の申し出を暢子は断りきれなかった。
出向いた暢子を北山は痛ましげに黙って見つめていた。どんなみすぼらしい姿をしていたのだろう。そのときどんな服装をしていたか、暢子の記憶には何も残っていない。
「田崎さん。藤村先生の新連載、決まりましたよ」
暢子は耳を覆った。
「聞きたくありません。何のためにわたしを呼び出したんですか。そんなことを報告するためですか。もうそんなことわたしには関係ありません」
「構想はやはりスケールの大きなものでした。驚きましたよ。あんなアイディアを抱えていたなんて。もったいないことをしてましたね」
「北山さん。わたしもう失礼します」
「あれなら『晴月社漫画賞』は間違いない。来年か、さ来年には」
暢子は耳を押さえたまま踵を返した。歩き出した暢子の背に北山は言った。
「だから僕らの目標は、もう達成されたも同然です。心おきなく足を洗えますよ。あなたも、僕も」
暢子は足を止めた。北山はズボンのポケットに手を入れて、口笛でも吹くような顔をした。
「僕の郷里はここから遠い西の海辺でしてね。実家はそこで古くから海産物の卸をやっています。……先日父が倒れまして。以前から帰らなければとは思ってたんですが、ふんぎりがつかなくて」
この業界は、マンガの世界は麻薬のようなもので、手を切るには相当の荒療治が必要なんです。そう言って北山は笑った。
「何故そんなことをわたしに?」
暢子は腹が立った。廃人のように今まさにその禁断症状と戦っている自分に、何の手助けもできないことは自明ではないか。
「転地療養を一緒にしてくれませんか。白状すると、僕はとんだ臆病者でしてね。ひとりではここから脱けられない。僕の手をつかんで引っ張りだして欲しいんです」
それに関してはあなたの方が何日か先輩だ。そう言って北山はまた笑った。
こどもっぽいその顔に、暢子は疑り深い眼差しを向けた。
「それ、もしかしてわたしを口説いているんですか」
「はい。断らないでくださいね」
屈託のない北山の笑顔に、暢子は昏い笑みを返した。
「無駄ですよ。わたし、男のひとは愛せないんです」
「知ってます」
「え」
北山が暢子が離れた数歩分をやってきた。
「気づいてましたよ、田崎さんが綾乃先生に心底夢中だったことくらい。あなたは先生のこととなると目の色が違ってた。そしてそれ以外のことには何の関心もなかった」
暢子は北山を睨んだ。
「なら、どうして」
「だからですよ。僕の中毒と同じくらい重傷のひととでないと、一緒に人生やり直すなんてできないんです。それは田崎さんにとっても同じと思いますよ」
北山の言葉は不思議に暢子の胸にすとんと落ちた。
逃げられなくなった。そう言って笑っていた秦野。秦野はそれを不快と感じていなかったのかもしれない。
女を愛する秦野が男も許容するようになったのだろうか。それとも身体の関係なしのパートナーと人生をやっていくことに決めたのだろうか。
関係性は無限だ。無限の性質を持った人間が、同じく無限の人間と関係を結ぶのだ。互いが了承できる、互いにとって心地よい関係が結べればそれを幸運な人生と呼べばいい。
ほかの人間がとやかく言うことではないのだ。
北山のこどもっぽい笑顔から、暢子は逃げられなかった。
そうして暢子はここへ来た。卸問屋の嫁という仕事を見つけたようなものだ。マネジメント業という点では慣れたものだった。
転地療養は有効だったようだ。暢子にも、北山にも。
鈴を鳴らすような軽い響きが空気を揺らした。暢子は後ろを振り返った。
「はいはい、ちょっと待ってねえ」
暢子は空の洗濯カゴを抱えてベランダから部屋に上がった。居間に置かれた極小の牢獄で赤ん坊が泣いている。
赤ん坊の泣き声は耳に優しくて鈴のようだ。建物も少ない田舎町で、窓という窓をすべて開放しただだっ広い日本家屋に住めば、音は空間に溶け込んですぐに拡散してしまう。
あのせせこましい都会でなら、同じ音を聞いても同じようには聞こえないだろう。
「あれあれ。おむつですね、先生。お疲れさまです。すぐ交換しますからね」
真っ白な原稿用紙。そこにはこれから何が描き込まれていくだろう。
「おー。オーストラリア大陸ですか。こないだあなたのお父さんが伸ばした餃子の皮にも似てますね」
大した才能だ。
暢子は目を細めた。
自分には取りたてて何も才能はない。
が、才能のそばで、それを助けていくことはできる。
暢子はベランダの外を見た。
青い空を背景に、吊り下げられた白い白い原稿用紙が潮風に揺れた。
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