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3、もう、ムリなんだって
さあ、今夜は何を食べようか
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何をしているのか、伸幸はそれからもときおりふらっといなくなった。
昼といわず、夜といわず。短時間で戻ることもあり、二、三日戻らないこともあったが、いつも戻ってきたときには、意味不明な食材を大量に持っていた。
ほとんど自炊をしなかった瞬も、伸幸の持ってきた食材があればそれを調理して、ないときには作ったり作らなかったりした。
別に瞬がいないとき、伸幸が出かけても問題はない。伸幸はこの部屋のカギを持っている。自由に戸じまりをして出入りできる。
(カギな……)
伸幸はカギを返すつもりがないのだろうか。
今この部屋の主は瞬だ。前の住人と伸幸がどんな関係だったにしろ、カギの所有権は瞬にある。
(掃除も洗濯もやってくれてるし。メシの買いものもしてくれてるしな、会計こみで)
まあ、食べるのは大半向こうなのだから、ここは申しわけなく思うスジじゃない。
こんなに何でも自分でできる男が、なぜ瞬のところに転がりこむ必要があるのだろう。ひとり暮らしだって何だってできるだろうに。
金もあるようだから、部屋ももっといいとこを借りたらいい。
部屋を借りられない他の原因があるとか。例えば……反社とか?
(ないではないかも……)
瞬は伸幸のことを何も知らない。
それか、もしかして、前の住人が何かの拍子に戻ってくるのを待っているとか?
(いや、だから、この部屋の主は俺だって)
「瞬くん、何考えてます?」
「え?」
伸幸が至近距離で瞬の顔をのぞき込んでいた。
「うわあっ」
瞬は慌てて飛びのいた。
「何ですかそれ……熊じゃないんですから、そんなに驚かないでくださいよ」
(いやあ、ほとんど熊だったじゃん、あんた……)
初めてこの部屋に現れたときの伸幸。
そのビジュアルは野生の熊っぽかった。
泥だらけで、くせのある髪も固まって、広い背中に小さなナップザックをしょって。
風呂を使わせて、こざっぱりした伸幸を見て、瞬は正直ドキッとしたのだ。
(キレイにしてれば、ビジュアルは好みなんだよなあ……)
横目でチラリと見る伸幸は、やや筋肉質で、肩幅もあって、瞬より多分五センチくらい背が高い。
「瞬くんは秘密主義ですね」
「は?」
「だから……」
小さなテーブルに肘をついて、伸幸は楽しそうに笑っていた。
「瞬くん、何か考えごとしてたでしょって。何を考えてたんですか?」
「え……!」
(そんな、アンタのことだよとは言えねえわ)
瞬は照れかくしに咳ばらいした。
「ゴホンゴホン。ああ、……今晩何食べる?」
伸幸はニコニコと笑っている。
「そうですね。瞬くんは、何が食べたいですか?」
「いや、だから、俺が訊いてんじゃん。俺なんか、どうせ何食ったって一緒だよ。味しねえんだから」
伸幸の顔から笑いが消えた。
「不思議ですねえ。瞬くんの作るものはどれもあんなにおいしいのに。いつから味、しないんですか?」
「さあねえ。三ヶ月くらい前からかな?」
いや、もっと前からだ。
少しずつ、食べる気持ちが萎えていったのだ。
でも、決定的だったのはあのとき。
ここへ引っ越してくる前のあのときだ。
伸幸がその長い指を瞬の首へ伸ばした。
「このへんでしょうかね」
瞬の首の後ろに指が触れた。瞬の身体がピクリとふるえた。
「な……なにが」
平静をよそおおうとするが、上手くいっているか分からない。
「ツボですよ」
「『ツボ』?」
「ええ」
伸幸は瞬の耳の後ろから頭の中へ、ゆっくり指をすべらせていく。
「味覚のツボ。それを刺激したら、瞬くんの味覚も戻るんじゃないかと」
「え……あんた、そういうの詳しいの? 鍼灸師、とか?」
声がうわずる。胸がドキドキする。
クスリと笑う気配がして、瞬の耳許で声がした。
「いえ、全然」
(耳許でささやいてんじゃねえよー!)
瞬は大きなアクションで伸幸を押しのけた。
「じゃ、何の意味もねえじゃんか。離せ」
「あはは」
伸幸は床に転がって笑っている。
「『あはは』じゃねえわ。まったく……油断もスキもねえ」
瞬は立ちあがった。
「買いもん行くぞ」
「はーい」
伸幸も続いて立ちあがる。
(「はーい」じゃねえよ。かわいいかよ。デカイ図体しやがって)
さっき触れられた首から耳の感触が消えない。
瞬は乱暴に靴をはいた。
「今晩何作るかは、店屋に並んだブツを見て決める」
「いいですね。プロっぽい」
「うるせ」
伸幸のデカイ図体が外へ出るのを待って、瞬はカギを回した。
いつものスーパーへの道。伸幸はもうすっかり覚えてしまったようだ。
ここへ越してきてから、生活はすべて徒歩圏で完結する。
近場のスーパーでは、バイト先のおばちゃんたちと遭遇することもある。
出くわして挨拶しないまでも、きっと何度も目撃されているだろう。
瞬は、自分に秘密はないとは思わない。
ウワサの的になるのも正直嫌だ。
だが、ここは人生の踊り場のようなもので。
何もかもから逃げてきた瞬の、ほんの一瞬を過ごすだけの街。
アパートも仮住まいなら、バイト先も、ここでの暮らしすべてが「仮」のものだ。
誰にどう見られ、どう思われてもいい。
細かいことに注意する気力も残っていなかった。
黙りこむ瞬に、伸幸が言った。
「あと、味覚障害には亜鉛を摂るといいって言いますよ」
瞬は思い切り不機嫌な声を作って応えた。
「何だよ、今度はなんちゃって薬剤師か?」
「あはは、うまいこと言いますね」
「うまくねえわ」
瞬が伸幸のスネを蹴るまねをすると、伸幸はまた嬉しそうに笑った。
瞬は伸幸の笑顔を見上げて思った。
(そういやこのおっさん、いっつも笑ってんな……)
さあ、今夜は何を食べようか。
スーパーまでは、もうすぐだ。
昼といわず、夜といわず。短時間で戻ることもあり、二、三日戻らないこともあったが、いつも戻ってきたときには、意味不明な食材を大量に持っていた。
ほとんど自炊をしなかった瞬も、伸幸の持ってきた食材があればそれを調理して、ないときには作ったり作らなかったりした。
別に瞬がいないとき、伸幸が出かけても問題はない。伸幸はこの部屋のカギを持っている。自由に戸じまりをして出入りできる。
(カギな……)
伸幸はカギを返すつもりがないのだろうか。
今この部屋の主は瞬だ。前の住人と伸幸がどんな関係だったにしろ、カギの所有権は瞬にある。
(掃除も洗濯もやってくれてるし。メシの買いものもしてくれてるしな、会計こみで)
まあ、食べるのは大半向こうなのだから、ここは申しわけなく思うスジじゃない。
こんなに何でも自分でできる男が、なぜ瞬のところに転がりこむ必要があるのだろう。ひとり暮らしだって何だってできるだろうに。
金もあるようだから、部屋ももっといいとこを借りたらいい。
部屋を借りられない他の原因があるとか。例えば……反社とか?
(ないではないかも……)
瞬は伸幸のことを何も知らない。
それか、もしかして、前の住人が何かの拍子に戻ってくるのを待っているとか?
(いや、だから、この部屋の主は俺だって)
「瞬くん、何考えてます?」
「え?」
伸幸が至近距離で瞬の顔をのぞき込んでいた。
「うわあっ」
瞬は慌てて飛びのいた。
「何ですかそれ……熊じゃないんですから、そんなに驚かないでくださいよ」
(いやあ、ほとんど熊だったじゃん、あんた……)
初めてこの部屋に現れたときの伸幸。
そのビジュアルは野生の熊っぽかった。
泥だらけで、くせのある髪も固まって、広い背中に小さなナップザックをしょって。
風呂を使わせて、こざっぱりした伸幸を見て、瞬は正直ドキッとしたのだ。
(キレイにしてれば、ビジュアルは好みなんだよなあ……)
横目でチラリと見る伸幸は、やや筋肉質で、肩幅もあって、瞬より多分五センチくらい背が高い。
「瞬くんは秘密主義ですね」
「は?」
「だから……」
小さなテーブルに肘をついて、伸幸は楽しそうに笑っていた。
「瞬くん、何か考えごとしてたでしょって。何を考えてたんですか?」
「え……!」
(そんな、アンタのことだよとは言えねえわ)
瞬は照れかくしに咳ばらいした。
「ゴホンゴホン。ああ、……今晩何食べる?」
伸幸はニコニコと笑っている。
「そうですね。瞬くんは、何が食べたいですか?」
「いや、だから、俺が訊いてんじゃん。俺なんか、どうせ何食ったって一緒だよ。味しねえんだから」
伸幸の顔から笑いが消えた。
「不思議ですねえ。瞬くんの作るものはどれもあんなにおいしいのに。いつから味、しないんですか?」
「さあねえ。三ヶ月くらい前からかな?」
いや、もっと前からだ。
少しずつ、食べる気持ちが萎えていったのだ。
でも、決定的だったのはあのとき。
ここへ引っ越してくる前のあのときだ。
伸幸がその長い指を瞬の首へ伸ばした。
「このへんでしょうかね」
瞬の首の後ろに指が触れた。瞬の身体がピクリとふるえた。
「な……なにが」
平静をよそおおうとするが、上手くいっているか分からない。
「ツボですよ」
「『ツボ』?」
「ええ」
伸幸は瞬の耳の後ろから頭の中へ、ゆっくり指をすべらせていく。
「味覚のツボ。それを刺激したら、瞬くんの味覚も戻るんじゃないかと」
「え……あんた、そういうの詳しいの? 鍼灸師、とか?」
声がうわずる。胸がドキドキする。
クスリと笑う気配がして、瞬の耳許で声がした。
「いえ、全然」
(耳許でささやいてんじゃねえよー!)
瞬は大きなアクションで伸幸を押しのけた。
「じゃ、何の意味もねえじゃんか。離せ」
「あはは」
伸幸は床に転がって笑っている。
「『あはは』じゃねえわ。まったく……油断もスキもねえ」
瞬は立ちあがった。
「買いもん行くぞ」
「はーい」
伸幸も続いて立ちあがる。
(「はーい」じゃねえよ。かわいいかよ。デカイ図体しやがって)
さっき触れられた首から耳の感触が消えない。
瞬は乱暴に靴をはいた。
「今晩何作るかは、店屋に並んだブツを見て決める」
「いいですね。プロっぽい」
「うるせ」
伸幸のデカイ図体が外へ出るのを待って、瞬はカギを回した。
いつものスーパーへの道。伸幸はもうすっかり覚えてしまったようだ。
ここへ越してきてから、生活はすべて徒歩圏で完結する。
近場のスーパーでは、バイト先のおばちゃんたちと遭遇することもある。
出くわして挨拶しないまでも、きっと何度も目撃されているだろう。
瞬は、自分に秘密はないとは思わない。
ウワサの的になるのも正直嫌だ。
だが、ここは人生の踊り場のようなもので。
何もかもから逃げてきた瞬の、ほんの一瞬を過ごすだけの街。
アパートも仮住まいなら、バイト先も、ここでの暮らしすべてが「仮」のものだ。
誰にどう見られ、どう思われてもいい。
細かいことに注意する気力も残っていなかった。
黙りこむ瞬に、伸幸が言った。
「あと、味覚障害には亜鉛を摂るといいって言いますよ」
瞬は思い切り不機嫌な声を作って応えた。
「何だよ、今度はなんちゃって薬剤師か?」
「あはは、うまいこと言いますね」
「うまくねえわ」
瞬が伸幸のスネを蹴るまねをすると、伸幸はまた嬉しそうに笑った。
瞬は伸幸の笑顔を見上げて思った。
(そういやこのおっさん、いっつも笑ってんな……)
さあ、今夜は何を食べようか。
スーパーまでは、もうすぐだ。
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